016:3人の弟子たち

 冷えた空気が暖まってくる。日差しによるものかと思いきや、道場で拳を振るいて脚で舞うふたりの熱気によるものだと気付くのに何秒要したのだろう。


 いや気付くはずもなかった。気付ける余裕がなかった。大胡は目の前でメリメリと筋肉を鳴らしている化物――少年は、目の前にいる自分を深い眠りから目覚めさせた愚か者をどうしてくれようかと爪を鳴らし、牙を尖らせた。


 そんな化物を大胡は目覚めさせてしまったのだ。自らの拳で。化物の力量を見定めようとしたが、これでは十分に計れるかどうか解らない。それどころかそんな余裕があるのかも解らないのだ。


「だけど、怯む訳にもいかないよなぁ」


 苦笑いを浮かべて聖の様子を伺う。出方次第で何通りの対応が可能だが、それは人に対応する術だ。


 相手が化物では人と同じ対応で通じるかどうか、不明なのだ。


「う――あ」


 生気が感じられない虚ろな目をしている聖は、その表情とは裏腹に熱い息を吐いていた。それほどゆっくりとしている呼吸は、まるでドラゴンが炎を吐いているかのように。 


 そして大胡が様子見故に少し爪先を動かした時だった。


 聖の姿がその場から消えた。大胡の視界から完全に失せる。――違う。肉眼で視認できる範囲を超えて移動しただけだ。


 気配はそこまで目立った動きをしていない。


 ――横には移動していない。またm下に移動したならば必ず視認できるから気付く。


 だとしたら、


「凄いな。魔術を使っていないのに、人間の筋力でそこまで跳躍を可能にしているとは」


 驚いて上を見る。そう、聖は大きくジャンプしていた。大胡には見えないほどの筋力を発揮して、高速の跳躍を見せた。


 聖の背後には窓がある。その位置は3メートルほどの場所にあり、普通は開けない。なので窓を守る柵を掴むのは簡単なのだが、3メートルもの距離を跳躍できるはずがない。


 しかし聖は簡単にやりとげた。3メートルの跳躍の後に柵を掴んで壁に足の裏を付けて再び体勢を整える。


 直後に、ダン! と空気が鳴った。足の裏で壁を思い切り蹴った音が空気を振動させた。まるで大砲のような音量と空気の圧力。聖は大きく宙を舞う。


「後ろか!」


 獣のような跳躍で大胡の頭上を通り過ぎる。が、落下角度が異常だった。放物線を描くと思いきや、放物線の半円の頂点を通り過ぎてからカクンと90度、軌道が変更された。


 まるで射ち落とされた鳥のように。


 なにが起きたかと疑問に思ってからそれを理解する時間さえ大胡には与えられなかった。


 考える暇を無理矢理詰めるように聖が攻撃を嗾けたのだ。まだ着地から体勢も整えずに攻撃に移った。畳の上には肩から落ちた。首と後頭部の衝突を受け身の様な方法で和らげ、両足の爪先を床に付けると同時に跳びかかって来た。


「く……!」


 聖は右腕で手刀を突きだした。その速度は意識がある時の3倍はある。これを左腕で受ける。道着越しでも物凄い衝撃だった。素手で受けていれば皮膚が破けて出血していただろう。


 突き出した手刀は戻さなければ次の行動に支障が出る。大胡はそこで再び反撃しようと思っていた。だが聖の行動に目を見開いた。右腕を戻すと同時に左足を踏み出して左手の手刀を突きだしてきた。


 つまり攻防一体の戦術。追加効果として1歩前に出て距離を詰めるという、自分の立ち位置を優位にできる技だ。。


「先生の戦法、こんなとこで真価を発揮するなんてな……!」


 詰められた距離を離すため、大胡は今までの2倍の力で畳を踏みつけて5歩後退する。


 その5歩は細かい足取りでとにかく速い。2メートルほどの距離が開く。しかし聖はすでに左手の手刀を突きだした直後だというのにそれを収納せずに突撃を開始した。大胡が5歩で後退した距離を2歩で詰める。


 その2歩で飛び跳ねて空中で回転し、脚を薙ぐ蹴り。移動と共に攻撃する。


「ちぃっ」


 回転脚を膝を折って半身になって回避すると、聖が着地した直後に右足を翻す。半身の状態で滑るように聖の懐に潜るともう1回転して両足を蹴り飛ばそうとする。


 しかし大胡の足払いが当たることは無かった。手応えが無い。


 聖は再び宙に舞っていた。また3メートルは跳んだだろう。人間の筋力の限界を超えた様な動き。獣のような身体能力。受け身を取らずとしても攻撃に移れる精神。異常だった。


 これが聖の本当の能力。意識、いや理性そのものがないのだろう。故に痛覚も気にならない。眠っている時に脚を抓られても、なにも覚えていないのと同じ。


 今の聖は半分だけ眠っている状態なのかもしれない。そしてその半分は人間が獣だった時の原始的な攻撃本能が呼び起こされているのか。


 確かにこれは普通の人間が相手を出来るはずがない。理性がない獣、例えば極度な空腹に苛まれているライオンを相手に素手で立ち向かっていくようなものだ。


 しかし聖は空腹なライオンではない。化物だ。祖母に鍛えられて教わった戦術が体にしみ込んで無意識の内に使っていた。それがなければ今頃噛みついて攻撃していただろう。


 ならばこれを鎮める方法は数択に絞られる。その内でも最も最善な方法を選択した。


「お前の能力は見せてもらった。でもこれが限界じゃないんだろうな。ほんの一部。……でもそれがわかったからそれでいいや。悪かった、眠ってくれ」


 呟いて聖との距離を一気に詰める。攻撃を出した直後だったので、聖は全力で突き伸ばした手足を引くことが出来なかった。


「ぐ、がッ?」


 言葉にならない呻き。大胡を睨み、もう引いても間に合わない手足での攻防は諦めた。首を後ろに伸ばして、額を下に引く。頭突きをするつもりだ。


「もう遅い。諦めてくれないか」


 頭突きが放たれることはなかった。


 聖が頭突きを放とうと奥歯を食い縛り、肩を前に突き出し始めた時には、大胡の右手が聖の鳩尾を穿っていた。


「おぼっ……つぁ?」


 ガクガクと震える膝。空気を求めて開いた口腔から涎が垂れる。震えが体全体に広がった時、とうとう聖は意識を手放した。


「ごめんな聖。痛かったよな」


 完全に意識がない聖を優しく抱えて畳の上に寝かせる。他にどこにも怪我がないか確認して、ようやく大胡は緊張を解いた。


 大胡は武術に長けているのだが、聖を相手にする時は余裕がなくなってしまう。そこには決して情は無い。つまり聖が日々成長しているという証拠だ。


「俺を超える日は近いかな」


 苦笑いを浮かべ聖に手を伸ばした時、遠くから聞こえる複数の足音に気付いた。朝練習をしに来た部員達だろう。そういえば、雪歩たちに朝練を10分ほど遅らせるように連絡したのを忘れていた。


 この状態を見られるのはちょっとまずいので、大胡は急いで聖を抱き起こすと、その行動とは裏腹に乱暴に肩に担いだ。


 直後に道場の扉が開く。


「お早うございます大胡先生。って、聖くんと何してたんですか?」


 そこには無敵武道部の部員全員が揃っていた。みんなの目の前には可愛い1年生がボロボロになり、それが顧問の教師に担がれている始末。


 人数は少ないものの、2、3年生は全員聖を気に入っていたので、気を失っていたら心配になる。


「大胡先生。今日は確か道場の点検の都合で朝練を10分短縮して、遅れて来いって言ってましたよね。それがなんで聖くんをボッコボコにしてるんですか?」


 堂々と胸を張って意見するのは冬峰雪歩だ。聖を弟のように想う雪歩にとってはこの事態の詳細を知りたいところだろう。だが大胡は一切の説明をせずに道場を後にしようとした。


「詳細、後で聞かせてもらいます。――


「まぁ、後でな。それから学校では大胡くんはやめてくれよ、雪歩」


 大胡と雪歩は、聖の祖母のところで体を鍛えていた兄弟子と妹弟子の関係だ。なので学校でなければ気兼ねなく名前で呼び合える仲だった。


 道場の暖まった空気がふたりの言葉の剣で再び冷却されてしまった。


 雪歩の睨みと口調は刃の様に大胡の背中に突き立てたのだが、大胡は背中越しにその殺気を感じとるも一度も振り返らない。そしてそのまま部員達を割らせて道を作り、道場を出てしまった。


 道場にはしばらくの沈黙が続いた。痛い程の。


「部長、あれって……」


 2年生の女子が雪歩に話しかける。が、雪歩は首を振って言葉を中断させた。


「多分アレでしょ。1年生の実力を計りたくって、ふたりきりになったんだけど、ひじ……緋之くんが力み過ぎてなにかの拍子に頭ぶつけて気絶しちゃったんでしょ。――さ、先生はもう行ったし。私たちは私たちで朝練始めよう!」


 雪歩自身も心配と不安で満たされていたが、今はみんなを統率しなければならない立場なのだ。私情でいい加減な訓練をしてはいけない。それは理解していた。


 なので今は自分のなかにある余計なものを押し殺し、部員を纏めて朝練を始めた。



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