配達員とサンタのクリスマス (4)
強制的に始められたサンタとの勝負。
それは、俺達の敗北で。
結果として、俺は……。
「それじゃあ先輩! トナカイの仕事頑張って下さいね!」
「だから、何でそんなことになるんだよ!」
おかしいだろ。どう考えても。
「でも、負けたのなら仕方がないじゃないですか」
「つーか、罰ゲームとか言い出したのもお前だからな! 何なんだよマジで! お前が全部の黒幕になってるじゃねえかよ!!」
「まあグダグダ言っていないで。ほら、トナカイなんですから、トナカイらしく鳴いて下さいよ。あれ、トナカイの鳴き声ってどんなのでしたっけ?」
「だから、ぶっ飛ばすぞお前ぇー!!!!」
もう、本当にどうしてやろうか。
コハネはもう頼りにならない。自分の力で何とかするしかない。
ここは俺の弁舌と交渉力で、何とかトナカイ扱いを回避しなくては。
さもないと待っているのは、全身タイツとかいう人間としての尊厳を大幅に損なう感じの衣装だ。
冗談ではない。裸よりもよっぽど恥ずかしい。
色々と考えながら、先にゴールを決めたサンタ少女&変態トナカイに近付く。
大丈夫、相手は小娘だ、きっと簡単に言いくるめられる。
先に屋敷の敷地内に入られ、勝負に負けたことは事実だが、そもそもコハネが勝手に決めた取り決めなのだ。そんなの、ノーカウントだ。
「おい。言っておくが、今の勝負だけどな……」
しかし、サンタとトナカイは、特に何を言うでもなく、その場に立っている。
てっきり、俺達に対して、勝ち誇った態度の一つや二つでも見せて来るかと思っていたのに、そんなことはなく。
むしろ、何か悔しがっているような様子で。
「おい。聞いているのか? 今の勝負は……」
「引き分け、じゃな」
「そう、引き分け……って、はぁ?」
思わず聞き返してしまった俺に、サンタ少女は苦い顔で呟く。
「この屋敷には、煙突が無いのじゃ」
「煙突って……それがどうかしたのか?」
「煙突が無ければ、サンタクロースは中に入ることは出来ない。敷地内には入れたとしても、屋敷内に入ることは出来ぬのじゃ。従って、この勝負は引き分けじゃ」
「えええええ……」
何だそれ。そんなのありなのか。
確かにサンタクロースといえば煙突から入るものと相場は決まっているが、そこは何となく誤魔化していいところではないのかよ。
伝統を守るあまり、中に入れなくなっているんじゃ、本末転倒じゃないのか。
「いつもなら、速攻で煙突を建設して中に入るのじゃが、そんな余裕も無くお主らもゴールしてしまったからな。数秒足らずで煙突を作り上げるルドルフの職人技。是非とも見せつけてやりたかったがのう。しかし、結果は結果じゃ。お主をトナカイにすることは諦めよう」
「お、おう」
どうにかトナカイは回避出来たようだ。
何だか良く分からないけど、ここは素直に喜ぼう。
よかった、トナカイになる未来なんて無かったんだ。
「惜しいのう。三食飯付き、福利厚生も完璧で、有給休暇もたっぷり用意されているという職場なのじゃが。勿論、四半期毎にボーナスもたんまりじゃ」
「…………!!」
惜しいとは思ってない。
惜しいとは思っていないぞ。
「先輩、惜しいって思ってますよね?」
「思ってない!!」
絶対に思っていないからな。絶対に!
「じゃあほら、一緒に中に入って、男の子にプレゼントを渡しましょうよ」
「な、なんじゃと!? 儂も中に入って良いと言うのか!」
「勿論です。勝負が終わったら先輩も、ロザリアさんも、もう仲間です」
「な、なんということじゃ!」
コハネの言葉を聞いたサンタ少女のロザリアは、何故か感動した様子でその手を取る。
「小娘、儂はお主のことを誤解していた! 資本主義に毒された、愚かな豚だと思い込んでいた! しかし、お主は清き心を持った素晴らしい少女じゃった。儂の誤解をどうか許して欲しい」
「いやあ、えへへ」
「そいつ俺を売ったんだが……」
むしろ、澱んだ心を持った凄まじい畜生だろ。
文句が死ぬほどあるんだよ、こっちには。
そんな俺の肩にそっと手を置いて、ゆっくりと首を振る変態……じゃなくてトナカイ。慰めるなよ。惨めになるだろ。
「実際に話をしてみると、サンタも結構良い人ですね。まあ、良い人じゃなければ、世界中の子供達にプレゼントなんて酔狂なこと、する筈ありませんけど」
「うむ、そうじゃろうそうじゃろう」
「ただまあ、いくらプレゼントの為とはいえ、不法侵入はどうかと思いますけど。だって、どう考えても犯罪ですもんね」
「そうじゃろうそうじゃ……」
「そんな犯罪者から、得体の知れないプレゼントが届けられた子供達の親御さんの気分はどうなんでしょうね」
「……貴様、今なんと言った?」
瞬間、サンタ少女の表情が変わった。
「え? 枕元に身に覚えのないプレゼントが置かれているって、親御さんからしたら軽いホラーですよ? むしろ一生残るトラウマなのでは?」
「き、貴様! やっぱり、そこに直れ! 性根をたたき直してくれるわ!」
「何でですか!? ただ私は長年気になっていた想いを吐露しただけなのに!」
「その疑問が、我々を愚弄していると言っておるのじゃ! おのれ、しばき倒して、教育してくれるわ!!」
「はぁ? 何を言ってるんですが、この不法侵入者! あなたなんかに教わることなんてありませんよーだ! この犯罪者!」
「おのれおのれおのれぇぇぇ!!」
向き合うコハネとサンタ少女。
お互いの眼には、メラメラと炎が燃え上がっている。
そして2人は、つかみ合いのケンカを始め……。
「はぁ……」
とりあえず。
俺の中の、サンタクロースに対するイメージは、二度と元に戻ることは無いだろう。
勿論、トナカイもだ。
◆ ◆ ◆
そうして、俺達は無事に、配達の品を届けることが出来た。
最後までサンタ少女のロザリアは『誇り高き儂らが玄関から入るなど』だなんだとゴネていたけれど、結局揃って玄関から屋敷の中へと入ったのだ。
屋敷の一室、部屋の中には、無数のロボットに囲まれて、幼い男の子が1人、ニコニコと微笑んでいた。
何の邪気も無い、朗らかな笑み。
すっかり気分が沈んでいた俺ですら、毒気を抜かれるかのような……。
「……いや」
男の子は良いとして、周りにいるロボットがそれはもう全身凶器というか、明らかにヤバい感じのデザインしかいないので、思わず身構えてしまう。
右の奴は手がチェーンソーになっているし、左の奴はモヒカンがチェーンソーになっている。真ん中の奴に至ってはもう四肢の代わりにチェーンソーが生えちゃっているし。チェーンソー多いな、この屋敷。
そんな凄まじい連中に囲まれていて、良くもまあこの男の子は平気でいられるな、と思ったけれど。
きっと、これが男の子にとっての普通、日常なのだろう。
だからこそ、特に怖がることも無く、恐れることも無く、素直にこの日常を受け入れている。
かつては、違う目的の為に造られたであろうロボット。
そのチェーンソーは、何かを傷付ける為に作られた物なのかも知れない。
しかし今。
そのチェーンソーは誰も傷付けることなく。
そのロボット達は、ただ、その男の子を想い。
また、ロボット達も同じように、男の子の方から想われているのだ。
その証拠に。
俺は、手の中の配達伝票を見る。
そこに書かれているのは。
品物 : 世界一楽しいオモチャセット
おところ : 星刻館の一番奥の子供部屋
お届け日時: クリスマスの夜
配送方法 : お急ぎ便
「わぁ、何だかいっぱい入ってますね!」
コハネが、感嘆の息を漏らす。
俺達が配達してきた大きな箱の中に入っていたもの。
それは、サッカーボールに野球のバットとボールと言った沢山のボールやスポーツグッズ、沢山のボードゲーム、沢山の楽器に、沢山のパーティーグッズ。
それは、どれもこれも、誰かと一緒に遊ぶ為の物だった。
独りではなく。
誰かと共にある物。
この世界に残された、ただ1人の人間ということも、関係なく。
この世界にいる全ての存在が、男の子にとっては、等しく大切なものだから。
周りにいるロボット達と、共に楽しみ、遊べるものこそが、男の子が望んでいた贈り物だったのだ。
「大量のオモチャ、ですか。でも、これってチートアイテムなんですか? 何だか、ただのオモチャのようにしか見えないんですけど」
「バカ。確かに見かけは普通のオモチャだけどな。重要なのは、受け取った側がどう思うかなんだよ」
「はぁ、また先輩にしては似合わないことを言いますね」
「うるせえよ」
例え、世界の理を無理矢理覆す程の力を持つチートアイテムの類ではなくても。
ただ、受け取った相手の心を満たし、
そして、その相手の周りの世界を変えることが出来るのならば。
それもまた、十分に大きな力を持つ。
世界を変える程の力を秘めていなくても。
きっと皆で幸せになれるのだと、そんな願いの結果として。
「ふん、資本主義に毒された愚かな豚のくせにやるではないか。まさか、儂らと同じ物を配達しているとはのぅ」
どうやら、サンタの包みの中身も同じように、周りのロボット達と遊ぶ用のオモチャが大量に入っていたらしい。
別に張り合うわけではないが、勝負に負けて後出しの配達にならなくて良かったとは思う。
そうして、
無事に配達を終えた俺とコハネ。
プレゼントを渡したサンタのロザリアと、トナカイのルドルフはと言えば。
そのまま屋敷を辞去しようとしたところ、男の子に引き留められ、俺達が配達したオモチャで一緒に遊ぶことになったのだった。
正直、早く会社に戻って倉庫の調査をしたいところではあったのだが、またもや張り合い出した、コハネとロザリアに引き摺られる形で、俺も無理矢理遊ぶことになったのだ。
全身凶器のロボットと遊ぶのは若干怖かったけれど、まあサッカーや野球くらいなら問題ないだろう。途中でサッカーボールが真っ二つに両断されたり、キャッチャー役のロボットが色々あって吹き飛んだりと、少なくとも退屈だけはしないような一時だった。
こうして、何も考えないで遊ぶのは、いつ以来のことだろうか。
思い出すのは、子供の頃。
何の悩みも無しに、素直に、ただ楽しく遊んでいた日々。
未来に何が待っているかなんて、考えもせずに。
ただ、毎日を過ごしていたこと。
……いつも、隣にいたあいつと。
「あれ、どうしたんですか、先輩。もう遊ばなくていいんですか」
ロボットとのストラックアウト対決を終えたらしいコハネが、大きく伸びをしながら近付いて来た。最終的にはロボットにボールをぶち当てていたんだが、お前は本当になんなんだよ。
「……もう十分遊んだからな。こんなに遊んだのは、本当に久しぶりだ」
「あんなに必死になってサッカーボールを蹴る姿、中々見られるものじゃありませんでしたよ」
「当たり前だ。つーか、俺の華麗なテクニックを見せてやったんだから、その分なんか金目の物を請求しても良いよな? どうせ誰も使わないんだから」
「またそういうことを言う……」
「何言ってるんだ。正当な権利だろうが」
「まあ、あのロボットさん達の監視をかいくぐって家捜し出来るんなら、やればいいじゃないですか」
「…………」
「多分チェーンソーって痛いと思いますよ」
「多分じゃなく痛いだろ。間違いなく」
やれやれ、と肩を落とす。
「お前、もう遊ばなくても良いのか? 」
「はい。あのサンタとのモノポリーは決着尽きましたし。もう一日分は遊び倒しましたね!」
「あれで一日分って……お前、普段どんだけ遊んでるんだよ。真面目に仕事しろよ」
「先輩には言われたくないです」
「まあそうか……」
「ロボットの皆さんも、凄く楽しそうでしたし! 見た目に反して、皆さん良いロボットさんでしたよね!」
「そうだな。あのチェーンソーは確かに物騒だけど、造られた理由がどうあれ、造られてから何をするかの方が、きっと大事ってことなんだろうな」
「はい。そうです、よね……」
沈んだ声。
それに違和感を覚えるよりも早く、コハネが問う。
「……そう言えば先輩、何だか遠い目をしてましたけど、何か考えていたんですか?」
「ああ……」
一瞬だけ悩み、しかし話す。
「妹のことを、思い出していた」
「妹って……先輩、妹さんがいたんですか」
「ああ」
「へー、そうなんですね。っていうか、ちょっとだけ意外でした」
「以外って、何が?」
「だって、先輩が個人的な話をすることなんて、めったに無いですから」
コハネは、俺の隣に腰を下ろすと、僅かに上目遣いでこちらを見上げてくる。
「だから、ちょっとだけ嬉しいです。前にアラタさんから話を聞いた時も嬉しかったですけど、今の方がずっと。ようやく先輩に一歩近付けたような気がして。だって先輩、いつも私に何かを隠しているみたいだったから」
――だってヒビキ君、コハネ君に対して、隠していることがあるじゃない。
不意に、頭の中に社長の言葉が蘇る。
「私、先輩の妹さんに会ってみたいです!」
「……はぁ?」
「だってだって、ようやく先輩が私に心を開きかけてくれたんですよ! これを機に、もっと距離を近付けたいと思うのは当たり前じゃないですか。何故なら私達は、パートナーなんだから!」
「……仕事上のな」
「将を射んとすれば、まずは馬からですよね!」
「俺達はお前に射貫かれる運命なのか?」
「まあ細かい事は良いじゃないですか。妹さん、何処にいるんですか? いつなら会えますか? 来週の週末はどうですか? 私、どんな服を着ていけば良いんですか?」
「お前、いいから落ち着け」
「会いたいです! 先輩の妹さんに会わせて下さいよー!」
だだっ子のように両手を振るコハネ。
それはまるで、自分のワガママをどうにかして押し通そうとする幼子のようで。
その姿が、不意に何かに重なったような気がした。
いや、何か、などと誤魔化す必要はない。
それは俺の妹の姿だ。
「会いたい、か……」
不意に、口に出た言葉。しかし、その一言が契機だった。
脳裏に浮かび上がるのは、いつも笑顔で、自由奔放に走り周り、しょっちゅう俺の手を焼かせていた妹、苅家サツキの姿。
しかし今は、あの、白い病室で、多数の機械に囲まれて眠っているサツキの姿。
「会いたい、よな」
感情が。
止まることのない感情が、胸の中にわき起こる。
会いたい。
今俺の中にあるのはそれだけだ。
何を犠牲にしたとしても、取り戻さなければならない。
その先に待つものが、何であろうとも。
「先輩? 先輩ー? 突然覚悟を決めた瞳になってどうしたんですか? 不覚にもちょっとカッコイイと思ってしまったので、私は慰謝料を所望します」
コハネの放言を聞き流しながら立ち上がる。
そして、何でもないと言うように、微笑んで。
「おいコハネ、戻るぞ」
「え?」
「俺達の、会社に」
◆ ◆ ◆
こうして、一つの配達と、一つの決意が終わり。
俺は、またもチートアイテムが格納されている『OZ』の地下倉庫、その壁の中に隠された扉の前に立っていた。
「おや、ヒビキ君。こんな時間にどうしたんだい?」
「……社長」
そこで俺を待っていたのは、柔和な笑顔をその顔に貼り付けた『OZ』の社長。
まるで最初から、俺がここに来ることを知っていたかのように。
そして、俺がここに来るのを待ち構えていたというように、そこに立っている。
「まあ良い、ヒビキ君。ここまで来たのだから、もう互いに勿体ぶるのは止めようじゃないか。ほら、君の探しているものは、これだろう?」
「……ッ!?」
そう言って、社長は、胸元から、ある物を取り出した。
それが何であるかを視認した瞬間、俺は、身体の芯が沸騰したかのような感覚に襲われた。
それは、ずっとここまで探し求めていた物だ。
どうして、社長がそれを持っているのか。
どうして、今俺の目の前にそれを見せているのか。
いや、関係ない。
求めているものが、目の前にあるというのなら、やるべきことは一つだ。
その為の覚悟は済んでいる。
「そいつを……」
寄越せ、と社長に詰め寄ろうと、一歩を踏み出す。
もう、事がここに至っては、社長がどうとか、『OZ』がどうとか関係ない。
それさえ手にしてしまえば、もうこんな会社に用はない。金を稼ぐ必要も無い。
それさえあれば、妹を、サツキを救えるのだ。
だから。
どんなことがあってもそれを手に入れようと、いざとなったら社長を殺してでも奪い取ろうと、踏み出そうとして。
「待って下さい、先輩!」
「コハネッ!?」
しかし、それは果たせなかった。
社長を庇うようにして。
コハネが、俺の前に立ちはだかっていたからだ。
「……何でお前が、ここにいる。さっき、社員食堂に行くって言ってたろうが」
「先輩が、いなくなったからです」
コハネは、不安そうな顔で答えた。
そんな顔をしたこいつを、これまでに見た事が無かった。いつでも、いつだって、朗らかに笑っているような、そんな奴だったから。
「ここ最近、先輩はずっと、何かに悩んでいるような様子でしたから。それで、こっそり後を付けてみたら、こんなことに」
「余計なことを……」
「先輩、どうして、こんなところにいるんですか? こんな倉庫なんて、もう今日の分の配達を終えた私達には関係じゃないじゃないですか。それなのにどうして、隠れるようにこそこそと、こんなところに……」
「うるさい!」
突き放すように、声を荒げる。
「うるさいって……わ、私は先輩を心配して……」
「黙れ!!」
やっと、ここまで来たのだ。
何もかもを積み上げて、ようやく、ここに来たのだ。
だからもう、誰であろうとも、俺を邪魔するものは許せない。
それが、ここまで運命を共にした、ただ1人の後輩であっても、同じこと。
だから俺も必死に声を張り上げて、叫ぶ。
「邪魔をするな! お前には、関係のないことだ!! 部外者は黙っていろ!!」
「…………え」
俺の言葉を受けた、その瞬間に。
コハネの瞳に浮かんだものを、何と表現すれば良かったのだろうか。
とても大切な何かから裏切られたような。
自分の心を、奪われたかのような。
そんな、徹底的にして致命的な、破滅らしきもの。
そして、コハネの身体が、ぐらりと揺らいだ。
まるで、魂を全て抜き取られてしまったかのように、意識を失い、そのまま倒れ込むコハネの身体は。
「コハネッ!?」
「……おっと」
後ろから、社長によって抱き留められた。
「いけないなヒビキ君。こんなことでは……」
「……何を」
「君にはまだ、知らないことがある。自分にとって近いものの事ほど、人は知らないものだからね。そうやって、いつも、手を離すのだから」
「だから、何を!!」
俺の言葉には答えずに、社長はそっとコハネの耳元に口を寄せると、何事かを囁いた。俺には聞こえない程の小声で。
その言葉を、吹き込まれたコハネは。
「……あれ?」
ゆっくりと、目を醒ました。
先程の、すっかり意識を失って倒れ込んだ時のような様子は、何処にもなく。
まるでいつも通りの、普段と同じ様子のコハネだった。
「あ、あれ、先輩、何してるんですか?」
「……は?」
コハネは、今初めて目の前にいる俺の存在に気が付いたかのように話す。
「あれ? ここって……確か、倉庫ですよね? 私、どうしてこんなところにいるんでしょう? 確か社員食堂に向かう筈じゃあ……」
「お前、何を……」
「って、何で私は社長に抱かれているんですか!? これって、とんでもないサスペンスの香りがしますよ! 何かこう、二時間ドラマ風の何かが行われようとしているような気がします!!」
「…………お前」
「あ、そういえば私、プレゼントを貰っていませんでした! 一生の不覚です! まあサンタさんに連絡先は教わったので、こちらからプレゼントを貰いに行くことは可能ですけど!!」
そうやって騒ぎ立てるコハネの姿に、不審なところは見られない。
俺を騙そうとしているようには、何か演技をしているようには、とても見えない。
自分の身に起きたことを、覚えていないのだ。
自分が何をしていたのか。
そして、ここに現れて、俺からどんな言葉を掛けられたのかも、恐らくは覚えていない。
直近の記憶だけが、抜け落ちてしまっている。
コハネを、そんな風にした元凶。
社長は、こちらに向けて、何かを放り投げる。
「ヒビキ君。受け取りたまえ」
「……ッ!?」
反射的に受け取ってみれば、俺の手に握られていたのは、小さな瓶。
血塗られたような色の、赤い小瓶だった。
「これは、まさか」
俺の疑問に、答えは、簡潔に告げられた。
「そう、それこそが、君の求めていたものだよ。何も疑うことは無い。君がずっと、この『OZ』に入社する前からずっと、探して来たそのものだ」
社長は、傲然と告げる。
まるで、こちらの運命を何もかも知り尽くした、神の如くに。
大きく手を広げて、足下で呆然と、何も知らないように事態を見守っているコハネの方に、僅かに視線を向けながら。
俺に対して。
「それこそが、君の探していた薬だ」
紛れもない真実を、告げるのだ。
「……それさえあれば、ヒビキ君の妹。苅家サツキさんの命が失われることは、回避出来るよ」
つづく
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