第19話 午睡
一階に降りてきてみたのはいいが、居間に人の気配はない。部屋もすっかり片付いていて、パンパンになったゴミ袋が、宴の痕跡として残っているだけだった。それなら、ふたりは別の部屋にいるのだろうか。廊下をたどりながら、和室の引き戸がわずかに開いているのを見つけて、そっと中を覗いてみた。
部屋の中では、昨日の女性が、ちゃぶ台の向こうで、眠っている母を膝に乗せている。長い指が何度も母の背中をさすっていた。西陽に照らされたその横顔は、なんとも神々しい。朝の鮭を貪る女性と同一人物というのが信じがたかった。思わず、頬に手をやる。
すると、物音に気付いたのか、彼女がこちらを見た。すっと通った背筋、柔らかな眼差し、口元には微笑。まるで、この世のものではないような。ぞっとした。自分でも自分が何に怯えているのかわからない。それでも、ぼくは怖かった。
彼女の口元が、何か言いたげにわずかに開く。でも、声は出ない。ぼくは黙ってまた戸を閉めた。仄暗い廊下で、冷たい床板をしばらく眺めていた。
それからふと、昼間の電話のことが気にかかった。迎えにくると言っていたけど、本当だろうか。冗談かもしれないし、ぼくをからかっているのかもしれない。それでも、着替えておこうと、そう思った。片付けをしていたので、着ていたシャツはもはや薄汚れている気がする。ぼくはシャワーを浴びて、ラフな格好に着替えてリビングに座った。どことなく落ち着かない気持ちのまま、椅子をぎいぎいと鳴らす。じっとしているのが苦痛のような、かといってなにかをする余裕もないような、そんな気分だった。
しばらくすると母が目をこすりながら起きてきた。
「ごめん、寝てたのよ。今夕飯の用意するから」
「ああー、今日はいらない、かもしれない」
「え、なんで?」
「ひるま篠崎に会ったよ」
「ああ、のぼるくん。あの子よくそこ通るわね。ときどき話すの。いい子よね」
「夕方誘いに行くって」
「あら、まぁ」
小学生ぶりじゃない?と母の顔が明るく輝いた。そっかじゃあ今日は、いつも通りの三人前でいいってことね、母はそう独りごちながら、エプロンに袖を通した。
野菜を刻む音に耳を澄ましながら、母の後ろ姿を眺めている。こんな風に待つのは小学生の時以来だ。母の後ろ姿は、あのときよりもひと回り小さく感じた。
心地よい思い出の香りに、何かが妙に引っかかる。あの子はどうしているんだろう。あの彼女は、まだ和室にいるんだろうか、ひとりで。それとも帰るべきところへ帰ったんだろうか。いつも通りの三人前、という、さっきの母のセリフが気になった。ぼくの分を抜いて三人前ってことは、きっとまだ家にいるんだ。ひとりで何をしているんだろう。泣いているのかもしれない。眠っているのかもしれない。あの人はいったい、どこからきたのだろう。圧力鍋が泡を吹いた。
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