夜になる前に

第20話 人を待つことに慣れたらそれが大人

 もうすぐ7時になる。ぼくは緊張のあまり吐きそうだ。篠崎はやはりぼくのことをからかっていて、本当は誰も迎えになんか来ないのかもしれない。いつの間にかぼくの目の前にはあの女性が座っている。相変わらず作り物みたいな顔をしていた。ナーバスなぼくは、彼女の顔を見てもっと不安になった。人間味を感じさせない表情に恐れをなしたのかもしれないし、彼女の顔を見て自分の顔立ちの造りの粗さを実感したからかもしれない。調理場では母の作業もひと段落ついたようで、母は今テレビを見ながら刺繍を刺している。鍋から醤油の香りが漂ってくる。テレビの中では芸能人が美味しそうなハンバーグを頬張っていた。


 ふと、女の右手が動く。母の手元にそっと触れて、老眼鏡の向こうのやけに大きな目を覗き込んだ。

「あ、」

 母が声を上げる。

「ほんと、刺し間違えたわ、ありがとうね」

 彼女は相変わらず一切喋らない。もしかしたら話せないのかもしれない。こちらの呼びかけには反応するから、耳は悪くないと思う。そのくせ、いつのまにか母と女性の間にはコミュニケーションが成立しているようだった。人間五十を超えると、言葉などなくても意思の疎通が計れるようになるのかもしれない。ぼくにはきっと、あと30年くらい修行が足りないのだ。


 そうこうしているうちに、7時を20分ほど周っていたことに気づく。ああ、今日の夕飯は家で食べよう。どこかほっとして、胸を撫で下ろしたその時だった。

 ピンポーン、古い呼び鈴が鳴った。

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