おおきな落し物

第8話 夜の海には

 家に閉じこもってばかりいるのも精神衛生上よくない。かといって外出して他人と顔をあわせるのは億劫だ。そんなときは外出する時間を工夫することをおすすめする。だいたい深夜から朝方の5時くらいまでなら、まともな人とはまず顔を合わさない。こんな田舎で、世の中の寝静まった時間にひとりほっつき歩くのは、寛容な妻をもった釣り人か、よほどの物好きくらいだ。


 家の目の前にある川に沿って歩くと、ほどなくして海に出る。小さな頃に辿りなれた道は、当時と変わらない姿のままで、どんどん寂れていく町の哀愁さえ漂う。河口には錆びた自転車や空き缶のごみやなんかが浮かんでいて、ヘドロの臭いがする。なにもない町の、死んでいく姿。

 防波堤から海を覗くと、今日は随分波が高かった。鼻腔を刺激する海の匂いが懐かしい。アメフラシの体液を搾り取ったり、ヤドカリを無心で集めた日々がずいぶん遠く感じられた。悩みも過度な苦悩もなく、ただ目の前の全てを享受できたあの頃。ぼくにはきっと、もう二度と戻れない、あの頃。


 波消しブロックに乗ると、足元から波の振動を感じることができる。巨大で莫大な、波のエネルギー。子供の頃は、この隙間から足を滑らすんじゃないかと思うと怖かった。今も少し怖いのは、あの頃みたいに身軽じゃないから。海に落ちて助かる体力が、今のぼくにあるかというと疑問だった。


 年月を経て体が重くなったのを自覚したぼくは、あまり無理はせず、砂浜を歩くことにした。砂の上ではハマダイコンが逞しく根を張って育っている。彼らを眺めながら海の音に耳をすます。打ち寄せる波の音と、ごおごおという浜風の音。騒がしいのに、不快じゃないのは耳に古く馴染んだ音だからだろうか。空の色は深い青だ。澄んだ紺色をしている。そして海は、空よりももっと深い、黒に近い紺だった。澄んでいるのに、濁っている。どこまでも重くて、どこよりも深い。表面の白波はその海底のうねりを説明するにはあまりにも浅い。底知れないエネルギーをたたえた、巨大な青い水の塊。

 ぼくは黙って風に吹かれていた。身体中に吹き付ける風は激しくて痛い。ときおり風に乗って波の飛沫がぼくの方にまでやってくる。豊かな有機物を含んだ、潮のかおり。


 そのとき、激しい風に乗って、甲高い悲鳴のような鳴き声のような何かが聞こえた。思わず体を強張らす、鋭い音。ぼくはそのまま海の方へ、足を進めた。海鳥か何かが傷ついて鳴いているように聞こえた。もしくは、イルカみたいな、アザラシのような、なにか哺乳類の鳴き声。

 悲鳴は何度か鋭く響き渡って、そして最後には、地を裂く地響きのような、奇妙な音がして、だんだん尻切れに消えていった。激しい風の作り上げた砂の山から、波で削られて濡れた砂を見下ろす。何か動くものがあった。黒い影、ずるずると砂の表面を這うように動いている。ぼくは砂の山を崩れ落ちながら、それに駆け寄った。


「大丈夫ですか」


 影は近づくと人型をしているのがわかる。まだ若い、女性だ。腰まである長い髪は波にもまれてぼろぼろだった。体にはなにも身につけていない。何があったかは聞かないほうがいいように思えた。彼女の腕を持って助け起こそうとすると、


「ゔッ」


 と悲鳴のような唸りが彼女の口からもれた。怪我をしているのかもしれない。介助が必要だ、そう思った。ぼくは着ていたパーカーを彼女の腰に巻きつけると、袖の部分を自分の腰に括り付けた。彼女の手を自分の肩の上に導くと、ゆっくりと背中に彼女を乗せた。湿った砂の上に置いたジーンズが、お尻が、濡れてしまって不快だったけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。そう自分に言い聞かせる。


 自分の腰に絡ませた、白い足が冷え切って石のようだった。

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