家に帰れば

第5話 排水溝に流れていく

「遅かったのね、」


 テーブルの上で用意された夕飯がすっかり冷めていた。帰ってきたぼくを見て母がガタン、と椅子を鳴らす。濡れているズボンの裾を見た母の顔が曇った。テレビもつけないで、じっとぼくを待ってくれていたんだろうか。誰かを待たせることが、こんなにも後味の悪かったのはいつ以来だろう。


「ごめん、先シャワー浴びてくるから、食べてて」


 ぼくは母親から逃げるように脱衣所に引っ込んだ。この年になってまで、親に心配をかけるのは気持ちのいいものではない。小学生のころなら、服を海水で濡らして帰ってきたところで、いくつか小言を聞きながら、風呂場に突っ込まれて終わりだったのに。

 大人になるってなんて不自由なことなんだろう。塩水を含んでじっとりと重くなった服を脱ぐと、さっき怪我をした人差し指が痛んだ。ああ、みじめだ。子供のころは、大人になるのがこんなことだとは思ってなかった。大人になる、というのは、出来ることが増えていくことだと思っていた。


 熱いシャワーを浴びながら、潮のかおりを洗い流す。湯船からもうもうと立ち上がる湯気が、鼻の奥に残った海の粒をかき消していくような気がする。


 親父のシャンプーを借りながら頭を洗っていると、ふとぼくの隣で、子供のころのぼくが浴槽に潜って息をひそめているように感じた。あのころのぼくはシャン プーもちゃんと流さないで風呂に飛び込んで、よく親父に叱られていたっけ。

 

 あれからぼくは、いったい何ができるようになっただろう。自分で頭を洗って、ドライヤーで乾かすようになった?稼いだ金で米を買って、誰かを養えるようになった?それともひとりで立ち行ける術を手にした?

 そのどれもが不完全なまま、ぼくはまた年を重ねようとしている。風呂に沈んで水鉄砲の練習をしていた子供時代の方が、今よりもっと満ち足りていたような気がして、憎らしい。ぼくはシャワーヘッドを手に取り蛇口をひねった。天頂を勢い良くお湯で流すと白い泡が水に乗って滑り落ちていく。


 これ以上両親に心配はかけられない。排水溝をめがけて滑り込んでいく泡が、ぼくの将来を暗示しているようで怖かった。久々の実家の風呂は10年前と何も変わっていなくて。そしてなにより変わっていないのはぼく自身じゃないかと思うと、途端に震えるほど寒気がする。頭を掻き毟るように残っていた泡を流すと、シャワーを止めて床の水を足で拭った。排水溝には幾筋かの髪が残っているーー

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