第4話 人魚の歯

 こんなにも自分の非力さを嘆いたことはなかった。脳筋の同級生をバカにしていた過去が恥ずかしく蘇ってくる。暗闇の中でも際立つぼくの白くて細い腕。長年の運動不足がたたってやせ衰えた筋力。揺すっても、叩いても、瓶の蓋は開かなかった。度重なる衝撃に耐えかねてか、瓶の中の彼女も心なしかぐったりして見える。どうしたものだろう。もういっそ叩き割ってしまおうか、いやだめだ、そんなことをしたら中身が、彼女がボロボロになって崩れてしまう。もう一度、ぼくは瓶を海水に浸けて洗った。それから丁寧に瓶の周りを拭いた。また、瓶越しに彼女と目が合う。彼女はぼくの顔を見るなり悲しそうに顔を伏せた。諦めるわけにはいかない、そんな風に、思った。


 脇腹に抱えるようにして瓶を固定する。それから蓋にしっかりと手をかぶせ、大きく息を吸い込んで、止める。

「うっ」

 渾身の力で蓋を捻った。手のひらが痛む。だけど仕方ない。頼む、回れ、祈るような心持ちで力を加え続けた。すると、


 ごつっ、という鈍い音がして、蓋が僅かに動いた。もう一度反対にひねると、ずりずりという音とともに、茶色い汚れが指の上に落ちる。どうやら蓋が錆びかかっていたようだ。そのまま何度か動く範囲で蓋を捻ってはサビを拭いた。彼女が痛むのを承知で蓋を岩にたたきつけたりもした。蓋は軽く歪んだけど、へばりついていたサビが落ちていくのを感じる。もう一度力を込めて蓋を捻った。ごご、ご、っと唸りながら、蓋が動く。ひねる力を加え続けると、徐々に蓋が浮いている。ぼくはホッとした気持ちで瓶を持ち直し、ゆっくりと蓋を回し切った。

 ぱか、と蓋を開くと、錆びた金属の香りがする。瓶の中からは彼女がぼくを、首を長くして見上げていた。半身だけを水につけて、上半身は空気にさらされている。えら呼吸か、肺呼吸か、どっちにしろ閉じ込められていたのでは長くは続かなかったかもしれない。彼女は信じられない、とでもいいたげな顔でしばらくぼくの顔をじっと見ていたけど、やがてためらいがちに瓶の縁に手を掛け、ぐっと体を持ち上げた。ぼくの見つめる視線と彼女の目がまた合う。ななめに傾げた首の先で、彼女が笑っている。昔絵本で見た小鬼のような笑顔だった。そのまま彼女は上体を瓶の縁に沿って滑らし、ぼくの手のひらに這い出た。


「きぃ」


という甲高い声が聞こえた。手の上の彼女はヌメついていて冷たい。ぼくはその手を海水に浸した。彼女がぼくの顔を見上げる。


「いたっ」


 噛みつかれた、と思った。あるいはするどい爪が手の指に引っかかったのかもしれない。慌てて手を引っ込めると、彼女の姿はもうどこにも見えなかった。ああ、しまった、せめて写真でも撮っておくんだった。後悔したけど、役には立たない。どっちにしろ、ぼくは人差し指の腹から細く出血していた。慣れない親切なんて、するもんじゃないな。現実はお伽話みたいに甘くはないみたいだ。ぼくは茫然と、彼女の消えた夜の海を眺めているのがやっとだった。

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