第3話 蓋を開けて

 意識の遠くから、ばちばち、と鈍い音がした。瓶の内側から、彼女が分厚い硝子を手のひらで叩いている。口元がパクパクと動いた。叫んでいるようにも見えた。その動きは段々と激しさを増し、今、彼女は全身を使って硝子の壁に体当たりをしている。ぼくの手に重い音が響いた。けれども硝子瓶はびくともせず、水の中では剥がれた鱗がキラキラと光を跳ね返した。濡れた髪を振り乱しながら、彼女は半狂乱に暴れ狂っていた。さっきまでの静的な美しさが嘘みたいだ。だけど、これは、これで。


 どんどん激しくなる彼女の動きの一方で、ぼくの思考は奇妙にねじれていた。手を触れなくとも勝手に踊るスノードームを見つけ観察している。あるいは手に入れた野生動物を怯えながら檻越しに眺めている。もしくは、自分の手に入れた芸術作品が時間とともに変化して見せることを喜んでいる。そのどれもがしっくりくるような、こないような、実際ぼくは少し怯えていたが、同時に彼女にひどく興味を惹かれていた。ずっとこの中に閉じ込めて見つめていたい。だけど外に出してみたい気もする。だって、瓶の中では食事は?トイレは?酸素は?ぼくはそのときやっと気がついた。


 瓶の蓋は塞がれている。さっきから彼女は動いている。ぼくは今息をしている。でも、彼女は?彼女は息をしているのだろうか?そうだ、空気を、彼女に空気を。ぼくは瓶の蓋をぎゅっと握った。しかし非力なぼくの力では蓋はビクともしない。瓶を脇に抱え込み、力一杯蓋をひねった。それでも、蓋は開かない。思わず両手で瓶を抱え込んだ。また、彼女と目が合う。今度はその目は光らなかった。今はもう彼女はほとんど動かず壁にもたれかかっていた。瞳の奥にも、どこかしら絶望の色が浮かんでいるように見える。


 わかった、ぼくがなんとかする。彼女に伝わったかどうかは知らないが、ひとりで軽くなずいて、瓶の表面を着ていた衣服で固く拭いた。辺りはもう、すっかり日も暮れて、湿った夜の風が海の方からぼくの頬をさすっていった。

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