第69話 宝石箱

 新婚家庭というのがこんなにも、こんなにも地味にぼくのヒットポイントを奪うとは思わなかった。彼の奥さんは見た目こそちょっとあれだが、よく気のつくしっかりした人だった。十代のカップルのように、人前でいちゃつくことこそなかったが、ときおり交わされる視線にはお互いへの信頼感がにじみ出ており、見ていて羨ましくなるくらいだった。

 過剰でない、思いやりのある親切。登と彼女の阿吽の呼吸。彼らに悪気がないのはよくわかるのだが、ぼくをみじめにさせるには十分すぎる環境だった。


「気の利く奥さんで、うらやましいよ」

 手製の夕飯をご馳走になった後、登にそう告げると、彼は照れたように笑った。ぼくは人見知りの自覚があるのだが、彼の奥さん、愛由美あゆみさんはそんなぼくでも話しやすい相手だった。ほどよい距離間、おもいやり。登のように人の領域に土足でずかずか踏み込んでくることもなく、かといって間を持ちすぎるわけでもない。ぼくたちの話が弾めばふっと席を立つし、手持ち無沙汰になった頃を見計らってお茶やお菓子を進めてくれる。彼女の声はぼくにも耳障りがよく、特に何も意識しなくても会話が成り立った。飾らない、率直な人だ。初対面での印象はそんな感じ。

 よくよく考えてみたらなにも置物をもらうわけじゃないんだから、外見なんて大した問題じゃないのかもしれない。この居心地の良さこそが、他人と同居する上で重要なポイントなのかも。


「でも、あれだろ、お前もさぁ、いるんだろ、相手」

 登に言われてどきっとした。

「え?」

「噂になってっぞ、すげー美人の嫁がいるって」

「あの人は、」

 そんなんじゃないよ、という声が尻すぼみにかすんでいった。


「なんだ、まだ話詰めてないのかよ」

「そういう訳じゃなくて」

 京子に聞いたんじゃないの?と尋ねると、彼女からはなにも聞いていない、という答えが返ってきた。なんだ、あいつも案外口が固いんだな。安心したような、それでもやっぱり落ち着かないような不思議な気持ちで、座りの悪くなったぼくは椅子の上で最適の姿勢を模索する。

「彼女は事情があってうちで預かってるだけ」

「なんだー、じゃあ俺に紹介してくれてもよかったのに」

 そういう登を奥さんが凄い目で見つめている。カウンターキッチンで水仕事をしているから聞こえていないのでは、と思いきや、がっつり聞こえているようだった。その視線に気がついたのか、登が軽く咳払いをした。


「じゃあ、あれだ、まだ結婚の予定とかはないわけ?」

 ぼくがうなずくと、彼は心持ち嬉しそうな顔を一瞬だけ浮かべた。でもすぐに真面目な顔に戻って、

「体調よくないんだろ、そういうのって、誰かに頼ったほうがいいって」

「だれかって?」

「そりゃ、家族とか、女とか」

 吉澤はお前に気がありそうな感じだったじゃん。と言って彼は鼻の頭をかいた。思いもよらぬタイミングで吉澤の名前が出てきたので、飲み込もうとした唾液が気管に入ってぼくはむせた。涙目になるぼくの目に無垢のテーブルの色が優しい。テーブルだけではなく、内装はカントリー調で統一されていて、DQN趣味の登の意向が一切無視されている感じがする。多分さっそく尻に敷かれているんだろう、とぼくは推察した。


「結婚とか、そういうのは、まだよくわかんない」


 確かに、人の家庭にお邪魔してみて羨ましいと思わないわけではなかった。家の中に愛する誰かがいるというのはとても幸せなことだし、現にここは最高に温かい。

 でも、正直なところ、それが今のぼくの本心だった。

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