第70話 家庭
「なにしてるの?」
返事がないのはわかっていたけど、思わず声をかけてしまった。
玄関ドアを開けると、そこにはまこさんが膝を抱えて座り込んでいた。電気もつけずに、何をしているのか。彼女がぼくの顔を見上げて微笑む。ぼくの方に伸ばされた両手がお帰り、を意味しているのかいないのかは誰にもわからない。
家に帰ると誰かがいる、というのは案外心地のいいものだ。ぼくは彼女の腕を掴んで引き上げながら、そんなことを考えた。
登と奥さんには昼食のお礼を言って引き上げた。夕飯も一緒にどうかと勧められたけど、あまり長居をしては迷惑だと思ったので、断った。新婚家庭はやっぱり幸せそうで、ぼくの胸にけっこういろんなものがぐさぐさとが突き刺さった。
結婚。他人同士が集まって、家庭を築いていく過程のこと。ぼくは今まで一度も結婚を意識したことなどなかった。どのようなステップを踏めば合意に至るのか、全く想像もつかない。生活習慣の異なる人間が集まって、うまく共同生活が送れるものなのだろうか。同棲さえ未経験のぼくには未知の領域だった。
確かに今、進行形で血の繋がらない女性と住居を同じくしているが、恋愛感情があるわけではないし、同棲とは言い難いと思う。そうだ、結婚とか云々とかいうよりも先に、ぼくはまず相手を見繕わないとならなかった。恋愛。そもそも恋愛なんて、どんな内容を示す言葉なんだろう。性欲の寡多で定義されるんだろうか、それとももっと、接触時間、内容、あるいは利益の一致。
考え込むぼくの顔を彼女が覗き込んだ。
「いや、なんでもない」
ぼくは無理に口角を上げる。
人恋しい。そういう感情が一切ないわけではなかった。性欲も多分、人並みにはあるつもりだ。それでも他人に踏み込めないのはやっぱり、怖い、からかもしれない。
ちんたらと歩くぼくを尻目に、彼女は軽やかな足取りでリビングへ消えていった。台所の鍋の中では何かが煮えている。甘辛い醤油と海の匂い。カレイの煮付け、かな。ぼくは母の背中にただいま、と声をかける。
結婚します、なんて言ったら、あの人喜ぶんだろうか。相手の如何によっては、ますます心配をかけることになるかもしれない。母の背中を見ながらそんなことを考えた。
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