第65話 たどりつくのは

 月もない、静かな夜だった。ときおり冷たい風が吹きすさんで、秋の深まりを知らせる以外は、まったくもって穏やかな夜だった。


 彼女はふらふらと踊るような足つきで、道の真ん中を進む。ぼくは気づかれないように、息を殺して物陰から彼女の様子を伺う。

 ぼくたちの頭上には明るくかがやく一等星が瞬いていた。月明かりがないせいか、今夜は星がよく見える。青みを帯びた黒い空はまるで深い海の底のようだ。

 彼女は軽やかな足取りで坂を駆け下りていく。後をつけていることを後ろめたく思いながら、ぼくもそのあとに続いた。


 たどり着いたのは、海だった。彼女を拾い上げた夜のことが頭をよぎる。彼女は砂の上をおぼつかない足取りで進み、波打ち際で足を止めた。

 ごうごうと、強い風がぼくの耳を打つ。彼女の長い髪が風に巻き上げられてくるくると舞った。じっとりと湿った風は重い。顔にまとわりつく髪を掻き分けもせずに、彼女はぼんやりと立ち尽くしている。


 彼女が砂浜に、膝から崩れ落ちた。波がただ淡々とその足元に寄せては返す。そっとその背中に歩み寄った。柔らかな砂はぼくの足音を呑み込んでくれる。斜に眺める彼女の背中は細く頼りなげだった。よく見ると小刻みに震えているようにも見えた。ぼくはそっとその肩に手を置く。彼女がぼくを見上げた。指を添えた頬は涙で濡れていた。


 ひとりで、泣いていたのか。


 罪悪感がぼくの胸を締め付けた。変な邪推をして彼女を疑っていた自分が恥ずかしかった。彼女にだってひとりになりたいときだってあるだろうに。ぼくは一体、彼女に何を求めていたのか。

 ぼくは彼女の隣に腰を下ろした。足元に寄せる波は静かに泡立っている。

 彼女が手を持ち上げて沖の方を指差した。向こうに何があるというのだろう。目を凝らしたけど、何も見えなかった。

 彼女がぼくにもたれかかってきた。頭の重みを上腕で支える。乱れた髪を整えるぼくの手を、彼女は拒むでもなくそっと受け入れてくれる。涙の感触だろうか、シャツを通してじんわりとしめった熱が伝わってくる。ぼくは空いている方の手で彼女の頭を包み込むように抱き寄せた。ときおりすんすんと鼻をすする音が聞こえる。波の音は相変わらず穏やかだった。パチパチと泡の弾ける音。遠くでボラが跳ねた。


 いつも彼女はこんな風にひとりで泣いていたんだろうか?一時間や二時間もひとりで?

「夜は危ないからひとりで出歩かないほうがいいよ」

 ぼくが言うと彼女は泣き腫らした目をぼくの方に向けた。その目はすごく、悲しそうに見えた。

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