第41話 おともだち

 和室に入ると、机の上にはソースと青のりで汚れたスチロールの容器が重なっていた。みんなで食べたんだろうか。その他には紙とペンが無造作に転がっている。落書きでもしていたのだろう、ミミズののたうったような線が幾つか引かれていた。廊下では母とようちゃん、だっけ。が謎の遊びを始めていた。だるまさんが転んだのような、ただの鬼ごっこのような、ルールを無視した変な遊び。

 廊下を響き渡る足音を聞きながら、ぼくは席に着くべきか考えた。戸の近くには、京子。部屋の奥には例の彼女。座ったらおしまいな気がする。かといって外で繰り広げられる遊びに混ざる勇気はない。


 京子があらたまってぼくに向き直った。

「彼女について、聞いてもいい?」

 始まった、尋問だ。

「母さんからどこまで聞いたんだよ」

 しぶしぶ座布団の上に腰を下ろした。

「全部」

 京子がぼくの目を見た。相変わらず真っ直ぐな目だった。彼女は他人の視線が怖くはないのだ。ぼくや吉澤が彼女に惹かれる理由は、こういうところにあるんだろう。自分にないところを、彼女に求めているのだ。

「おかしいと思わないの?喋れないって、おかしくない?」

 詐病ではないか、と彼女は疑っているようだった。

「それに見て」

 京子が机の上の紙をぼくの目の前に押しやった。

「文字も書けない」

 紙の上の描線は、あきらかに幼児のそれだった。筆圧が弱くて、ふるふると震えている。線の進む方向もとんちんかんで、これが文字の形を作るまでにはあと数年を要するだろう。

 でも、違ったようだ。これを書いたのは京子の子供じゃない。彼女が、書いたのか。ぼくは例の女性を見やった。彼女は退屈して手元のペンをクルクルと回した。

 京子はわざとらしく息をついた。

「どうするのよ、こんなの」

「どうするって…、お前には関係ないだろ」

「そりゃ、そうだけど」

 でも、私はおばさんが心配なの。そう言って京子がぼくの手の甲を叩いた。

「しっかりしてよ」

 内心ムッとした。お前にそんなことを言われる筋合いはない。そう言い返したかった。でも、言葉が続かない。険悪なぼくたちの雰囲気を察したのか、あの女性がすっと立ち上がってぼくのすぐわきを通り過ぎていった。裸足の足が畳を跳ねるように歩いていく。

 彼女は音もなく襖を開け放った。その背中越しに、幼児がこっちを見た。

「ねえおかあさん、なんのおはなし?」

 ようちゃんが風のように京子の膝に舞い込んでくる。

「うーん、お姉ちゃんと、このおじさんのお話」

 京子が母親の顔に戻る。

「おじさん、おひげないね」

「ほんとね、パパのチクチクとは違うもんね」

 体毛が薄いのはぼくのコンプレックスでもある。ほっておいてくれ。

「おじさんはママのお友達なんでしょ」

 ようちゃんはそう言って京子の頬を両手ではさんだ。

「あのおねえちゃんもそうなの?」

 京子は困った顔をして首を傾げた。その目をようちゃんが覗き込む。こいつらこのままキスするんじゃ、とぼくは思った。

「うーん、そうねぇ、おともだ、ち」

 京子が困っているようなので、思わずぼくも口を挟んだ。

「ようちゃん、ぼくと君のママは確かに友達だ。

 ぼくとあのお姉ちゃんも友達。

 でも君のママとあのお姉ちゃんはまだ友達じゃないんだ。

 なぜなら、さっき会ったばかりだから」

 それを聞いたようちゃんの目がぱっと輝いた。

「ママ、よかったね!」

 幼女の言語能力には謎が多い。前後の脈絡が変だ。しかしそこが幼児を幼児たらしめる部分でもある。自分の知覚しているものが他人には見えていないことが、彼女にはまだわかっていないのかもしれない。結果説明は足りず、行動は自分勝手となる。大人ならまず許されることはないが、この低重心の丸っこいフォルムがぼくたちの判断基準を甘くするのだ。

「ほら、」

 ようちゃんが京子の手をとって歩き始めた。そのままつかつかっと女性の方に歩み寄って、握った母親の手を、彼女の手に近づける。

「もう、おともだち!」

 ようちゃんの満面の笑みから、普段の京子の姿が想像できた。彼女はきっとこんな風にして、この子を育ててきたんだ。

 京子が女性の手をとって、困ったように苦笑いした。女性は一瞬目を瞬かせて、京子と、ようちゃんを交互に見渡した。

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