7 好き
「あと、三日」
音楽室でつぶやいた。
今朝、宇田川先生は顔色が悪かった。妖怪たちが相当、怖がらせたのだろう。みんなも不審者に気をつけて、遅くまで遊んだりしないようにと言っていた。
学校では一応、先生たちやPTAを見回りに立て、集団登校や保護者に付いてもらうなどの対応を取るそうだ。
一応と言うのは、これが妖怪たちの仕業で、本物の不審者みたいに子どもたちに害がないことを、銀ちゃんが知っているから。つまり、形だけ。
でも、なぜ妖怪たちがそんなことをしたのか、その原因が、この黒く艶めく立派なものだということまでは、銀ちゃんは知らない。
「ふぅ……」
何度目かの、ため息。
「あれー、ドアが開いてる。誰かいるのー? あ、寧ちゃんだ」
顔を覗かせた
音楽室は三階のL字に折れた東側の校舎、その端にあり、教室からも離れている。放課後に人が来るなんてほとんどなく、私がここに座り続けてからも阿尊くんが初めてのことだ。
「遅くならないようにしないとダメだよー。明るい間にお家に着くようにって、みんなに言って回ってるんだけど……何してるの? ふたも開けないで」
「え? っとー……何もしてない、ね」
キョトンとされてしまった。
しかし、マイペースな阿尊くんは、すぐに普通に聞いてくる。
「ピアノ弾ける?」
「ううん、や、どう……かな。阿尊くんは?」
「うん、たまに弾くよ?」
「あ、じゃあ……さ、何か弾いてみて」
ピアノの音を、間近で聴いてみたくなった。
聴けば、何かが変わるもしれない。
「うん」
笑顔で答えた阿尊くんは、私の横に座り、鍵盤に指を置く。
流れ出したのは、ゆっくりと優しく、悲しげな音色だった。
ベートーベン、「月光」。
浮かぶ小舟を、月光の照らす波が揺らしている。
ベートーベンが死んだあと、そんな誰かのイメージから、その名で呼ばれるようになった曲。
名前など知らなくても、誰しも聞いたことがあるに違いない。
阿尊くんの細く長い指先が、滑らかに動いていく。
紡ぎ出す旋律は、その美貌と相まって、美しさを増した。
ずっと、聴いていたいと思った。
「終わったよ」
演奏が止まっても動かない私に、阿尊くんが言った。
「……うん。ありがとう」
確かこれは、ベートーベンが恋しい相手に捧げた曲だ。
「そう言えば……さ。阿尊くんは、校長先生と仲いいよね。私がここにいたって、言わないでね」
「銀ちゃん? 銀ちゃんは、すぐ僕のこと避けるよー。僕は仲良くしたいんだけどね。でも、どうして?」
「……どうしても」
仲がいいと言ったことに対してか。私のことを言わないでと言ったことに対してか。「どうして」の意味はどっちだっただろう。
私の答えに、阿尊くんは黙っていた。
ベートーベンの、叶わぬ恋の曲。
「阿尊くん、校長先生のこと……好き?」
「…………うん、好きだよ」
頭の隅の無視していた言葉が、勝手に口から出てきていた。
自分で聞いたことなのに、焦る。
答える前の間は、何だった。
何て言っていいのか分からない。どうしたらいい。
私、何でこんなこと……
阿尊くんはじっと私の目を見つめ、それから笑った。
「僕はねー、人を好きになるって気持ちが、よく分からないんだ」
隣に座ったまま、大きく伸びをする。
「前に屋上で言ったこと、覚えてる? 最初から安心できるのは、寧ちゃんで二人目だって」
「え? あ、ああ、うん」
「ひとり目っていうのが、銀ちゃんなんだ」
「校長先生が?」
「うん」
そう言う阿尊くんの顔が、嬉しそうだった。
「物心つかないうちからたくさん怖い目にあって、それを助けてくれた人も結局は同じようになって。そんなことを繰り返したからかなー。僕は、どこか感情が欠落したまま育っちゃったんだね。それで困ることはなかったけど、でもこれからどうなっちゃうのかなって思うようになった頃、銀ちゃんに会ったんだ。目の奥が澄んでて、僕を見ても少しも濁らなかった。あー、この人は大丈夫かも、って思ったんだよね。そしたら、やっぱり大丈夫だった。いっぱい助けてくれたけど、何にも変わらなかったよ。そんな人は、初めてだったんだー。先生になればいいかもって思ったきっかけもね、大人が嫌なら子どもに接して生きればいいって、銀ちゃんが言ってくれたからなんだよ」
「そう、なんだ……」
軽く、どこまでも軽く。
ソフトで間延びした声が、阿尊くんの半生を語っていく。
きっと、生まれたときから美しすぎたのだ。
今の阿尊くんを見ていれば、そんな想像も容易にできる。
そして、人間離れした美貌は、人を狂わせるものなのかもしれない。
「子どもは好きだよー。純粋だからね。もしも何かひどいことをしちゃった子がいたとしても、汚い色にはなってないんだよ。まあその分、残酷でもあるけど、でも、やっぱり分かりやすくて、可愛くて。あ、でも寧ちゃんの目は、子どもたちとはちょっと違うね」
心臓が跳ねた。
この人に私の目は、どう映っている……?
「へ、へえ、そうなの?」
「うん、何か不思議。でも、大丈夫だって分かったよ。銀ちゃんとはまた違う『大丈夫』な感じ」
バクバクと、鼓動が治まらない。バレている訳ではないと思うのに、それでも冷や汗が出てくる。
何とかして違う話を――
「ど、どうもありがと、それで、好きってどういう……」
自分のことをごまかそうと思ったら、また同じ事を聞いてしまっていた。
「ん? 銀ちゃんのこと? えーと、子どもたちへの好きとはちょっと違ってねー……銀ちゃんって人が好きってことかな? うーん、これってどういうものなんだろ。寧ちゃんは、分かる?」
「いやっ、分かんない、かな?」
汗が止まらない。
いろいろ、有り過ぎる。
「そっか、分かんないか。残念、僕も知りたかったなー。あ、でも、寧ちゃんも好きだよ。寧ちゃんのことも、子どもたちへの好きとはちょっと違うねー」
「あっ…………そう……なの」
「うん」
笑顔の阿尊くん。
何か、余計に分からなくなった。
でも、なぜだかふと思った。もしも阿尊くんが十岐と出会ったら、銀ちゃんよりも私よりも、十岐を一番好きになるんじゃないか、と。
「何してるんですか!?」
そこへ、神経質な声が飛んできた。
入り口に立っていたのは、宇田川先生。
「あー、先生。何もしてませんでしたよー? どうかしたんですか?」
「い、いいからお帰りください! その子は、私の受け持ちです!」
「そうですねー、長居しちゃった。じゃあね、寧ちゃん」
阿尊くんはそう言って、立ち去ろうとする。
「あの! さっきの約束……ここにいたこと、言わないで」
「…………うん。分かった」
部屋から出ていく阿尊くんの後ろ姿を、私は不安な思いで見送った。
宇田川先生に聞こえないよう声を潜め、それでも真剣に言った言葉。
本当に、分かってくれたんだろうか……
そのあと、すぐに私も帰された。
昨日の今日では、さすがの宇田川先生も参っているようだった。
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