3 進むも引くも

「いつまで、にらめっこしているつもりなの? もう、一週間以上たつのよ」


 放課後の音楽室。毎日、私はここにいる。

 クラスでは箝口令が敷かれ、他にこのことを知る者はいない。

 表向きの理由は、公言すると私に余計なプレッシャーがかかるからということになっているが、もちろんそんなことではない。

 誰にも邪魔させないためだ。


 私の手は、膝の上に置かれたまま。

 宇田川先生はいい加減、業を煮やしてきていた。最初は嬉々として眺めていたものの、あまりに変化がないので、手応えを感じなくなってきたのだろう。


「もういいわ。私も、こんなことに時間を割いてばかりはいられないのよ。できないんだったら帰りなさい」


 その日はそれで終わりになった。


 私は、このまま伴奏を違う人に交代させるかもしれないと、ほんの少しだけ期待した。

 しかし、次の日から先生が自分の代わりとして私に付けたのは、クラスの中で一番ピアノが上手いという上原環うえはらたまきだった。男子から裏で「たまキング」と呼ばれている、私が転校初日から怒らせてしまった、あのボス格の女の子だ。


「それで。どこが分からないの」


 環は、ぶっきらぼうに聞いた。


「いや、そういう問題じゃなくて――」

「何? じゃ、何が問題なわけ?」


 どうしよう。どういう言い方をすれば、分かってもらえるだろう。


「や……ちょっとその……触れない、んだよね」

「は? 何言ってんの!? 何よ、ピアノが汚いとか言うわけ? 何それ、潔癖?」


 信じられないものでも見るような目つきだった。


「そうじゃなくて……私の問題っていうか。上原さんには、関係のないことだから」

「……何よ。私だって、好きでここにいるんじゃないんだから」


 下を向いた環。

 また、私の言い方が悪かったのだ。


「あの、ごめん、そういうことじゃなくて――」

「じゃあ、何よ!」


 キっと睨むと、私の手をつかんで、無理やり鍵盤に触らせようとした。


「やめてっ!」


 私は、渾身の力で振り払っていた。

 沈黙が下りる。


「何か、あったの……?」

「や……。何でもないから……ホント」


 笑った。

 笑おうと、した。


「触れもしないのに、どうすんのよ」

「え?」


 また沈黙が続いたあと、下を向いたままの環が、聞き取れないくらいの声で呟いた。


「私……合唱祭であなたがちゃんとできなかったら、ステージの上で代われって言われてる。私なら、伴奏なんて練習なしでも弾けるから」

「あ…………そっか。じゃあ、私ができなくても、上原さんがいるから大丈夫だね」

「あなた、それでいいの!? みんなの前で、大恥かくのよ!」


 合唱自体がとりあえず何とかなるなら、それはそれでよかったと思ったのだ。

 しかし、それを聞いた環は声を張り上げた。

 真剣な顔は、私に何を求めたものだったのか。また、下を向く。


「私は、嫌よ」

「え?」

「そんなの……気分悪いのよ」

「あ……ごめんね」


 それはそうだ。代わりなんて、嬉しい訳がない。


「違うわよ!」

「え?」

「ちょっと前までは、まだよかった! あなたは何を言われても、何でも全部できて! いつも、何でもないみたいに平然としてて! それなのに、今は何? 触れもしないピアノの前に座らされて…………どう見たって、いじめられてる人じゃないのよ……。私が……いじめてるみたいじゃない」

「あ……」


 傷ついた顔をしていた。


「私……こんなの嫌。どうなるか分かってて教える役なんて、嫌よ! お断りだわ! あなたもちゃんと先生に断って! いいわね!」


 そう言って、走って出て行った。

 またしても、結果的にあの子を傷つけてしまった。

 開け放した扉の向こう、環が走り去ったあとの廊下に目を向けたまま、ひとり私は途方に暮れた。

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