7章 友とピアノと、芋づる式の

1 抜擢

 タッタッタッタッタ。ガラガラ、ガラガラ、ピシャっ。


「………………」


 よし、大丈夫。


「ほい、いらっしゃい」

「お邪魔します。あ、まだお食事中ですか? すいません」

「塩大福よー。食べる?」


 給食は食べ終わって、持ち込んだ甘味をつまんでいたらしい。

 六個入りのパックが半分、減っている。


「え、と……いただきます」


 最近、昼休みには、誰にも見つからないようにして、石山いしやま先生の砦に来ることが多い。授業中の仮病はそうそう使えないけど、昼休みでも魔の手は迫ってくる。勝手に逃げ込ませてもらっているのだ。

 今のところ、見つかってはいない。


「お茶はそこね」


 それだけ言うと、石山先生は目を瞑って大福の味を噛みしめている。

 多分そうだと、思う。

 普段から目が細くて、非常に分かりづらい。


 保健室のベッドは、簡易のものも含めて三台ある。

 たまに満床のときもあるけど、今日は誰もいない。私は勝手にポットのお湯でお茶を淹れ、ベッドの陰に椅子を持っていって、程よく塩味の利いた大福を食べた。

 まったりとした時間が流れる。


 必要のないことは言わない、聞かない。それが、石山先生の特徴だった。

 こっちが話したいときは相手になってくれるし、そうじゃないときには黙ってほとんど机に向かっている。

 石山先生の作り出す沈黙は、心地よかった。何も気兼ねせずに、ここにいられる。


 ガラガラっ。


「失礼します。先生、三雲みくもさんここに来ませんでしたか?」

「来てないよー」

「そうですか」


 ガラガラっ、ピシャっ!

 クラスの子の声だった。

 あ、危なかった。万一のために、入り口から死角にいてよかった。


「あの……ありがとうございます」


 何も聞かれないから、私が挙動不審になっている理由は言ったことがないのに、それでもごく自然にかくまってくれた。

 侮り難し、石山本願寺。その名前は、伊達じゃない。


「気にしナイチンゲールー」

「…………」


 この寒さにだけは、まだ慣れない。




 五時間目は音楽で、きたる合唱祭の曲の候補をみんなで聴いた。

 この時間にどの曲がいいかを自分で考えて、次の学活の時間に決定することになっている。


 昔から親しまれている曲と、私の知らない最近の当たり前となった曲。いろいろあった。

 時代と共に、歌の定番も変わっていく。

 考えてみればそれは自然なことだけど、ただ私としては最近の曲には馴染みがなくて、やっぱり昔からの定番がいいと思ってしまう。ノスタルジーに浸る辺りが、歳を取った証拠だった。

 周りのピチピチの脳みそが、ちょっとだけ羨ましい、今日この頃。


 授業が終わってすぐ、一部の女子たちがピアノに集まった。

 さっき聴いた曲の音を取ろうとしているらしく、知らず私も引き寄せられていく。


 ピアノ。

 私は、五歳で弾いた――――

 ダメだ。やっぱり思い出せない。

 思い出せないのに、なぜか……惹かれる。

 十岐から話を聞いたせいか?

 それとも……


 触って、みようか。

 そう思って手を伸ばしかけ、しかし途端にものすごく怖くなり、急いで引っ込めた。

 危険だ。これに触ってはいけない。


「三雲さんも弾く?」


 気づいた女の子が聞いてきた。


「あっ、いや」

「もしかして、ピアノできるの? 習ってる?」

「え、習ってない……けど……」


 自分でも分からない。

 弾けるかどうか、確かめることもできない。


「できそうー! 何だかんだ言って、結局できそうー!」

「ホント、ホント! ねえ、やってみて!」

「いや! いい! いいって!」


 ピアノの前を空けようとする女の子たち。

 私はそれを断った。必要以上の勢いで。かつてなくオーバーな反応は、私らしくなかった。

 女の子たちが、ちょっとだけ変な顔になる。


「ほら、あなたたち! 六時間目に遅れるわよ。早く教室に行きなさい」

「あ、はーい」


 宇田川うだがわ先生に言われ、みんな急いで音楽室を出て行く。

 最後尾にいた私は、ふと振り返った。

 先生の目が、横に滑っていった。視線は、合わなかった。




「じゃあ、『翼をください』で、みんないいわね」

「はーい」


 この曲は、七十年代にフォークグループが発表したものだ。その後もたくさんの歌手がカバーをしているし、合唱でも定番になっている。

 私も、小学生だったか中学生だったかの頃に歌った記憶があった。


「じゃあ、男子と女子に分かれて練習していきましょう。伴奏は、三雲さんにやってもらいたいと思います」

「え?」


 自分の耳を疑った。

 動揺した私に、宇田川先生の笑みが深くなる。


「どうしたの? 三雲さんなら、弾けるでしょう?」


 ピアノ。

 大切な人たちの歯車を狂わせた、ピアノ。

 強く惹かれて、でも触っちゃいけないと思った。ついさっきだ。

 それを私が……弾く…………?

 ダメだ! それだけは、考えられない!


「あの! 私は、ピアノなんて習ってませんから、誰か他の得意な人に――」

「おかしいわ。あなたのおばあ様の口ぶりでは、何でもできそうだったのに。練習してご覧なさい。合唱祭は今月の終わりだし、あと一ヶ月近くもあるんだから、あなたならきっとできるわ。みんなもそう思うでしょ? 思う人は拍手してあげて」


 途端に、大きな拍手が起こる。

 見渡すと、期待の顔が目に入った。

 みんな、私がやれるだろうと思っている。


「ほら、みんなが応援してるわ。じゃあ、ピアノは三雲さんにお願いします」


 さらに大きな拍手が起こり、私は呆然となった。

 よりにもよって、一番避けなければならないものに、こんなに早く向き合うことになるなんて――――

 できない。できる訳がない。


 頭の中で警鐘が鳴り響き、体が震えた。

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