5章 夏の刻印

1 3の動き

 カラカラと晴れたある日、唐突に現れた入道雲が、夏の到来を告げた。

 私が初めて好きになったのは、もくもくと立体感のあるこの雲だ。やっぱり、小学生の頃だったと思う。

 それから空を見上げることが多くなり、他のいろいろな種類の雲を好きになっていったのだ。風に流され形が変わっていくのをただ眺めていると、ゴミの溜まった心の中を空っぽにすることができた。


 先生が板書する音と、エアコンのモーター音が聞こえる。

 公立の小学校の教室に冷房が入るなんて、最初は驚いたけどすぐに納得した。最近の地上の暑さは尋常じゃない。「子どもは暑くても元気だ」なんてのにも、限界がある。ここまで気温が上がると、もう無理なのだ。

 地球の温暖化は、さらに進んでいる。


 もう少し板書が続きそうなのを確認してから、窓越しの夏の空を見上げた。

 また、新たな入道雲ができつつある。

 緩やかな変化が、眠気を誘う。カツカツと黒板を打つチョークの音が小気味よく、まずいと思いながらも、さらに睡魔が襲ってくる。

 まぶたが重くなり、だんだん頭も下がり、視線が空から地上へと落ちていく。


 もうすぐ目が閉じるというとき、正門の横の塀に沿って配してある大きな木が見えた。太い幹が枝分かれする安定したところに、一匹の三毛猫が寝そべっている。


 三秒見ていたら、目が合ったような気がした。

 五秒。身じろぎしたり、あらぬ方向に視線をさまよわせたりと、三毛猫に落ち着きがなくなった。


「?」


 十秒。ダダっと上に上がって枝葉の影に見えなくなったと思ったら、大きな黒い物体にしがみついて、それと一緒にズルズルと幹を落ちてきた。黒い物体が腕を伸ばした先には、着物姿の太っちょがつかまれていて、道ずれで数珠繋ぎに引きずりおろされていく。


「??」


 ついにズベっと地面に這いつくばったあと、黒と太っちょは慌てすぎてお互いにぶつかり合い、三毛猫は巻き添えで踏まれそうになって飛び上がった。

 三つの塊が、あたふたと逃げて行く後ろ姿――――


「っ‼」


 叫びそうになった。

 太っちょは、はらだし! 黒いのはサトリだ!

 じゃあ、三毛猫は十兵衛じゅうべえちゃん!?

 そう言えば、あの猫、尻尾が二つあったような気も……


 信じられない。

 毎朝「絶対、来るな!」と何度も釘を刺して、ちゃんと約束させていた。あいつら全員、今朝あんなに頷いてたじゃないか。ほんの数時間前だ。


 冷や汗が流れてきた。

 ハっと思い立って周りを見渡す。

 誰も気づいていない、か? よかった……


 ドキドキが治まってくると、今度はだんだん腹が立ってきた。同時に、疑いも頭をもたげる。

 もしかして、これが初めてじゃないとか?

 三毛猫の、木の上のあの馴染み方……

 怪しい。いや、怪しい所じゃない。

 何回も、来ている。

 自分のこめかみに、青筋が立ったのが分かった。




「どこ行った!」

「やかましいぞ、小娘」


 駆け込んだ家の居間には、青行燈あおあんどんしかいなかった。涼しい顔で下を向いたまま、私を見ようともしない。

 私はと言えば、授業が終わってすぐ炎天下の中を走って帰ってきて、噴き出す汗と闘っていた。


「……何してんの」


 青行燈の前には将棋盤。ひとりで将棋をしていたのかと思ったら、向かい側には座布団が敷いてある。

 これは、もしかして……


「誰と将棋してるの」

「はらだしだ。我に話しかけるな」


 やっぱり。

 あいつ、私が帰ってくるのが分かって、逃げやがった。


「……どこにいる?」

「縁側のすぐ外だ。我が次の一手を考え付くまで、戻って来なくてもよいぞ」


 青行燈は、やっと不機嫌な顔を上げて言った。

 話しかけられるのが面倒だったからというだけでなく、どうやら盤上で追い詰められているらしい。


「了解」


 こっちだって、はらだし達を簡単に解放する気なんてない。

 言うが早いか、裸足のまま外へ飛び出した。


「そこかあっ!」

「ひ――――っ」


 直前まで、壁越しに聞き耳を立てていたんだろう。はらだしの後ろ姿が、悲鳴を上げながら家の角を曲がっていく。

 全速力で追いかけると、西側にある赤松の大木の陰に隠れるのが見えた。

 恐る恐る目だけ覗かせ、また首を引っ込める。


「ひゃっ」


 火に油。

 何で、妖怪が人間を恐がるんだよ! 思いっきり逆さまじゃないか!

 何だ、このでっかい木!


 近づいて思わず八つ当たりをしかけたとき、木がパカっと縦に割れた。

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