6章 傷薬

1 流れる

「おや、行くのかい? 今日も、木の上で引きこもるんじゃないかと思ってたよ」


 ランドセルを持って下りてきた私に、十岐ときは言った。


「うん」


 久し振りに、十岐と口を利いた。


「よかったよ、叩き出す手間が省けて」


 分かっている。


「行ってきます」

「ああ、行ってきな」

「行ってらっしゃーい」

「気をつけてねえ」


 囲炉裏の横を通り過ぎ様に言い、はらだしと十兵衛じゅうべえちゃんの声を後ろに聞いた。

 用意されていた朝ごはんを食べずに出て行くことを、誰も咎めなかった。

 学校への道を、一歩踏みしめるごとに、深くえぐれた心を、幾重も、幾重にも、真綿で包んだ。


 夏休み気分のままの、真っ黒に日焼けした子どもたち。

 旅行や海やプール、お祭りや花火などの話が溢れる教室。

 ランドセルから取り出した自分の日記を、意味もなく開く。


 最後の一週間、空白のままのはずのページは埋まっていた。

 私とそっくりな字で、最後の日まで。

 達筆の青行燈あおあんどんが、他の妖怪たちに囲まれ、何かを書かされていた姿。昨日、視界の隅で捉えていた記憶を、微かに思い出す。


 日記の中の私は、十岐の畑を手伝い、スイカ割りを楽しみ、バーベキューでお腹いっぱいになり、川で泳ぎ、庭先で花火をして、毎日くるくると遊びまわっていた。






 十月に入ってから、風の温度が明らかに低くなった。

 季節は、秋へと移り変わる。


 あれから学校では、遠足、運動会、絵画コンクールと大きな行事が営まれた。

 しかし私は、そのほとんどを思い出せない。それどころか、学校生活、日常生活の全てにおいて、まともに記憶を辿れなくなっていた。

 傀儡かいらいとなった私が過ごした、底の見えない穴のような空白の時間。

 断片的に思い出すのは、どれも笑っている私。

 まるで、他人のようだった。


「久し振りだね、ねい

「え?」


 月曜の全校朝礼を終え、グラウンドから教室に戻る階段の途中で声を掛けられた。

 ブロンドの美少女。だけど、その屈託のない笑顔は紛れもなく――


「リュカ……」

「えへ、来ちゃった」

「来ちゃったじゃないよ」


 声を潜めた。他の学年の子の視線を気にしながら。


「あのね、今日――」

「ちょっと、こっち」


 構わず話し続けようとするリュカを慌てて引っ張り、二階の一年から三年生の教室の前を抜けて、子どもたちの波から外れる。L字に曲がった東校舎の北端、理科室の前まで急いだ。

 ここなら、ほとんど人が来ないだろう。

 ひと安心して振り返ると、リュカの笑顔があった。


「嬉しいなー。寧が僕を独り占めしようとするなんて」

「冗談言ってる場合じゃないよ。バレたらどうすんの?」


 双子のアシュリーの代わりにリュカが来ているなんて、先生たちにバレたら大変なことになる。

 よりによって、何で全校朝礼がある日なんだ。そんなにスリルを楽しみたいのか。


「大丈夫、気をつけてるから。それに、人がいっぱいいる場所って、かえってバレにくいんだよ」

「それは、そうかもしれないけど……」


 だとしても、危ないことに変わりない。


「昨日、アシュリーが言ってたんだ。なーんか、寧が元気ないみたいって」


 ドキっとした。

 気づかれた? いやまさか、そんなはずは……


「そう? 最近、本を読んで夜更かししてるから、それでかな。眠いんだよね。でも、それだけだし、元気だけど」

「んー、そうなの?」

「うん」


 リュカは、私の顔を覗き込んだ。

 笑みを貼り付けた、私の顔を。


「ふーん。ま、いっか、お陰で来られたし。寧を元気にするからって言って、アシュリーに許してもらったんだよ。それができたら、時々は代わってくれるって。だから、寧も協力して。ね、何したら元気になる? 四年生みんなで、昼休みに校舎内で鬼ごっこをやろっか? それとも、かくれんぼがいいかな。大人数でやると面白いんだよ。あ、それから、帰りにご馳走するね。コロッケとたこ焼き、どっちがいい? 美味しいとこがあるんだー」


 私の言葉を信じていないのか、それともそんなことはお構いなしなのか。リュカは相変わらずのマイペースだった。

 だけど、危ない。勘のいい双子たち。

 あまり側にいると、心の奥を覗かれそうな気がした。それに今の私は、鬼ごっこもかくれんぼも、食べ物にも興味がわかない。


「嬉しいけど、また今度に――」

「あ、それより、サボっちゃおうか」


 その言葉が、私の動きを止めた。

 サボる――?


「何やってんだよ、リュカ! 早く教室戻れよ、授業始まるぞ! ちゃんとしないと、他の先生に怪しまれんだろ!」


 そこへ声がかかった。隣のクラスの男子が、探しに来たらしい。


「あっ! もうそんな時間? 走ろう、寧!」


 男子、リュカ、私の順番で、東階段を一段飛ばしで駆け上がった。

 こそこそと三階の廊下を急ぐ。


「間に合った! じゃね、寧。さっきの話は、またあとでね」

「あ、うん」


 先に着いたのは二組の教室で、二人は扉を開けて中に入っていく。

 私は、その先の一組へと進んだ。


 バーン! カチャリ。


「え……?」


 開いていた扉が、私の前で勢いよく閉まり、鍵のかかった音がした。

 クラスメイトの男子が、扉の向こう側に立っている。

 私は呆気に取られた。


 すぐに教室の前方の扉が開いていることに気づき、駆け出す。

 しかし、手を伸ばす前にその扉も音を立てて閉められた。

 一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。


「はい、遅刻ー」


 扉の前の男子が言うと、一斉に教室が沸いた。

 みんな、笑っている。


「こんなに遅くなるあなたが悪いのよ、三雲みくもさん」


 教室の中で、宇田川うだがわ先生も笑っていた。

 一瞬、訳が分からなかった。先生がいるのにこんなことをするのかと、変に思った。

 だけど、違う。

 先生が、やらせている。


 私は後退った。ニヤニヤと笑うクラスメイトの視線から、逃れようと。

 教師公認の仲間外れ。その味は、甘美なのか。

 小さなショックが真綿に包まれた心に少しずつ浸透すると、忘れていた昔の記憶と重なり合った。


 あれは、本当に小学五年生だった頃。呼ばれて行った友達の誕生日会で、なぜか私は途中で閉め出され、閉じられた扉の向こうから笑い声が響いた。

 あのときの私は、入れてもらえるまで待っていた。黙って、そこに立って。荷物は中に置いたままだったし、騒いだり泣きついたりするのはプライドが許さなかった。

 数分後、冗談だと迎えられた家の中で、その子の親も笑っていた。


 そこまで思い出すと、私の心は決まった。

 さっきのリュカの言葉が頭に蘇る。

 ――サボっちゃおうか。

 もう、どうでもいい。今までも、これからも。

 誰も――――何も、要らない。


 ぐっと足に力を溜め、一気に駆け出した。

 階段を飛び降り、靴を履き替えて外へと飛び出す。誰にも止められないスピードで、出鱈目に走り続けた。


 苦しさに喘ぎながら、いつしか私は声を出して笑っていた。

 走って、走って、走って。

 どこか大きな川の土手まで来てようやく足を止め、倒れるように仰向けに転がる。

 心臓は破裂しそうで、地球上から酸素が消えたみたいに苦しかったけど、見上げた空はいつも以上に青くて、きれいだった。


 流れる雲が、瞳の中でグニャリと輪郭を失い、プリズムの光で何も見えなくなっていく。

 ポロリ。

 表面張力を失った涙が、一滴。

 こぼれ落ちると、そこから止まることなく流れ続ける。


 あの夏の日以来、流すことのできなかった、涙だった。

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