4 エニグマ
誰もいないはずの屋上にいきなり声が響いて、私は飛び上がった。
しかし、自分で聞いといて何だけど、答えてもらう前に思い当たってしまう。
耳に心地いいのに、何だか間延びしたこの感じ。
「ごめんね、内緒話、聞こえちゃった。秘密の場所なんて、うらやましいなー」
屋上に唯一突き出た、階段を囲む建物の横から、槙田阿尊先生が現れた。
「何でいるんですか? そこもアシュリーが確認してたのに」
「ここは階段部分と、こっち側は小さい用具庫になってるんだよ。ほら、ちゃんと扉もあるでしょう?」
側面を覗いてみると、なるほど小ぶりな扉がひとつあった。
この中に人がいるなんて、アシュリーも思わなかったんだろう。
「それで、さっきの話なんだけど……僕も、秘密の場所の仲間に入れてもらえないかなー」
期待の目で、私を見る。
まさかと思ったけど、本気か!? じゃあ、立ち聞きしていたことを、わざわざ私にばらしたのは……
「アシュリーにダメだって言われそうだから、私がひとりになったところを見計らって出てきたんですね」
「あはは、するどいねー。寧ちゃんが見方になってくれたら、アシュリーに許してもらえるかなーと思って」
「槙田先生……」
頭が痛くなってきた。
この人、本当に先生なんだろうか。
「あのね、寧ちゃん。子どもたちはみんな、僕のことを『先生』って呼ばないんだ。似合わないんだろうね」
私に向かって、にこっと笑う。
思ったことが顔に出ていたのかも知れないと思って、私は少し焦った。
「や……そんなことは……」
「ああ、気にしないで。僕もそう思うから。だからね、寧ちゃんも『槙田先生』じゃなくていいよ。みんなみたいに好きに呼んで」
「え……好きに……?」
槙田先生は先生なんだから、そう呼ぶのが当たり前じゃないんだろうか。
まあ、似合わないっていうのは、ちょっと……いや、かなり納得だけど……
「あ、そろそろかな。ちょっとおいで」
「え?」
話の切り替わりが早すぎる。
花火の件はもういいのかと思いながら、手招きされるまま、手すりの側に来て下を覗く。と、しばらくして誰かが校舎から出てきた。
あれは、
「やっぱり出てきた。寧ちゃん、何か気を送ってみて」
「は? 気?」
「うん。例えば、殺気なんかだと一発なんだけど」
「殺気!? そんな、殺意なんか持ってる訳ないじゃないですか!」
何を言ってるんだ、この人は!
「うーん、しょうがないなー。じゃあ、これ。当てるつもりで、しっかり狙って振りかぶって」
渡されたのは、テニスボールだった。
何でこんなものを。
どこから出した。
「ほんとに投げなくていいよ。でも、真剣に狙ってね」
はあ……
ため息のあと、もうどうにでもなれと、ボールを握る右手を高く上げる。
何のためにと思いながらも、しかしこの距離なら、あの後頭部に当たるかもしれないという考えが、ちらっとよぎった。
その瞬間、校長先生が振り向いた。
「あ」
「何だー? 何でそこに寧がいるんだよ! 早く帰れ、夏休みだぞ! こら、阿尊! 寧を早く帰せ!」
「はーい、帰しますよー」
「口だけじゃなく、ちゃんとやれよ」
振り上げた手を下ろせないまま固まっている私を気にも留めず、斎藤校長は去って行く。
「え……偶然?」
「あの人、こういうの気づいちゃうんだよね。話してくれないんだけど、何かやってたんじゃないかなー。武道とか、んー……修行とか。僕が絡まれて危ないときは、助けてもらってるしね」
「そうなんだ……」
猛暑の中なのに長袖のシャツを着た背中が、駐車スペースの方へ曲がって見えなくなるまで、なぜか私は目を離せなかった。
「さ。帰ろうかー、寧ちゃん」
不思議と何だか、さっきまでとはちょっと気持ちが変わっていた。
「あ、あの、さっきの話なんだけど……」
「ん?」
「あの……先生の下の名前の意味って、何かなと思って」
「僕の名前? 阿尊? ああ、それはねー。昔々の、雅でやんごとなき時代の言葉が元なんだよ。朝臣って書いてあそんって読むんだけど、何々の
「平安時代とか?」
「そうそう、その辺。よく知ってるねー」
「じゃあ、そんな風に偉くなれるように?」
「ううん。僕が生まれる前に源氏物語を読んだ母が、『あそん』っていう響きを気に入ってつけたんだ。だから意味は……ないかな。でも好きだよ」
意味のない名前。
だけど私も、いい響きだと思う。さっき斎藤校長が「阿尊」と呼ぶのを聞いたとき、そのことに気づいた。
変に礼儀や固定観念にこだわるよりも、気持ちよく呼ぶことの方が、よっぽど大事なのかもしれない。
「じゃあ、私、あの……阿尊くんって、呼ぶことにします」
「あー、いいねー。それでいこう」
すんなり許された。と、そこまでは良かったけど、次の言葉には冷や汗が出た。
「何か、年上のお姉さんに呼ばれてるみたいだなー」
どこまで本気か分からないところが、怖い。
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