私立探偵

「先生が殺されてしまったんです」

 山田明日は、まっすぐに私の目を見つめて言うと、すっと目を伏せた。

 殺人。殺人事件に私が関わる。それ見たことか。いつだって、浮ついた気持ちで仕事に臨むと、必ずしっぺ返しを食らうのだ。

「事情はわからないが、まずは警察に連絡した方がいいんじゃないかな」

 心の動揺を抑えて、やや事務的に返答する。そう、あくまでも冷静に、彼女を正しい方向へ導いてやらなければ。今は、殺人事件を探偵に依頼する時代じゃない。

「安心してください。私が直接関わっているわけではないんです。容疑者も逮捕されて、今留置所にいます。でも、何か理由があって、起訴するのは難しいんだそうです。そして疑われているその人も、私の先生なんです」

 まだ学生の彼女がこんなに落ち着いているのに、探偵の自分がうろたえてどうする。気を取り直してコーヒーを一口すすり、椅子に掛け直して私は言った。

「まずは順序よく、話を聞かせてくれる?」

 山田明日はショートカットに手ぐしを入れて整えると、一呼吸おいて話し始めた。

「私はP大学の理学部の三年です。専攻は素粒子物理学という分野で、原子とかクォークとかの働きなんかを調べているんですけど……、あ、すいません、専門的すぎますか?」

 やっぱり理系だった。しかし当てたことを喜ぶ気にはもうならない。「いえ、大丈夫です。続けてください」

「この世界にあるすべての物質は原子でできていて、原子は原子核と電子でできていて、原子核は陽子と中性子でできていて、陽子や中性子はクォークでできていて、クォークはそれ以上何かに分けられなくて、だからクォークの働きを調べれば、世界の成り立ちがわかるんじゃないか、みたいな」

「すごいね。この世の真理だ。僕もそんな研究をしてみたかったな」

 素直な感想のつもりだったが、彼女はちよっと寂しそうな笑みを浮かべて、「いえ、でも全然すごくないんです。P大学のような歴史も伝統もない大学では、理学部と言ったって実際は形だけで、何の実績もなくて、ただ専門書に書いてあることを勉強して、当たり前の結果しか出ないお決まりの実験を繰り返しているだけ。ほとんどの学生は、上辺だけなぞった相対論かなんかで卒論を書いて、普通の会社に就職して行くんです。しかも営業とかで。結局、研究をしているつもり、でしかないんですよ」

「でも君はそんな風には見えないな。さっき会ったばかりで言うのも何だけど」

 私は自分の大学時代に、勉強をしているフリさえしなかったことを思い出した。

「ありがとうございます。そう言ってくれると嬉しいです。確かに、私が所属している火野先生の研究室は違ってました。ちょっと自慢しちゃいますけど」

「いいから続けて」私は表情を変えずに少し冷たく言った。

「はい。火野翼先生はまだ三十代なのに准教授で、年下の私から見てもかわいい女性で、研究室のリーダーでした。リーダーといっても、今はメンバーもほとんど辞めてしまって、火野先生の後見的な役割で客員教授の多田正先生と、学部生の私のたった三人の研究室なんです。もちろん私の役割なんて、単なる雑用係ですし、P大学なんかで素粒子を研究したって、どうにもならない、ということなんだと思います」

 リーダーでした、という表現からピンと来るものがあったが私は何も言わず話を聞くことにした。

「実は、うちの大学は割と性能の高い加速器という研究施設を持っていて、私たちは普段そこで実験をしたりしています。それは以前大学の羽振りが良かった時に、気を良くして国の研究機関から買い上げた施設なんですけど、火野先生もその設備に魅せられて仙台のQ大学から移ってきたそうです。あ、Q大学は多田先生が正規に在籍している大学で、もともと火野先生は、そこで宇宙物理学を専攻していた多田先生に師事していたわけです。でも、私が入学した頃には、大学や企業に開放しているもっとすごい加速器がたくさんできてしまっていたし、メインキャンパスがある都心からずいぶん離れていることもあって、施設はとっくに寂れていて、人が誰も寄り付かなくなっていたんです。なのに先生たちは、それを残念がるでもなく、むしろ歓迎している風にさえ見えました。多田先生も頻繁に仙台からやってきて、二人は研究に没頭していました。何か、学部生の私なんかには到底理解できない、秘密のミッションを遂行してるかのように」

「そこで、事件が起こってしまったんだね」

「はい、殺されたのは火野翼先生です。先週の月曜日、研究施設の中にある実験棟で。胸をナイフで刺されて倒れていたそうです。警察が捜査に入ると、すぐに証拠が見つかったらしく、事件当日に研究施設を訪れていた多田正先生が容疑者として逮捕されてしまいました」

「そんな事件があったことは知らなかったな」

「関西で数十年ぶりの大雪が降って、高速道路で大きなバス事故が起きましたよね。あれがちょうど、事件が起きた日の午後だったんです。だから世の中の話題は大雪とバス事故のことばかりで、P大学の事件のことは、新聞やテレビでもほとんど報道されなかったんです。今、多田先生は検察官に身柄を送検され、所轄の警察署の留置場に勾留されています。火野先生もそうでしたが、多田先生は独身で身寄りもなく、大学からは変人扱いされていたそうで、しかも仙台から急に連行されてのことですから、私が面会に行った時も、他には誰も来ていないって言ってました」

「警察署の窓口で面会手続きをするのは、勇気がいったでしょう。家族でもないのに」

「ええ、でも研究室ではずいぶんお世話になったし、それに、多田先生が火野先生を殺してしまったなんて、とても信じられなかったんです。直接話を聞いたら、何かわかるかもなんて思ったら、どうしても会ってみたくなってしまって」

「なるほど、それで何かわかったの?」

「いえ、多田先生は、自分からはあまり話をしませんでした。別れ際に私が面会に来たことをとても感謝してくれて、そのあと、こんなことになってすまなかった、と謝りました。研究室がなくなってしまうことを言っていたんだと思います。だって、もう私一人になってしまったから……」

 山田明日は唇を一文字に結ぶと、そのまま目を伏せて、「何もわかるわけがないですよね。捜査は警察の仕事ですし、私ったら、何を聞こうとしたんだろ」そういって片方の頬だけで少し微笑んだ。

「ただ、私を面会させてくれた刑事さんが、もしかしたら起訴できないかもっていっていたんです。そしたら釈放されるよって」

「殺人の証拠が本当にあったのなら、難しいと思うけどね」私は抑揚をつけずに言った。そろそろ本題にはいるべきだろう。「なんとなく事件は理解できた。ところで、私は何をすればいいのかな? なぜ山田さんは、私立探偵を頼んだんだろう?」

「由名時さんが、今考えているとおりです。この事件の真相が知りたいんです。火野先生を殺したのが誰なのか、本当に多田先生が殺してしまったのか。もしそうでないのなら、一刻も早く先生を留置場から出してあげたい」

 うすうす感づいてはいたが、やはり動揺は顔に現れただろう。「いや、こういった捜査は、さっき君も言ったように、やはり警察に任せた方が……。そもそも今、警察と検察のタッグで捜査中のはずだけど」

「探偵は犯罪捜査も引き受けるって聞きました。犯罪の証拠を捜しだして、警察に逮捕を要請することもあるって。由名時さん、お願いします」

 科学者がクォークの働きから世界の真理を導き出そうとするように、探偵は事件の真相を明らかにすることでそれを行う。理系も文系も、たどり着く先は同じ。私は少しの間目を閉じて、それから彼女に言った。

「これから探偵業法に基づいて、重要事項を説明します。質問があったら話の途中でもご遠慮なく」

 契約を結び、帰り際に山田明日は言った。「私は、二人が仲良く実験をする姿を眺めるのが、とても好きでした」

「二人は、何か秘密の研究をしていたようだと言ってたね。何を研究していたんだろう?」

 何気なく言うと、彼女は少しためらった後で言った。

「確かなことはわかりませんが、おそらくタイムマシンを作ろうとしていたんだと思います」

 また脳の奥がしびれた。大学生女子、牛丼、タイムマシン。私は山田明日に翻弄され続けている。



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