理系女子のブルーな二月

夕方 楽

立春の訪問者

 立春を二日か三日過ぎた頃だったと思う。私は依頼人に会うために事務所の一階にある喫茶店に向かった。一階のエレベーターホールは数メートル歩道から引っ込んでいるが、直接外気と接していて、上着なしで降りてきてしまったことを後悔した。立春といっても、東京の二月はまだまだ真冬の寒さなのだ。

 けれども、ちょっと寒いぐらい、なんだというのだ。これから私が会うのは大学生女子なのだ。そう、女子の大学生。人一倍行動に規範が求められる探偵業といえど、心の動きは誰にも止めることができない。

 彼女から私のウェブサイトに問い合わせがあったのは一昨日のことだった。都内の大学に籍を置く学生だが、調べてもらいたいことがあるので相談したい。こちらはいつでも合わせられるので都合の良い日時を返信してくれ。という簡潔な内容だった。

 私は複数の候補日とともに、会う場所は私の事務所でいいか、と問い合わせフォームに記載されていた彼女のGメールに返信すると、ほどなく彼女から電話がかかってきた。

「お会いするのは、一階の喫茶店でもいいですか?」日時をフィクスさせた後で彼女は言った。探偵事務所に一人で入るのは、やはりちょっと怖いらしい。

「構いませんが、初対面で僕の顔がわかりますか」

「ええ、たぶん。あなたのホームページに出ている顔写真を見たので」

 確かにその通りだ。当たり前だが昨今では、探偵は電話帳で探すのではなくウェブで検索するのだ。その際、柔和な表情で微笑む所長のポートレイトが掲出されているといないとでは 、問い合わせの件数が格段に違うのだそうだ。

 そこで私もその恩恵に授かることにしたというわけだ。所長兼所員兼総務経理、たった一人の探偵事務所で、面が割れていいのか少し悩んだが、なに構うことはない。調査される側の人間のほとんどは、ウェブで探偵の顔を調べることなど思いつきもしないのだから。

 ちなみに直近の私の案件はこうだ。依頼人の家の庭に毎日排便していく近所の猫に困っているが、飼い主に注意してもウチの猫ではないの一辺倒で、一向に埒が明かない。そこでその瞬間を撮影し、証拠として相手に突きつけたい。ついてはその写真をなんとか撮影してくれないか、というものだった。こういった実務面から考察しても、どうして顔を隠す必要があるというのだろうか。

「なるほど、そういうことですね。一階に喫茶店があるのはなぜわかったの?」

「ご連絡する前に一度ビルの下まで行ってみたんです。下見ってやつでしょうか。私、結構慎重派なんです」

 今までの深刻さと相殺するような、ちょっと茶目っ気のある口調に戸惑いながら、「さすがだね。もしかして理系?」

意味不明なリアクションを返すと、「それはお会いしたときにお話しします。では明後日」

 そういって彼女はプツリと電話を切った。


 往来に面した喫茶店の入口に小走りに回り込み、扉を押し開けて中に入ると暖房の熱気がモワッと身体を包み込む。わずか数メートル外を歩いただけなのに、冬山の遭難者が救助隊の姿を認めた時のように救われた気持ちになった。

 約束の時間までかなり間があるため、予想通りそれらしい女の姿はまだ見えなかった。私は店内を見回し、周りに人のいない奥の席に腰を落ち着けた。入口から見通せる場所なので、すぐに私を見つけることができるだろう。

 店内は一時代前によく見られた欧風を気どった内装で、ダークブラウンの木製の椅子とテーブル、各テーブルは、木製の梁から吊り下げられた銅板の覆いがついた電灯に、ちょうどいい明るさで照らされていた。オーナーであるマスターは今ではめったに店に立つことはなく、ほとんどすべてを何人かのアルバイトに任せていた。時給が安いせいなのかは知らないが、結構な頻度でアルバイトが変わるので、私を古くからの常連客として扱ってくれることは稀だった。次の改装で、この店も、どこの駅前にも同じようにあるチェーン店に姿を変えることだろう。

 コーヒーをすすりながらスマートフォンで一通りニュースを確認した後、顔を上げて入口の方に目をやると、ちょうどドアが開いて、若い女が店内に入ってきた。ドアのところで立ち止まり、店の中をキョロキョロと見回す。私を認めると、ホッとしたような笑顔を見せて近づいてきた。

由名時ゆなどきさん、ですね」

 小柄だが、背が低いという感じはなく、美人ではないが何か立体的な顔の作りは、どちらかといえば私の好みだった。わざと変装して困らせてやればよかった、となぜか意地悪な考えが浮かんだが、そのままスルーした。

「ええ、お待ちしていました。山田さん、山田明日さん。まあ座ってください」

 彼女はカーキのダウンジャケットを脱いで椅子にかけ、腰を下ろした。学生らしいレモン色のスウェットにデニムのミニスカートは場の雰囲気を明るくしたが、依頼内容を聞くまでは油断は禁物だ。私は本来の職務を思い出し、気を引き締めた。

「すみません、待ちました?」

「いえ、今がちょうど約束の三時ですよ」

「牛丼屋さんか何かの方が良かったですか?」

「……いえ、昼食はちゃんと食べたので」拍子抜けする質問に再びペースが狂って、いかにも間抜けに返答した。やはり理系に違いない、私は理由もなく確信した。そして同時に、何か嫌な予感が心をよぎった。



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