4.人形師セドリック
「……アルはしつこいな」
宿のフロントに預けられていた手紙を破り捨て、セドリックは低くつぶやく。
無造作にゴミ箱に捨てると、そのまま階段を登って部屋に向かった。普段の穏やかそうな様子を一変させて、不機嫌もあらわな足取り。表情は、苦しげにゆがめられている。
「ボクは……もう、嫌なんだ。嫌なんだよアル、アルヴェール」
階段の踊り場で足を止めた彼は、ここにいない手紙の送り主に語りかける。
友人と呼ぶほど親しいわけではなく、知人というほど薄い縁でもない。そんな位置関係にあるその男、アルヴェール・リータは、どこからかセドリックの居所を掴んで手紙をよこした。
ある日突然、書置きも残さずに失踪した彼を、わざわざ探して。
手紙の文面は見ていないが、どうせ帰って来いだの何だのとあるのだろう。
だから破り捨てた、読む必要がないから。
彼の存在を認識する苦痛に、今の心は耐えられないから。
アルヴェールとセドリックは、それぞれ似た分野を得意としている。
人形、あるいはドールと呼ばれる存在の、主にコアと呼ばれる部位の作成と調律を得意とするセドリックと、そのコアを組み込むボディ部分のエキスパートであるアルヴェール。
二人が揃えば作れないドールなど、存在しないとさえ言われた。
いずれヒトのように食物を摂取しエネルギーを得るボディを作るといわれ、あるいはヒトと見紛うほどの自我や感情を奏でるコアを作り出すだろうといわれ。
アルヴェールは、その重みに耐えた。
彼の目的は別にあったから、ただの生業だと思えたから。
セドリックは、耐えられなかった。
なぜなら、ヒトと見紛うココロこそ彼の夢であり悲願であり、目的だったから。
前に進めない恐怖。思い描く未来から大きく外れていく道。ある時から、セドリックの研究は進まなくなった。同じところを、同じ失敗を、壊れたように繰り返し続ける。
濁った音色を生み出すだけの、粗悪なコアに囲まれた日々。
不協和音に耐えかねて、彼はすべてを投げ出した。
高みから毟り取った高嶺の花からも、それを成した夢からも。
自分からも、逃げ出した。
その果てにたどり着いた町で、セドリックは出会ってしまった。かつての自分と同じような目をして、かつての自分が心に思い描いた道を進んでいる、一人の女優志願の少女。
ミュイル・シルスヴァーナと、出会ってしまった。
■ □ ■
明かりの下、初めての舞台に立つ彼女は、息を呑むほど美しかった。
見目はもちろん、そのココロが何よりも澄んでいて、美しい。
彼女は脅迫ととってしかるべき嫌がらせに、屈せずに前を向いている。普段の、いつものセドリックなら、きっとそれを勇気ではなく無謀だと笑っただろう。
けれど、今の自分にはそれすらないと、思い知った。
勇気も無ければ無謀さもない。
ちっぽけな足場に、縋りつくだけ。
傍にいるほど惨めな思いをした。あまりにも違う彼女の姿に、心が痛む。けれど、離れようという気持ちはわかない。むしろ彼女を、何者かから守らなければという使命すら感じた。
高らかに、劇場へセリフを響かせるミュイル。
彼女は誰よりも、輝いている。
セドリックはまっすぐに、舞台に立った彼女を見ていた。一瞬、彼女と視線が重なったような感覚に襲われる。思わず微笑むと、ミュイルは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
彼女は再び演技の世界へと戻っていき、残されたセドリックは席を立つ。
「まぁ、自分で乗った船だし、ちゃんとやることはやらないとね」
劇場の入り口に立って、もう一度舞台を見た。
もう、二人の視線は重ならない。
「……ちゃんと演技しろよ、未来の舞台女優」
小さな声でつぶやくと、セドリックは外に出て行った。
目指すのは、このタイミングでもっとも人が近くにいない場所。今はもう使われていない小道具などを置いた場所だ。それは現在、ミュイルが立つ舞台のすぐ裏側にあるという。
普通なら、何かしらの用途で使うべき場所だが、適当に物を積めこんだ結果、利用法を思いつく頃にはどうにもならなくなっていた、とセドリックは話に聞いている。
一歩入ったそこは、確かにどうにかしようと思う気力を、根こそぎ奪い去った。
そんな理由で誰からも忘れられつつある部屋に、先客がいる。
一人は男で、もう一人は女だ。
男に見覚えはないが、女は何度か会ったことがある。
彼女はミュイルの友人だ。生憎、その名前を思い出すことは出来ないのだが、ミュイルを劇場に運んだ時に血相変えて走ってきたので記憶に残っている。
まさかこんなところでその姿を見るとは、セドリックも予想しなかった。誰よりもミュイルを案じてくれていたから、彼女は間違いなくこの一件では味方だろうと思ったのだが。
勝手に動いて正解だったな、とセドリックは思う。
友人の裏切りを知れば、ミュイルはとても悲しむだろう。
セドリックが部屋に入ったとも知らず、二人は――というより男は、何かの作業にいそしんでいるようだった。互いの場所が悪く、何をしているかまではよく見えないが。
「もうやめて、ミュイルは関係ないじゃない。どうしてティルだけを狙わないの?」
「ティルを潰すにはな、こうやるのが一番なんだよ。誰も演じなければ、脚本家なんて役立たず以外の何者でもなくなる。そうさ、ヤツの脚本に関わると危ない、という噂を作るんだよ」
「で、でも」
「別にいいだろうが、あんな女優でも何でもないガキなんて」
「ミュイルは、あたしの友達よ」
「お前が立ちたかった舞台に立った、な」
女が沈黙する。
「ヤツを追い出したら、お前を主演にしてやるよ。安心しろって」
「……でも」
「この業界は、ライバルは蹴落とさなきゃいけないんだよ。何をしてでもな」
「だからって……だからって、セットを落としたりしたらミュイルが!」
死んじゃうわ、と。
女が震える声で叫んで、セドリックは男が何をたくらんでいるのかを知る。ついでに、男がいかにクズなのかも良くわかったので、心の中から手加減という文字を削除した。
あとはどのタイミングで、彼ら改め男を叩き潰すか――。
「もう、もうやめてよっ」
「キーラ?」
「主演なんて出来なくていいの、こんなの間違ってるっ」
女は男に飛びついて、泣き叫んだ。
犯罪行為を犯そうとする、おそらくは恋人のような存在である相手を、必死に止めようとしているようだ。けれど……男は、心底うんざりした目で、女を睨み付けるだけ。
その目に殺意を感じ、セドリックは飛び出す。
「あぶない……!」
叫び、手を伸ばすが間に合わない。男がどこからか取り出したナイフは、彼に縋っていた女の肌を切り裂いて赤を散らす。小さく悲鳴を上げて押さえたのは、左目の少し下の頬。
ぱたたた、と床に血が滴るのを、女は呆然とした様子で見ていた。
「やぁ、三文芝居の脚本家さん」
極力落ち着いた声で、セドリックは男の前に立った。
女のケガと突然の乱入者で、男は元から足りていなかったであろう冷静さを、完全に見失っているようだった。ただナイフを構えて、切っ先を目の前の誰かに向けることしかしない。
小さな震える声で、来るな来るな、と繰り返すだけの姿。
情けないにもほどがある。
こんな、臆病者にミュイルは、文字通り潰されかかったのだ。
あのティルという、彼女を見出した脚本家も。
この男――名前も知らないし、知りたくもない男は、実におろかだった。仮にティルを排除したところで、この劇場にはまだ他に脚本家が在籍しているだろう。
彼らを押さえて、自分が抜擢されるに違いない。そう考え信じているから、今回のような行動を起こしたのだと思われる。セドリックからすると、その自信という過信が愚かしい。
こんな手段をとらねば表に上がれないものが描く世界を、誰が好むのか。
誰が演じるというのか。
……乞われれば、喜んで演じただろう女優。
そんな稀有な存在をその手で、無残に手折っておきながら。
もっとも愚かなのは、まだ『いける』と思っているところだろう。セドリックを何とかすればまだやれる、と。この男はどうやら、そう思っているらしい。
セドリックという敵を排除し、ミュイルやティルを排除すれば。その先に自分の天下があると信じている。そこには、物語の主人公が抱く疑問や恐れ、葛藤など微塵も存在しない。
わずかな勇気すら含まない、純粋な無謀の塊だ。
いや、無知か。
この期に及んでなおも進もうとする男を、セドリックは心底冷めた目で見る。
「捕まえて縄で縛り上げるだけにしようと思ったけど、やめたよ」
この男は、徹底的に痛めつけたくなった。あれほどに想ってくれる相手の、その顔に傷をつけるなど許しがたい。ましてや、彼女を裏切るような発言をするなど。
セドリックは彼女との縁は薄いが、それでも心の中に怒りがこみ上げてくる。
男には、相応の『痛み』を味わってもらいたくなった。
ちらりと視線を向けた先には、使い古した小道具の山がある。
その中から、セドリックが引っ張り出したのは、ピエロの形をした人形だった。
「……こんな粗悪な人形も、うまく使えばこうなる」
人形の四肢にに指を這わせながら、セドリックは笑った。
かしゃ、と何かが軋む音が鳴る。男は周囲を見回し、音の出所を探った。音はリズムを刻むように響き続け、そのたびにセドリックの瞳が、愉悦を燈しながらで細められていく。
男は、ようやく気づいた。
セドリックが抱いた、人形から音がしていると。
糸でつる操り人形だったはずのそれは、ゆっくりと床に足をつけた。遊んでいるのか、と男は言おうとしたらしいが、何を、と言いかけたところで彼の動きは止まってしまう。
無理もないだろう。その人形に糸は無く、にもかかわらずそれは優雅にお辞儀をして見せたからだ。人間の常識では決して起こりえない光景が、目の前に広がっているのだ。
絶句する男と対照的に、セドリックの笑みは寄りいっそう鮮やかになる。
確かめるように指を動かすと、人形の間接がかしゃかしゃと音を鳴らして答えた。
「ほぅら――『人形師』の手にかかれば、こんなもんさ」
久しぶりに人形師らしい作業をした気がする。指を細かく震わせ、動きを確かめた。頭の中で思い描く通りに、涙のメイクが施されたピエロの人形は、実に滑稽な踊りを披露する。
かれこれ――そう、数十年ぶりの作業だが、経験は失せていないようだ。
相手が同業ならともかく、素人相手ならこの程度で充分だろう。
「お、お前……」
「あぁ、名乗っていなかったっけ」
かしゃり、と人形が小首をかしげるしぐさを見せる。
「ボクはセドリック。どこにでもいた、ただの人形師さ」
くい、と指先をわずかに動かす。
人形が滑るように移動し、男に接近した。
「ひぃ……く、るな、くるなああっ」
見えない糸でも切ろうとするかのように、男の腕が振り回される。しかしそれは人形の頭上で空を切るばかりで、無駄に体力を消費させるだけの行動だった。
人形は男をバカにするように、その周囲を踊る。
セドリックは、まるで指揮者になったかのように腕を軽く振るった。だんだんと戻ってくる感覚が嬉しくてたまらないのだ。失っていたものを、ゆっくりと取り戻している。
セドリックは人形師だ。
糸など無くとも、人形は彼の意のままになる。
作り物でも自我を持つドールや、ごく一部の人形を除き、彼のような人形師に操れないものなど存在しない。その気になれば――死体さえ、彼らは自在に操ってみせるだろう。
「は、はは……そんな人形に、こいつが負けるわけがない!」
いけぇ、とかすれた声で叫ぶ男。その声に答えるように、ゆらり、と物陰から現れたのは爽やかそうな青年の姿を模したドールだった。あの日、ミュイルを襲っていたのと同タイプだ。
「ふぅん、二体目かな? ずいぶんと高い買い物をするんだね、売れない三文脚本家が。主演にすると嘯いて、その顔と心に傷をつけた彼女から、いったい幾ら巻き上げたのかなぁ」
「う……うるさいうるさい!」
「やれやれ、素人の相手をするのは面倒だ」
くい、とセドリックは腕を振るう。人形が身構え、ドールに相対した。
しばしの沈黙をはさみ、ドールと人形は同時に前に動く。
だが人形は、ドールを無視し、まっすぐに男に向かって移動した。ドールに相対するのは丸腰のセドリックただ一人。未だその唇に、笑みを浮かべたままの華奢な少年だ。
「ボクは、ヒトと見紛う音色を求める『人形師』セドリック」
たとえその夢を諦めようとしていても。
その夢に捧げた時間が生み出した、経験や技術は決して消えない。
「ボク以上に、ドールの中身を理解している『魔人』は――いないだろうね」
セドリックの首を掴まんと腕を伸ばすドールの、その懐に飛び込む。人間で言うと心臓がある位置に手のひらを押し当て、かるく突き飛ばすように力を込めた。
びくん、とドールの手足が震え、止まる。
「え……?」
男がまとわりつく人形を払いのけながら、その光景を見ていた。自分の命令だけを聞くように調律してもらったドールが、こちらに向かってくる。
敵に背を向け、まるでセドリックこそ主だ、と言わんばかりに。
「自我がないドールはね、ちょっとコツをつかめばすぐに奪えるよ」
くすり、とセドリックは笑う。
「キミの敗因は、ボクがミュイルを好ましく思ったことと、ドールを使ったことだ。人形師相手に自我のないドールは、相手に武器を与えるだけの行為だと、身をもって覚えるといいよ」
「ひ、ぃ……っ」
「もっとも、その知識を生かす『次』など……絶対に、ないだろうけどねぇ」
ドールの手が男を捕らえ、直後、耳障りな悲鳴が響きわたった。
■ □ ■
セドリックは開かれた扉のところに、ぼんやりと佇んでいた。
かすかに聞こえてくるのは、隣にある劇場の――大歓声。
「あの子は立派な女優になったのね」
それを聞いて、女はぽろり、と涙を零す。
「あたし、確かにあの子を妬んだこともあったわ。どうして、あたしじゃなくて、あの子ばっかりなんだろうって。あいつがティルを妬んだよりも、ずっと強く、妬んだと思う」
頬を布で押さえる女――キーラは、遠くに転がった恋人だった男を見た。ドールにしこたま暴行を受けた男は、現在意識を闇に飲み込まれている。当分目は覚まさないだろう。
「立派、というほどじゃないさ。まだまだ巣立ったばかりじゃないかな」
「でもあの子は努力できる子だから、きっと大丈夫ね」
だけど、とキーラは目を伏せる。
「優しすぎるあの子のこれからが、心配で仕方がない……それだけが、気がかり」
その心ゆえに、潰されてしまうかもしれない。
思えば、セドリックが知る限り、彼女はミュイルを常に案じていた。本人が言うのだから妬みもあったのだろうが、それよりもミュイルへの愛や、想いが勝っていたのだろう。
だからあの時も、必死に恋人に縋って犯行を止めようとした。
結果は、最悪こそ回避したものの、決して良いとは言いがたい終わりになったが。
やはりシナリオのように、現実は動かない。
「心配しなくても、彼女は弱くはないよ。優しいけどね、しなやかな心だ。どんな風に曲げられても折れたりしないだろう。そりゃあ人間だから、傷ぐらいはつくかもしれないけどね」
けれどそれさえも、ミュイル・シルスヴァーナは己の糧にするだろう。
強く、しなやかな心で。
だからか、とセドリックは目を閉じて、思う。
そんなミュイルだったからこそ、自分はここまでおせっかいになれたのだ。自分と比べて惨めに思ったのだ。この気持ちに名前をつけるなら、それはきっと『憧れ』だろう。
今なら、昔のように歩き出せる気がする。
もう一度この手を伸ばして、捨てようとした願いを拾って。
舞台に花咲く彼女の姿をお手本にして。
思い出せないほど遠い昔、誰に何と言われても気にせず歩き出したように。
もう一度、前に向かえる気がしていた。
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