第三章 知らないフリっ!

「はぁはぁ、足音が聞こえる。そしてこの匂い、間違いなくアイツが近くにいます。ふぇっ、主様何処ぉ?」



 牙千代はあたりを見渡しながら何かから逃げていた。行きかう人々は牙千代のその愛らしさに思わず笑みがこぼれるが、ただ一人牙千代だけはそうじゃななかった。



「なんですかこれは、どうして私が鬼の私が逃げなければならないんですかぁ!」



 涙を瞳一杯に貯めてできる限り全速力で走る。

 姿は見えないが気配は既に感じていた。もう1キロ圏内にはそれは迫って来ている。得も知れぬ恐怖が支配する中、突然牙千代は知らない人に声をかけられる。



「あの、すみません」

「えっ、はい」



 面識のない大学生くらいの男、その男は自分の携帯電話を差し出してこう言った。



「多分君の事だと思うんですけど、電話変わってくれって僕の電話に突然かかってきたんだ」



 牙千代はその携帯電話を受け取ると耳に当てる。



「私、貴子。今貴女の近くに来てるの」

「ひぃいい」



 携帯電話を落として牙千代は泣きながら何処へ逃げるわけでもなくただまっすぐに走る。自分を助けてくれる人の顔が思い浮かぶ。



「ある、主様」



 彼の姿は見えない。一度家に電話をしようと見つけた最近少なくなった電話ボックス、そこに入りなけなしの硬貨を入れようとした時。

 ジリリリリリリリ♪

 目の前の公衆電話が鳴り響いた。


                   ★


 牙千代は瞼を閉じればその光景を思い出す事ができた。

 鬼が島、物心ついた時にはそこで他の鬼達と住んでいた牙千代の故郷。その頃には鬼としての名前を名乗っていた。



「なんですか・・・・・・これは・・・・・・」



 そこはまさに地獄絵図。

 そこら中に血が飛び散り、肉片、死体、死体、臓物の川を歩きながら、牙千代はこんな事をする者について心当たりがあった。

 それは姉として慕っていた鬼。

 とにかく戦う事と血が好きな破戒者であった。同胞殺しはさすがに文句の一つでも言ってやろうと思った時、牙千代は一瞬現実を受け止める事ができなかった。



「せ、殲滅鬼せんめつき大姉様おおあねさま・・・・・・」

「あら、深淵鬼しんえんき



 最強の鬼神と言われた魔物が首だけを残して辛そうに笑っていた。



「何が、何があったんですか?」



 この鬼よりも強い者などいるわけがないと牙千代は思っていた。



いぬさるきじひつじを連れた。桃のかんざしをした・・・・・・」

「桃の簪をした何です?」



 切羽詰った牙千代とは違い殲滅鬼は満ち足りた表情で笑う。そして首だけでも気高く美しかった最強の鬼神、殲滅鬼は静かに瞼を閉じた。



「大姉様、おおあねさまぁああ」



 薄くなってきたお茶をすすりながら虎太郎が相槌を打つ。



「ふーん、桃太郎の話って実話だったんだね?」

「えぇ、主様たち人間の中ではヒーロー列伝かもしれませんが、私たち鬼からすれば恐怖の物語ですからね」



 まぁ人間が鬼をばったばった切って皆殺しにするので、鬼側からすれば大虐殺物語なわけである。



「ところで牙千代は何故桃太郎の乱に遭遇しなかったの?」



 たくわんをポリっと食べるとお茶をずずっと啜る。



「あぁ、私は寺子屋に行ってましたので、奇跡的に桃太郎に会いませんでした。空腹で気がたたった土佐犬とゴリラみたいな猿と想像を絶する大きさの凶暴な雉を連れた巨人が桃太郎だと私は後世に伝えましたとも」

「えっ、そうなの?」

「いえ、見てませんので私の想像です」

「どうやって今の桃太郎物語になったのか不思議でしかたがないね・・・・・・さて、これどうしようか?」



 牙千代の実話だった昔話シリーズを聞きながら現実逃避をしていた二人だったが、今二人の前には一枚の紙が置いてあった。

 そこには大家である御劔貴子を誘拐したというような文言が書かれている脅迫状らしき物だった。



「主様、どうだろう? 信長公が私にベタ惚れしてマムシの娘がたいそう嫉妬した笑い話でも聞きませんか?」



 それもいいなとか思いながら虎太郎は脅迫状を見てため息をつく。

 今日は金曜日、毎週金曜日は大家である貴子がカレーをご馳走してくれる日であった。そう言えば聞こえはいいのだが、普通の味のカレーを巨大な鍋で作り、それを全部平らげるまで帰らせてもらえない。



 ある意味拷問のような日である。



「そうだね。じゃあ聞こうかな」



 脅迫状、これは高い確率で貴子の遊びだろうと二人は思っていた。

 何故なら先ほどの牙千代の話ではないが、貴子よりも強い生物はこの世には存在するのかというくらい人知を超えた存在である。

 そして誰かが書いたであろう脅迫状の誤字脱字をご丁寧に貴子の綺麗な字で訂正してあったりする。



「このまま帰って来なければいいんですけどね」



 ぼそりと牙千代が本音を吐く。

 牙千代は貴子の格好の玩具だった。基本的にはプライドの高い鬼が遊ばれ、いじられ、時には刀の錆びにされるのだ。たまったものではないだろう。



「さて、俺たちには今二つの道があります。一つはこのまま流れに身を任せて貴子姉さんに後程しごかれるか、もう一つはこの戯言に付き合ってカレー地獄に合うか」

「一は肉体的に疲れて、もう一つは精神的に病みますね。こんな時、仕事の一つでもあれば言い訳だってできますのに・・・・・・」



 じとっと虎太郎を睨むが虎太郎はそうだねと横になる。牙千代は仕事がないかと新しいパソコンに電源を入れて依頼が来ていないか無駄な事をしていた。虎太郎は脅迫状を取るとそれを声を出して読み上げた。



「可憐な美少女(追記)、御劔貴子は預かった。返して欲しくば、これは二十斜線で消されてる。代わりに命が惜しければ・・・・・・これは俺たちの命が惜しいと取っていいんだろうか? 夕刻までに鬼を差し出せ。役行者えんのぎょうしゃゆかりの者って部分には二十斜線で消されて代わりに闇の組織と書かれてる」

「でもそれ私を欲しているという意味がわかりませんね?」

「ロリコンなんじゃないの?」



 牙千代は虎太郎のわき腹に手刀を入れる。



「違うでしょ! 鬼の力を欲する者ということですよ。それも役家の者です」

「何それ?」

「話せば長くなりますが、一時期は鬼を使役していた忌むべき人間です」

「阿部野なんとかさんとか?」

「そうですね」

「そういう面では俺の御劔家はマイナーなんだな」



 お茶を飲もうとした虎太郎に牙千代は独り言のように呟いた。



「御劔が一番鬼に関わりの深い家ですけどね」

「そうなんだ」



 人事のように返す虎太郎に牙千代もそれ以上何かを言う気力が沸かなかった。そういう気分なのである。

 貴子絡みという事は・・・・・・

 そんなやる気が完全に削がれている二人の下に小さな訪問者が現れた。



「お邪魔しまーすぅ」



 綺麗な金髪を揺らしながら玄関には玉藻の姿があった。手には虎太郎と牙千代が生涯でいくつ食べた事があるか分からない有名なドーナッツ店のドーナッツの箱。



「玉藻ちゃんいらっしゃい」

「玉藻殿、お身体の方は?」



 荷物を置くと細い腕で力瘤を作るような仕草を取り元気である事をアピールしていた。それに牙千代は安心し部屋へと招く。

 さりげなく牙千代がゴミ箱に貴子を誘拐した脅迫状を捨てるのを虎太郎は見ていた。


(あっ、やりやがった)


 そしてそれを見ても見ぬフリを虎太郎もする。

 客の相手をしているという言い訳も聞くかなと考えて未来に起こりうる事を先送りにした。

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