第8話

 庭でお茶をするのには、とてもいい日和だった。

 木漏れ日は柔らかく、ときおり気持ちのいい乾いた風が、菜園からハーブのにおいを運んでくる。もっと早い時期だったなら、雨の心配をしなくてはならなかったし、もう少し秋が深まれば、いささか風が冷たすぎただろう。

 マルグリットに贈られたカーディガンは、実際に羽織ってみれば、あんがい可愛らしすぎるということもなく、だからといって、もちろんわたしを不必要に若く見せてくれたりもしなかった。もっとも、そのことを確認したからこそ、着てもいいかという気になれたのだが。

 到着を知らせるメッセージが網膜表示にポップアップするよりもずっと早く、近づいてくる車の走行音が聞こえていた。ここはトラムの駅から三マイルあまり離れていて、自動運転のタクシーを捕まえるか、自分で運転して来るしか交通手段がない。

 タクシーを降りた青年が辺りを見渡すのに、庭から出て手を振ってみせた。

「サイトー? こっちよ」

 現実のサイトーは、アバターと同じ顔をしていた。そして、生身である分だけ、アバターよりも美しく見えた。

 そうではないかと薄々思っていたが――《図書館》でのサイトーのふるまいには、自分を本来以上に美しく見せたいと思うたぐいの人間に特有の気取りが感じられなかったから――いざ目の当たりにしてみれば、やはり少しばかり複雑ではあった。

 親子ほど年齢が離れているのはわかりきったことだけれど、いまどき見るからに年をとった母親というのも珍しいから、人が見たら、祖母と孫と思うかもしれない。

 そんなわたしの屈託など知る由もなく、サイトーは仮想空間でそうしていたのと同じように、礼儀正しく微笑んだ。

「お招きありがとうございます」

「ごめんなさいね、呼びつけてしまって。遠かったでしょう」

 サイトーがどこに住んでいるか、確かめてはいないけれど、たいていどこからやってくるにしても、ここは乗り継ぎが不便なのだ。そのぶんだけ来客が少なくて、静かな土地ということでもあるのだが。

「これは……」

 庭に足を踏み入れたサイトーは、眩しげに目を細め、その表情を見て、わたしはおおいに満足した。

 年中何かしらの花が咲くようにしてはいるけれど、いまの時期がわたしは一番気に入っている。花壇には秋咲きのバラ、菜園にはローズマリー、セージとタイム、そのほかいくつかのハーブ。いくつかの木は黄葉し、生け垣ではサンザシが赤い実をつけはじめている。木陰になっている一角には、白いテーブルと椅子を置いてあって、その上に秋のやわらかな木漏れ日が、風にあわせて揺れている。

「あの中庭みたいに、完璧に整えるのは無理だけど……」

「こちらのほうが、ずっと素敵です」

 サイトーは間髪いれずそう言って、生け垣に手を伸ばした。その長い指がサンザシの実にそっと触れるのに、つい見とれてしまってから、わたしは慌てて目を逸らした。

「もうすぐお茶が入るから、そこの椅子にかけて、少し待っていてね――ああ、そこ、気をつけて」

 わたしが注意をするよりも先に、サイトーは足元に咲くその花に、気がついていたようだった。

 敷石を並べて作った庭の小道の中ほどに、一輪だけ、濃い紫色の花がひょろりと伸びている。「植えたわけではないのだけれど、どこかご近所から種が飛んできたみたいで」

 歩くときにちょうど邪魔になる位置でもあるし、いざ花が咲いてみれば、花壇に植えたほかの植物とあまり雰囲気がなじまないところもある。けれど、思いがけない出会いが嬉しかったから、抜いてしまわず、そのままにしていた。

「サルビアの仲間だと思うのだけれど。可愛らしい花でしょう?」

「――ええ」

 サイトーはその場で腰をかがめて、その紫色の花を見つめた。何を思うのか、その視線は、草花を愛でるというような穏やかなものではなく、そこにはどこか必死な――思い詰めた色があるように、わたしの目には映った。

 その花に、彼は、何を重ね合わせているのだろう?

 気にはなったが、声をかけそびれたのは、サイトーがその前に顔を上げて、わたしの足もとを見たからだった。

 茶器を運ぶわたしが足をひきずっていることに、彼は、すぐに気がついたようだった。立ち上がって手伝いを申し出るサイトーに、わたしは笑って断った。「お客様なのだから、おとなしく掛けていて」

 まるで自分がどこか痛むかのような顔をして、サイトーは遠慮がちに言った。「ここはとても素敵なところですが、暮らすには少し、不便ではありませんか?」

「そうでもないわ。普段はあまり遠出する用事もないし、お隣さんにはよくしてもらっているし……ああ、ほら」

 マルグリットが二階のバルコニーから顔をのぞかせるのが、ちょうど視界に入って、わたしは手を振った。

 彼女の視線がわたしの着ているカーディガンとサイトーを交互に見たのがわかって、少しばかり気まずい思いをしたが、わたしは素知らぬふりをして声を張り上げた。「ごきげんよう、マルゴ。盗み見とは少々はしたないわよ!」

「まあまあ、スージー、あなた人の知らない間に、そんな美青年をつかまえて!」

「人聞きの悪いことを言うのはよしてちょうだい! あなたも一緒にお茶にしない?」

「ええ……そうね。だけどそちらの方、あなたが先日言っていた、図書館でのお友達?」

「そうよ。サイトー、彼女はマルグリット。こう見えて同じ年なの」

「ちょっと! そんなことまで言わなくてもいいじゃない!」

 マルグリットは拳を振り上げて怒ってみせたが、目は笑っていた。

「はじめまして、サイトー。あなたのような美青年とお茶ができるんだったら、どんな用事だってすっぽかして駆けつけたいところだけれど……」

 階段から降りてきたマルグリットは、生垣越しにあらためてサイトーの姿を眺めると、大きく溜息をついた。「こんな美青年が、女の子とデートする時間も惜しんで、かび臭い図書館で本なんか読んでるわけ? まったく人類の損失だわ!」

「仮想空間に黴菌を散布できるプログラムがあなたに発明できるのなら、ぜひともその技術をご教授賜りたいところですけれどね、マルゴ。それで、お茶に同席するつもりがあるの、ないの?」

「せっかくのお誘いだけど、よしておくわ。デートの邪魔をして、馬に蹴られたくはありませんからね!」

 笑いながら生け垣の向こうに頭を引っ込めたマルグリットをひと睨みしてから、わたしは肩をすくめた。「まったく……年を取ると恥じらいがなくなってだめね」

 目を白黒させていたサイトーは、ようやく笑って、こちらを向いた。それからふっと、言葉を取り零したように呟いた。「仲がいいんですね」

 どこか、遠いような声だった。そのことが気に懸かりはしたものの、サイトーが、自分で口にした言葉に自分で戸惑うような顔をしたので、わたしは気づかなかったふりをして、明るい声を出した。「腐れ縁とも言うわね。まあ、でも、そうね。とてもいい友人だわ」

 止まっていた手を動かして、茶器を並べおえてから、さあ、と声を張った。

「まずは冷めないうちに、お茶にしましょう」



 朝のうちに焼いておいたマフィンやクッキーをつまみながら、ひとしきりたわいのないおしゃべりを――主にはわたしがサイトーに本の感想を聞いて、彼がそれに答えるというものだったが――している間、サイトーは何度か、迷うような目をした。《図書館》では話しづらいことだからと言って、わざわざ場をあらためておきながら、いまさら本題を切りだすことをためらっている。あるいはどう話すべきか悩んでいる……

 わたしはわたしで、彼に問いただすだけの踏ん切りを、なかなかつけきれずにいた。何ならこのまま、いつもと変わらないおしゃべりだけを続けていたいくらいだった。

 だが、そういうわけにもゆかなかっただろう。サイトーの顔色を見ていれば、いやでもそれはわかった。

 それで、お茶のおかわりを注いだタイミングで、さりげない口調をこころがけて、水を向けた。「それで、話というのは?」

「ええ……」

 サイトーは小さくうなずいて、それから、また言葉を探すように、少し黙った。目を伏せてカップを置くと、テーブルの上で指を組む。その頬の上で木漏れ日が揺れるのに、わたしは状況も忘れて、つい見とれた。

「お父様は、子供のころ、紙の本を読んでいたと仰いましたね」

 ようやく話の糸口を見つけたように、サイトーは切り出した。

「ええ、そう聞いているけれど」

「ぼくも、そうでした」

 その言葉に、わたしは曖昧にうなずいた。出会ったばかりの頃、たしかにサイトーはそういう話をしていた。ページをめくって目で文章を追うやりかたのほうが、彼にとってはなじみ深いのだと。

「ミズ・リツェッラは、ご自分が生まれて初めて読んだ本が何だったか、覚えておられますか?」

 急に聞かれて、わたしは戸惑いながら、チップの記録を参照した。「何と言われても……、幼児向けの一般的なテキスト学習メソッドよ。わたしの世代で使われていたものは、いまごろの子供たちのみたいに、洗練されてはいませんでしたけどね」

 サイトーはうなずいて、それから、組んだ指で自分の口元を覆った。まるで、そうすることで、自分の声の震えを隠そうとでもするかのように。

「ぼくが生まれて初めて読んだ本は、聖書でした」

 その言葉に、わたしは困惑した。たとえば生まれてはじめて読み聞かされた物語が聖書の内容であったとしても、それは別に不思議なことではない。家で親から聞かせられたにしても、物心つく前から欠かさずミサに通っていたにしても、いまどき珍しく信仰熱心な家庭に生まれたのだなと、そう思うだけだ。

 だけど、テキストが理解できるようになったばかりの幼児に、教材として最初に与えるものが聖書というのは、いささか難解すぎるのではないだろうか?

 目を伏せたまま、サイトーは硬い声で言った。

「ぼくが十三歳になるまで《チップ》を持たなかったと言ったら、信じていただけますか?」

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