第3話

フルネームを呼ばれて一瞬息が詰まった。


顔を上げた先には申し訳なさそうに眉を下げた、いかにも穏和そうな男が、紗枝が席を立つのを待っている。


高校と名前、外見を知られてしまえば住所を探し当てるのも時間の問題だろう。


小さく溜め息を零し、鞄に本を仕舞うと肩へそれをかけて立ち上がった。


男は手早く会計を済ませると雑居ビルを出て斜向かいのコインパーキングへ行き、一台の車に乗って出て来る。


漆黒のジャガーはフルスモーク仕様の窓になっており、運転席から降りてきた男が後部席のドアを開ける。


覚悟を決めて乗り込めばドアが閉められた。


運転席に男が乗ると全てのドアにロックがかかる音がした。


シートベルトをして走り出した車は流れるように道路を滑る。


すぐに大通りに出て駅の方へは行かずにしばらく走り続けると高級店の立ち並ぶ場所へ出て、そのうちの一つの地下駐車場へ乗り入れる。他にも高そうな店があったけれど、ここは一等敷居が高い店であることは周りに並んでいる車達をして明白だった。




「どうぞ」




開けられた後部席のドアから降りる。


鞄も持って行こうとしたが、置いて行くように止められた。


仕方なく手ぶらでダークブラウンの男の傍に立てば、上階に続くのだろうエレベーターに誘導され、それに乗り込む。男が押したのは十七階のボタン。扉が閉まり若干の浮遊感を伴って上へ上がっていく。


到着を告げる気の抜けた音と共に扉が開いた。


その先には、これまたやはり高級ですと言わんばかりのレストランが広がっていた。


近付いて来たウェイターに男が一言二言話をしただけで心得た様子で案内される。


ドレスコードでなければ入れなさそうな店であったがブレザーのお陰か特に何も言われなかったものの、こういった店に入るのは初めてで落ち着かない。




「こちらでございます」




お洒落な木目調のドアを開けたウェイターが頭を下げる。


促されるまま室内へ足を踏み入れると、後ろから「ごゆっくりどうぞ」と声がして扉の閉まる音がした。


部屋は個室で、扉の真正面の壁は一面ガラス張りになっており、外の景色がよく見え、中心にあるテーブルには既に先客がいた。


青みがかった黒髪をオールバックにしたあの男だった。


ダークブラウンの男は紗枝を黒髪の男の正面に座らせ、自身は上司の隣に腰掛ける。




「改めましてこちらが上司の冬木東吾ふゆき とうご、私は新見愁にいみ しゅうといいます」


「……柳川紗枝です」




今更な挨拶にとりあえず紗枝も返したが、冬木という男は黙ってテーブルに頬杖をついたまま無遠慮な視線を向けてくる。


冬木は新見とは逆にグレイッシュブルーにストライプの入った涼しげなスーツ姿で、全体的に青い印象を受けた。色白の肌との対比が美しく、ノーネクタイだが小さなシルバープレートのネックレスが首元を華やかに飾っている。


テーブルの上には芸術的に盛り付けられた料理が並んでおり、冬木の前にある皿は半分ほど食べてある。


紗枝の前にも同様の料理があったが勧められても手をつける気にはなれなかった。


形ばかりにグラスの水で唇を湿らせた紗枝に新見が口を開く。




「実は三日前、貴方と御会いした後に少々トラブルがありました。大事には至りませんでしたが数人負傷者が出て、ここにいる冬木も危うく怪我を負うところでした」




嫌な予感がヒシヒシ漂ってくる。


相手の言おうとしていることが何なのか紗枝はもう気付いていた。




「逆上した男が暴れて鉄パイプを振り回しましてね、貴女にあの時‘右のこめかみに気を付けて’と言われなければ恐らく避けられなかったでしょう」




グラスを握る手が微かに震えてしまう。


それ以上聞かないで欲しい、聞きたくないと思う反面、それは無理だろうと頭のどこかで囁く声がする。


誰とも知れない相手を制服を頼りにたった三日で名前まで調べ上げた理由。




「でも腑に落ちない点がいくつかあるんですよ。本来であればその男と我々は会う予定がなかっただけではなく、調べても男と貴女に接点はない。しかし貴女はハッキリ庇うべき部位を口にした」




ニコリ、新見が穏和な顔に優しそうな笑みをつくる。




「何故怪我のことを知っていたのか、そしてあの時我々に話しかけたのか、教えていただけますか?」




……やっぱりそうなるか。


持っていたグラスの水を一息に仰いでから一度大きく息を吐く。


これまではそうと気取られない程度に注意喚起をしたり、二度と会わないことを前提として声をかけていたが、まさか個人を特定されるとは思ってもみなかった。


目の前の男達はどう見ても嘘や誤魔化しじゃあ納得してくれなさそうだ。




「……分かりました、全てお話しします」





色々と考えを巡らせてみたものの、結局上手い言い訳も思い浮かばない。


子供の頃からの――それこそ親にも話したことがない――秘密を、まさか今になって赤の他人に打ち明けることになろうとは。




「わたしの左目は視界に映った人間の怪我を予知出来るんです」




当たり前だが二人の男が怪訝そうな顔をする。


紗枝自身でさえこんな身の上でなければ信じられないだろう。




「もっと簡単に言うと相手が未来に負うであろう怪我の程度が視えます。ただしこれは目視出来る部位に限定されるのでお二人の格好では首から上と掌くらいしか分かりませんし、いつどこでといったことも分かりません。オマケに午前零時でリセットされるので視える傷は‘当日分’のみです」




早口に並べ立てた紗枝の言葉を噛み砕くように数秒間を置いて、初めて冬木が喋った。




「信じらんねぇな」




低いハスキーボイスは呟くような小ささにも関わらず室内によく響いた。


真正面から見据えられて気付く。


冬木の瞳はダークグレーだ。それも瞬きをするほんの一瞬、光の加減で青みがかって見える不思議な色合い。でも目を眇めると黒く沈んでしまう。




「そうでしょう、わたしも他人だったらそう思います」


「ではあの時我々に声をかけたのは‘怪我を予知した’からですか」


「そうです。正確な時間は特定出来なくとも、怪我を負うまでに二時間を切ると左目で視える傷が鮮明になるんです。そのまま放置して後で寝覚めの悪い思いをしたくないので、重傷かつ危険が迫っている人にだけはああして一声かけるようにしているんです」




でもこうして探し出されたのは初めてですよ。


そう言って肩を竦めてみせた紗枝に新見が笑みを引っ込める。




「今の我々には何か見えますか?」


「……いいえ、何も」




右目を閉じて冬木と新見を視るが、左目に変化はない。


相変わらず冬木は胡散臭そうな眼差しを紗枝に向けている。


もう隠すべきことは言った。後は相手がどれだけこちらの言い分を信じるかどうかの話である。




「何か試してくださっても構いませんよ」




例えば誰でも良いから数人連れてきて、明日までに誰がどんな怪我を負うか視るということも出来る。紙にでも書いて翌日確認すればいい。


紗枝の言葉に冬木はしばし逡巡する仕草を見せた後、懐から名刺を取り出した。


テーブルの上に置かれたそれは真っ白な下地に筆で書いたような文字、左上に何か花を模したロゴが箔押しされており、視線に促されて手に取ってみると和紙っぽい指触りだった。


‘五代目岡止組 若中 冬木東吾’


裏返すと住所と携帯のものらしき電話番号が手書きで記されている。


岡止(おかと)組といえばこの近辺に本部を置く大きな暴力団の名前だ。時折ニュースで挙がることもあれば、地元住民の間でも結構有名で、警察からマークされているとも聞く。


名刺と冬木の顔を思わず交互に見て、また新しいことに気付いた。


今まで隠れていた顎に近い左頬から耳と首の付け根辺りまでケロイド状の火傷跡があった。元が白いだけに赤黒く引き攣れたそこは整った顔と同じくらい人目を引くだろう。見る者によっては宝石についた瑕(きず)と思うかもしれない。


だが紗枝はそれを左目で一瞥すると興味を失くした様子で視線を顔に戻す。


時には事故や火事に遭って死ぬスプラッター顔負けの人間を左目で視ることのある紗枝からしたら、ケロイドの一つや二つで動じるほど柔い精神は持ち合わせていなかった。




「一応聞きますけど、これ偽物じゃないですよね?」


「ああ? 本物に決まってんだろうが」


「すみません、疑り深いもので」




ついレストランの煌びやかな明かりに名刺をかざして矯めつ眇めつしてしまう。


スルリと指先から名刺が引き抜かれたかと思うと、裏に何かを書き込んだ新見の手によってまた返される。裏に新見の名前と携帯の番号が書かれていた。


どういうつもりなのか見遣れば冬木が気怠げに椅子に背を預ける。




「登録しとけ。テメェの左目が本物マジか試してやるよ」


「登録名は適当な偽名でお願いします。我々の名前はその筋の界隈ではそこそこ知られていますので、もしそういった関係者に見られると厄介ですから」


「はあ……?」




手の中の名刺を胸ポケットに仕舞いつつ生返事を零す。


食欲はないが、冷めてしまっただろう料理を口に運ぶ目の前の二人に紗枝もフォークとナイフを手に取った。ソースやらハーブやらで綺麗に飾られている肉をおざなりに切り、口へ運んでちょっと考え直す。


それはあまり食べ物にこだわりのない紗枝でも分かるほど美味しかった。

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