第2話
放課後、友人と別れて高校近くの喫茶店へ向かう。
駅とは反対側へ十五分ほど歩いた裏通りにあるそれは一見するとただの雑居ビルだが、二階の店内へ入ってみると内装は木を基調としたレトロな造りでカウンターとテーブルを合わせても二十席あるかどうかという小さな店だ。
外看板には‘喫茶’、出入り口の扉には‘OPEN’の文字しか書かれていない札、マスターに聞いたことがあるけれど店の名前はAAA《ノーネーム》。文字通り名前のない店である。
雨宿りついでに物は試しで入った店だったが、人の出入りも少なく落ち着いた雰囲気と古い
やや重たい扉を押し開けると涼やかなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうに立っていた初老の男に声をかけられる。
普段一緒に働いている奥さんがいないところを見るに、買出しか何かでいないのだろう。
「こんにちは」
「いつものヤツでいいかな?」
「はい、お願いします」
そして店内の隅、観葉植物でやや隠れた位置にあるテーブル席へ腰掛けた。
数ヶ月前から通い始めた紗枝の定位置がここだった。
窓際でブラインドを半分ほど下すと日差しが心地好く当たり、人目に付き難く、レコードのスピーカーからは一番離れているため音楽に邪魔されずに読書を出来るピッタリの場所。
肩にかけていた鞄を隣の椅子に置いて今日買ったばかりの本を取り出す。書店名がプリントされた紙のブックカバー越しに触れる硬い表紙の厚みと重さに、しばしの間うっとりと感じ入ってしまう。
文庫本も出ている本だが、紗枝は断然ハードカバー派で、一冊千五百円以上するそれは一女子高生からすれば随分高価な買い物である。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
テーブルの上にはこの店オリジナルブレンドのホットコーヒーとレアチーズケーキのセット。ケーキは他にも三種類あるものの、紗枝はいつもこれを頼んでいる。
まず一口コーヒーを飲んで、それからテーブルに本を広げてページを捲くる。
紗枝は読書が好きだ。趣味と言っても過言ではない。
電子書籍や携帯小説にも目を通すし、面白いと思えば辞典でも躊躇いなく読む。
しかし今時の甘いラブロマンスや乙女チックなものには見向きもせず、むしろ残虐なシーンや悲惨な結末、読後に遣る瀬無い気持ちになるようなミステリーやサスペンスを主に好み、それ以外でも教科書に載っていそうな文学的内容へ傾倒した。
今回の本も書店で冒頭を立ち読みして買ったミステリーモノだ。初っ端から始まるショッキングでインパクトのある生々しい出だしと読み手を作中へ惹き込む文章に、紗枝はすぐさま夢中になって活字を追う。
文庫本に比べて字が大きいのもハードカバーの利点だ。
ゾッとする序章を読み終えて、放置していたケーキを少しつつく。
チーズとレモンのまったりした香りにコーヒを含めば心地好い苦味が気分を引き締め、一息ついたところで手元の本へ視線を落とす。
一般人の主人公が事件に巻き込まれながらも自身の身の潔白のために奔走する話らしい。
登場人物の名前は覚えやすい上にそれぞれ個性的な特徴があり、平々凡々で地味なタイプの主人公との掛け合いも小気味良く、その一方で悪役である犯人が非常にシニカルで魅力あるサイコ系なのが面白い。
切迫した心理や状況描写の上手さがスプラッター映画さながらなのも凄い。
あっという間に第一章を読み終えてしまった紗枝はコーヒーに手を伸ばし、カップに口をつけて傾けようとして動きを止めた。
目の前の椅子に見知らぬ男が座っていた。
正確に言えばその顔だけは覚えがあった。
「こんにちは」
三日前に駅前で声をかけた二人組みの片割れ。
ダークブラウンの男がニッコリ笑う。
「……どうも」
チラと見た店内は相変わらず人影もなく、他の席は空いている。
紗枝はこれでも人の気配にはかなり敏感な性質で、読書に熱中していても足音や視界の端を動くものがあれば嫌でも気付くはずだ。
それなのに全く存在を感知させなかった男を失礼にならない程度に眺めつつ、冷めたコーヒーをゆっくり時間をかけて飲む。
今日はベーシックな無地のブラックスーツに白いワイシャツ、ワインレッドのネクタイはストライプが入っている。前回同様細身のシルバーフレームの向こうには閉じているんじゃないかと思うような糸目。でも改めて見た顔はなかなかに整っている。ピンと通った背筋も姿勢が良い。テーブルの上で組まれた両手の左には一目でそれなりに値の張るものだと分かる、眼鏡と同色の細いデジタル式腕時計。
第一印象は出来る商社マンの風体だ。
「先日はありがとうございました」
でもダークブラウンの男が言葉を発する度に、血の気の引く音が聞こえる錯覚を覚えた。
カップをソーサーに戻して小首を傾げてみせる。
「えっと、何のことですか? それにどちら様でしょうか?」
「これは失礼致しました。三日前に駅前でペンを拾っていただいた者の部下です、その説はお世話になりました」
向こうもあの日のことをしっかり覚えているようだ。
けれども上司がペンを拾ってもらったくらいで部下が礼を言いに来るだろうか。そもそもあれは結局男達の物ではなかった上に紗枝は名乗っていないので、本来であればこうして顔を付き合わせることはないはずである。
もし着ていた制服から高校を割り出したとしても、紗枝と同じ特徴の女子生徒は多く、実際に顔を見ない限り特定は難しいだろう。
それこそ門を出入りする生徒を一人一人確認しなければ分からない――…と、そこまで思考して考え直す。逆にそれだけの労力と時間を厭わなければ見つけることは可能だ。この喫茶店も自分の後さえ追えば来るのは容易い。
「ああ、そういえばそんなこともありましたね」
閉じた本をずらし、ケーキの皿を引き寄せる。
斜め上に視線を投げて今思い出した風を装う紗枝にダークブラウンの男が苦笑する。
「今までは人の覚えが良かったものですから、まさか忘れていらっしゃるとは思いもしませんでした」
「すみません、あまり人様に興味がないもので。それで、わたしに何か御用でしょうか?」
顔が良いと自慢しているのか、はたまた話を続けたい意図なのかは知らないが、あえてくだらない話に終止符を打って核心に触れる。
腹の探り合いはあまり好きではない。
男が驚いた様子で僅かに目を開けたのでこちらも少し驚いた。
…ちゃんと開くのか、あれ。
「ここでは少々話しづらいので移動しませんか?」
「読書をしたいのでお断りします」
ぴしゃりと払い除けた紗枝に、何故か男は苦笑気味に口角で孤を描いた。
含みを滲ませた嫌な笑みを無視して残ったケーキにフォークを突き刺す。さっきまで美味しいと思っていたレアチーズも、注がれる視線のお陰で味が分からなくなってしまった。
コーヒーで胃へ流し入れて本を開こうとすると、ダークブラウンの男が立ち上がり伝票を手に取る。
こちらを覗き込むように屈んだ男が低く囁く。
「一緒に来ていただけませんか、
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