あの夏の日の残照
早瀬黒絵
第1話
高く晴れ渡った空は鮮やかな橙から深い藍へと移ろっていく。
まだ幼かった私には、沈んだ太陽の残光を受け、大きな入道雲が柔らかな金色に輝いているように見えた。
玄関扉の形に切り抜かれた外の、建物の隙間から覗くそれはとても綺麗で、自分に背を向ける人物よりもそちらの方へ気を取られていた。
そのせいか今でもその人の表情が思い出せずにいる。
当時の私は何も知らなかった。
泣けば良かったのか、手を伸ばせば良かったのか。
今になっても私は分からずにいる。
【あの夏の日の残照】
まるで
それは滞ることも途切れることもなく、大通りの雑踏と絶妙なタイミングで入り混じり、互いに干渉し合わず擦れ違っていく。
人々は皆一様に他人がいないもののように振舞って、言葉を交わす素振りも見せないまま誰ともぶつからずに歩いていた。引かれた線の上をなぞるような動きである。
いつ見ても薄気味悪い光景だと壁に寄りかかりながら
見上げた空はまだ明るく、晴れ渡った青の遥か彼方に真っ白な雲がぽっかり浮かんでいた。この頃は日が伸びて夕方七時でやっと暗くなるくらいだ。
でもそんなことは梅雨の時期と重なるせいか意識しなければ分からないだろう。
ふと周囲の喧騒が弱まったことに気付いた。
視線を戻すのと同時に改札を抜けて出てきた男が目の前を通り過ぎて行く。
オールバックに掻き上げられた青みがかった黒髪にいやに白い肌、細い体躯は背が高く、蒸し暑い中で控えめなストライプが入ったダークネイビーのスーツをカッチリ着込み、肩で風を切るように革靴を鳴らす姿は自然と人目を引く。
しかし紗枝はその横顔にこびり付く鮮やかな赤に視線がいった。
思わず左目を閉じると色白の頬がそこにある。
我に返った時には既に足を踏み出していた。
鞄のポケットに挟んでいたボールペンを半ば無意識に手に持ち、勢いのまま小走りに駆け寄る。
「あの、ちょっといいですか」
声をかければ黒髪の男が立ち止まって振り返った。
同時にその斜め後ろを歩いていた別の男も同行者だったのかこちらへ体を向けた。
その男は襟足を伸ばした柔らかなダークブラウンの髪に、開いているのか分からない糸目に細身のシルバーフレームの眼鏡をかけており、落ち着いたブルーのスーツに白いシャツとワインレッドのネクタイを締めている。
どちらも三十代前半くらいの働き盛りの頃だ。
「はい、何でしょう?」
制服姿の紗枝を見て返事をしたのはダークブラウンの男の方だった。
黒髪の男は体を横向きにし、斜に構えている。
先ほど通り過ぎた時よりもハッキリ見える顔はハーフみたいに彫りが深く、モデルばりに整っているものの、鋭い眼差しで射抜かれると凍り付きそうな冷たい印象を与える。
だが紗枝の目にはその端整な顔立ちの右頬を染めている痛いほどの赤が映り込み、それ以外の部分など霞んでしまっていた。
赤は右のこめかみの少し上辺りから流れているらしい。
「これ、落としましたよ」
紗枝はコンビニで買った数百円のボールペンを差し出す。
黒インクのありきたりな物で、洒落たスーツ姿の男達には不似合いな品だ。
ダークブラウンの男が視線を向けると黒髪の男は首を横に振る。
「申し訳ありませんが私達の物ではないようです」
勿論、本物の持ち主である紗枝には分かり切っている返答だった。
ペンを持つ手を引っ込める。
「そうですか、引き留めてしまってすみません」
「いえ、お構いなく」
こちらが頭を下げるとダークブラウンの男が軽く手で制して微笑する。
口許を微かに引き上げたそれは穏和そうな
話は済んだとばかりに背を向けた男達に、紗枝は目的の言葉を投げかけた。
「右のこめかみに気を付けて」
そうして男達が振り返る前に混雑する改札の中へ滑り込む。
人の合間を縫って歩きながら後ろを見遣れば、男達は大勢の人々に紛れて分からなくなっていた。
ボールペンを仕舞う指先が酷く冷たい。
見知らぬ他人に話しかけるというのは何度やっても慣れないものだ。
反対の左手でそっと左瞼を撫でて開けると普通の景色が戻っている。
けれど、流されるままプラットホームを歩いている間に紗枝は様々なものを見ていた。
左手の指先が切れている者、腕に痣のある者、頬に掌の跡がある者、膝に擦り傷のある者――…それらは全て左目を閉じると消えてしまう、右目のみでは映らない傷。
いつの頃からかは覚えていないが、物心ついた時にはそれは視えていた。
視界に入る人間が負う怪我を知ることが出来るものの、服や頭髪部分などの不可視な場所は血が滲むほどの大怪我でなければ分からない。
午前零時を基準として二十四時間でこの
つまり紗枝に視えている傷は当日のもののみで、翌日や数日後の傷は予知出来ない。
そうして最も重要なのは予知視した怪我は回避することが可能な点である。
いつ、どこで、どのように、何故といったことは分からないまでも、幾度となく視てきた紗枝は何となく時間に当たりをつけられるようになっていた。
自分が予知視してから十二時間前後だと傷は薄っすらダブって視える程度だが、そこから段々と怪我を負う瞬間まで傷が色濃くなっていき、二時間を切ると普通の怪我と変わらないほどまで鮮明になる。
そこで紗枝は怪我を負うまでに二時間を切った者――それも大怪我の場合――に限り声をかけるようにしているのだ。
他人には興味ないけれど、後で寝覚めの悪い思いをするのも嫌だから一言助言をする。
それでかわせれば良し、ダメなら運がなかったという話だ。
ホームに入って来た電車が止まって、開いた扉から降りて来る人々の脇をすり抜けて乗車する。
乗車口の脇に立って手すりを掴むと降り遅れたのか閉まりかけの扉から慌ててホームへ出るワイシャツ姿の男がいた。色白を通り越して青い肌のその首に一瞬、グルリと細い線が食い込むように赤く重なって視えた。
完全に閉じた扉の向こう側にいる男が動き出した電車によって横に流れて行く。
冷えた右手をスカートのポケットに入れながら思う。
首吊りは死に顔が悪いからオススメしないんだけどな、と。
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