六月と顔のない肖像画 6

「ユーニくん。なんだか顔色が悪いようだけど、どうかしたの?」


 ロザリンデさんの声にはっとしたわたしは、慌てて首を振る。


「いえ、なんでもないです。ご心配なく……」


 屋敷に戻ってきたわたし達は、先刻と同じように三人でテーブルを囲んでいる。

 その場にはなんとなく重苦しい空気が流れ、わたしはなかなか口を開くこともできず、カップの中の紅茶をじっとみつめる。

 クルトもなんだか口数が少ない。

 そんなわたし達の様子を不思議そうに眺めて、ロザリンデさんが口を開く。


「それで、どうだったの? ヴェルナーさんのアトリエに行ったんでしょう? 肖像画の事についてなにか判ったのかしら?」


 その言葉にどきりとする。先ほどから、いつその質問が飛んでくるのかと恐れていた。

 エミール・シュナイトの肖像画の件を説明するには、必然的にヴェルナーさんのあの体質のことも話さなければならない。

 アトリエを辞去する際、彼は


「今日の事は隠す必要はない。誰かに話すというのならそれでも構わない」


 と言っていたのだが、だからといって肖像画を描けない理由を、正直にロザリンデさんに話すのは躊躇われた。


「それは……あの……」


 わたしが言いよどんでいると、それを遮るようにクルトが話し出す。


「その件だが……おそらく肖像画を黒く塗り潰したのは、持ち主であるエミール・シュナイト本人だ」


 わたしはちらりとその顔を伺う。正直なところ、クルトが話し出してくれて少しほっとした。彼に任せるのは申し訳ないが、自分の口からはとても話す気になれない。


「……彼が不注意で顔の部分を汚してしまって、それを隠すために真っ黒に塗り潰したんだ。肖像画を他人に見せなかったり、ベッドの下に隠したのは、その失敗を誰かにみつかって咎められたくなかったから」

「え?」


 大きな声を上げそうになり、わたしは咄嗟に自分の口を手で押さえる。

 思わずクルトの顔をみつめると目が合う。彼はしきりと何かを訴えるような視線をこちらに向けてくる。


「大切にしていた肖像画を自分から台無しにするはずがないし、そんなに気に入らなければ処分すればいいだけ。それをしなかったのは、汚れても自分の手元に残しておきたかったからだ。ヴェルナーさんが黒く塗り潰した肖像画を描く訳もないし、そう考えればすべて納得がいく。それが俺たちの出した結論だ。そうだろう? ユーニ」


 クルトが言わんとしている事を理解して、わたしは慌てて同調する。


「そ、そうなんです。クルトの言ったとおりです。きっとエミールさんが汚してしまったんです。それしか考えられません。だから、その……そういう訳なので、今その肖像画を持っている方にも、処分したりしないよう、これからも大切にして欲しいとお伝えください。お願いします……!」


 ロザリンデさんは大きな目を瞠ってわたしとクルトの顔を交互に眺めていたが


「まあ、そうだったの」


 胸の前で両手を組み合わせるとにこりと微笑む。


「そうね。確かに言われてみたらそれが正しいような気がするわ。顔が塗り潰されていたから、てっきり何か深い意味があるんじゃないかと思ってしまったけれど……普通に考えたら、そんな事滅多にないわよね」


 笑顔のままうんうんと頷く。

 どうやら納得してくれたみたいだ。わたしはほっと胸を撫で下ろす。


「わかりました。この事はエミールさんの親族の方にお伝えしておきます。きっとあちらにも納得して頂けるんじゃないかしら。おかげで私もすっきりしたわ。二人ともありがとう。あなた達に頼んでよかった」






「ねえクルト。よかったんですか? ロザリンデさんに嘘つくような事して……」


 学校へと帰る道すがら、わたしは隣を歩くクルトに尋ねる。


「いいわけがない」

「やっぱり……」

「でも、それ以上にヴェルナーさんの事を知られたくなかった。もちろんねえさまの事は信頼しているが、それでもどこから話が漏れるかわからない。それがヴェルナーさんの画家生命を絶つような事になるのは、もっとよくないと思った。あの人の才能をこのままにしておきたくはない」


 あんなにお姉さんを特別に思っているクルトの事だ。彼女の【お願い】に対して真実ではない事を伝えるのには抵抗があったかもしれない。それでも、ヴェルナーさんのために彼は嘘をついたのだ。


「あとは、ヴェルナーさんが立ち直ってくれたらいいんだが……」


 その言葉に、わたしはヴェルナーさんの事を思う。

 彼はわたしと少し似ているような気がする。家族もなく、誰にも言えない秘密を抱え、一人不安の中で生きているのだ。心細くて仕方のない事だってあるかもしれない。


「おい、なんで泣くんだよ」


 クルトの焦ったような声が聞こえ、わたしは慌ててごしごしと自分の目元を擦る。


「だ、だって――だって、ヴェルナーさん、家族みたいに大切に思ってた人を失って……その上生きがいだった絵も諦めようとしてるなんて……」

「だからってお前が泣くことないだろ」


 ――だって、わたしが余計な事を言ったから。

 それを口に出す前に、クルトがわたしの目の前に何かを差し出す。


「あんまり擦ると、またひどい顔になるぞ。これ、使えよ」


 それは綺麗に畳まれたハンカチだった。

 素直に受け取り目に当てると、微かにいい香りがした。

 クルトは何も言わない。下手な慰めの言葉もなく、いつかの夜と同じように、ただ黙ってわたしの傍にいる。

 けれど、わたしにはそれが何よりも有難かった。

 夕焼けに染まる空の下、わたし達は黙ったまま歩き続けた。

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