六月と顔のない肖像画 5
フレデリーケさんには屋敷へ戻ってもらい、わたしとクルト、そしてヴェルナーさんの三人はアトリエの中にいた。
部屋の中を見回し、ドアや窓がしっかりと閉まっているのを確認してからわたしは口を開く。
「さっきはヴェルナーさんを騙すような事をしてすみませんでした。不快でしたよね。ごめんなさい……でも、どうしても確かめたい事があったので……」
ヴェルナーさんの様子を伺うが、やはり彼の表情に変化はない。そのことに少し戸惑いながらも話を続ける。
「ヴェルナーさん、あなたはさっき、フレデリーケさんの事をわたしだと思っていましたよね? あれはただの勘違いではなく、あなたが普段誰かを判別するときに、髪型や服装、体型、声などを基準にしているからじゃありませんか? だから、同じような背格好のフレデリーケさんとわたしを混同してしまった。でも、普通はそれ以外にも顔つきや目の色、それにほくろの位置なんかでも区別できますよね。なのに、あなたはそれをしなかった……いえ、出来なかったのでは? だから、クルトに言われるまま、フレデリーケさんの顔にほくろがあると思い込んで、似顔絵に描き加えてしまった」
わたしはそこで言葉を切って、ヴェルナーさんの顔を伺う。
「ヴェルナーさん、もしかしてあなたは――人の顔が判別できないんじゃありませんか? おそらく、自分自身の顔さえも」
それを聞いたヴェルナーさんの瞳が少し揺れたような気がした。
「今朝、わたし達がここを訪れたとき、あなたから石鹸のような香りがしました。わたしはてっきり、早朝にお風呂に入ったのかと思ったんですが――もしかして、あの時あなたは床屋に行ってたんじゃありませんか? 自分の顔を認識できないあなたは、自分で髭を剃ることが難しい。だから床屋で髭を剃ってもらっていたのでは? 石鹸の匂いもそのときのものではないかと」
ヴェルナーさんもクルトも無言でわたしの声を聞いている。
「あなたは何年か前に事故にあって利き腕を傷めて以来、肖像画を描かなくなったと聞きました。でも、たぶんそれは違います。それなら、あんなに迷いない動作で線を引いて絵を描く事はできませんよね。実際には、怪我をしたのは腕ではなくて、頭だったんじゃないですか? そしてその影響であなたは人の顔が判別できなくなり、結果絵を描くことができなくなってしまった。肖像画家としては致命的ですよね」
そこで初めてヴェルナーさんが口を開いた。
「……俺は君の目の前で似顔絵を描いたはずだが」
「……たぶん、あなたが判別できないのは生身の人間です。さっき似顔絵にほくろを描き足したところを見ると、絵画などの平面に描かれた人間ならば問題なく識別できるんでしょう。あなたはわたしの似顔絵を描くふりをしながら、紙の上に架空の人間の顔を創り上げていったんです。今まで画家として得た経験と技術だけで。年齢を聞いたり、表情を指定したのは、少しでも違和感をなくすため……老人を描いたはずが少年のような顔になったり、仏頂面が笑顔になったりしたら不自然ですから。そうして出来上がった似顔絵は、当然わたしには似ていませんでしたけど、まるで人形みたいにとても整っていてきれいな顔でした。でも、それにも理由があったのでは?」
わたしはヴェルナーさんの顔をじっとみつめる。
「おそらく、肖像画を描くのをやめてからも、わたし達みたいに似顔絵程度のものを描いて欲しいと頼んでくる人は多かったんじゃありませんか? どうしても断りきれない時、あなたは顔の部分を敢えて美しく描いたんです。自分の顔を醜く描かれて怒る人はいるかもしれませんが、逆に美しく描かれて不快に思う人は滅多にいないと思うんです。おまけに著名な肖像画家が描いたとなれば説得力もありますしね。たとえ似ていなくても。だから、その方法であなたが似顔絵を描いた人達は、みんな満足して大人しく引き上げて行ったんじゃないでしょうか。わたし達がそうだったように。あなたはそうやってずっと、人の顔が判別できない事を周囲に隠していたんじゃありませんか?」
そうして言葉を切ってもヴェルナーさんは何も答えない。答える気がないんだろうか。わたしは深く息を吸い込む。
「……ヴェルナーさん、わたしの言っている事、間違っていますか?」
念を押すように問いかけるが、やはり彼は答えない。その瞳はわたしを見ているようで、実のところ何も見えてはいないのかもしれない。ここから先は、できれば言いたくない。何度も躊躇いながら口を開く。でも、彼が答えてくれないのなら、言うしかない。
「……もし、間違っていると言うのなら、その――今ここでもう一度、わたしの似顔絵を描いて貰えませんか? 今度は美化なんてしないで、わたしの本当の顔に似せて。肖像画家なら、できますよね……?」
これまでの推測が正しければ、今の自分はなんて残酷な事を言っているのだろうと思う。顔が判別できない肖像画家に似顔絵を描いてみせろだなんて。何の罪もない人間を処刑台に上らせるような気分だ。
でも、わたしには、この方法しか思いつかなかったのだ。
いつの間にか日が傾き、窓から夕日が差し込んでいる。その照り返しを受けてヴェルナーさんの瞳が光ったような気がした。
「……俺には、描けない」
とても静かな声だった。
「全て君の言った通りだからだ」
そう言って目を伏せる。
やっぱり……と思う一方で、残酷な真実を暴いてしまったという苦い思いが胸に広がる。
「……それじゃあ、肖像画の顔を黒く塗り潰したのは、持ち主のエミール・シュナイトさん本人だったんですね」
それを聞いたクルトが驚いたような顔をこちらに向ける。ここから先は、彼にもまだ話していない。わたし一人で考えていた事だ。
「ヴェルナーさん、あなたは彼の肖像画に関して『見えたままを描いただけ』だと言ったそうですね。たぶんそれは本当の事なんでしょう。あなたは、あなたの見えたまま――つまり、判別できない顔の部分もそのまま描いたんです。今のヴェルナーさんに人の顔がどう見えているのかは判りませんが、完成したものはきっと、顔の部分だけが『肖像画』と呼ぶには不自然なものだったんじゃないでしょうか。あなたとエミールさんの間にどういうやり取りがあったのかは予想できません。でも、おそらくエミールさんもそれを納得した上で、その肖像画を受け取ったはずです。だから彼は顔の部分を黒く塗り潰した――ヴェルナーさん、あなたの画家としての名誉を守るために」
わたしは更に続ける。
「エミールさんは、自分が亡くなった後で肖像画が他人の目に触れて、そこからヴェルナーさんが人の顔を判別できないという事実が露見するのではと恐れたんです。でも、彼はあなたに描いてもらった大切な肖像画を、燃やしたり切り裂いたりして処分する事が出来なかった。その代わり顔の部分を塗り潰したんです。そして、自分が生きている間は、誰かに見つかって追求される事のないように隠したんじゃないでしょうか」
ヴェルナーさんがゆっくりと首を横に振る。彼のその仕草に、諦めに似たものを感じた。
「……そこまで判ってしまったのか。似顔絵一枚くらいと思ったのが間違いだったな」
そう言って深い溜息をつく。その眉間には微かに皺が刻まれている。今まで殆ど感情を露にしなかった彼が初めて見せた苦悩のような表情だ。そのままぽつりぽつりと言葉を吐き出す。
「彼は……エミールは、肖像画を描いて欲しいと、このアトリエを訪ねてきた。俺は断ったが、彼はその後も毎日のようにここへ足を運んだ。ある雨の日に、濡れた彼をアトリエに入れた事がきっかけで、俺たちは話をするようになった。そのうちに、俺は彼に親しみを感じるようになっていて……俺は天涯孤独で家族がいないが、もし弟がいたら、彼がそれに近い存在なんだろうと思う。俺は彼に肖像画を描けない理由を打ち明けた。人の顔が判別できないからだと。それでも構わないと彼は言った。だから俺は描いたんだ――顔のない肖像画を」
その声にはどこか悲しみが含まれていて、聞いていると胸をじわじわ締め付けられるようだ。でも、今の彼のほうが、さっきまでの彼より、ずっと人間らしいと思った。
「エミールは、俺の体質の事を誰にも話さないと約束した。彼がアトリエに来なくなってから暫くして、彼の家の使いだという者が訪ねてきて、そこで俺は彼が亡くなった事や、肖像画の顔が黒く塗り潰された事を知った。彼は約束を守ったんだ……だが、そんな事よりも、俺は彼に生きていて欲しかった。最期まで俺のくだらない自尊心なんかに縛られた彼が可哀想だ」
それを聞いたわたしは思わず口を挟む。
「たとえ絵だとしても、自分の顔の部分を塗り潰すなんて、すごく勇気のいる行為だと思います。わたしだったら出来ないかも……でも、エミールさんはそれをしました。あなたのために。あなたがエミールさんを弟のようだと思っていたように、彼もまた、あなたの事を兄のように思っていたんじゃないでしょうか」
死の床にありながら、大切な人のために力を振り絞って自分の顔の部分を塗り潰す少年。その姿を想像すると胸が痛い。
「だとしても、結局それも無駄になってしまった。エミールがそうまでして隠してくれようとした事を、きみ達は簡単に気づいてしまった……そろそろ潮時かもしれないな」
その言葉に、わたしは引っ掛かりを覚え、問い返す。
「あの、それってどういう意味ですか……?」
「もう、絵を描く事をやめようと思う」
「え? ど、どうして……? ヴェルナーさんが隠そうとしていた事なら、わたし達、誰にも話しません。絶対秘密にします」
クルトの顔を見ると、彼もまた無言でわたしの言葉に頷く。
けれど、ヴェルナーさんは首を横に振る。
「これから先、きみ達のようにこの事に気付く者がいるかもしれない。その時にまた、エミールの想いを無駄にしたくはない。俺は肖像画が描けなくなっても、それを受け入れられずに画家という存在に見苦しくしがみついていた。絵が生きがいのようなものだと思っていたから。でも、エミールが亡くなって、肖像画の顔が塗り潰されていたと知った時、俺はもうそんな事どうでもよくなったのかもしれない。今回の事は、きっといいきっかけなんだろう」
わたしの心臓の鼓動が早くなる。
まさか……まさか彼がそんな事を言い出すなんて。
もしかして、わたし達に真実を話してくれたのもそのせい? 絵を描く事を諦めようとしているから、すべてが明らかになっても構わないと考えた? そんな……わたしはこんな事まで望んでいなかったはずだ。ただ、本当の事を明らかにしたかっただけなのに。
慌てて引き止める言葉を探す。
「でも――でも、あの似顔絵だって――あなたは、あんなに素晴らしい絵が描けるのに、それを諦めてしまうなんて――」
「きみも言ったはずだ。あれは俺が想像で描いたもの。今の俺には肖像画は描けない。どうあがいても描けない絵に拘り続ける意味なんてないだろう。もう充分だ」
その瞳に固い意志を読み取ったとき、わたしは自分の身体から血の気が引いてゆくのを感じた。
「そんな……うそ……」
自分の声が震えているのがわかる。
どうしよう
どうしよう
どうしよう
わたしが彼の秘密を言い当てたから?
だから彼は絵を描くのをやめるの?
わたしが彼の人生を台無しにしてしまうの?
それなら何も言わなければよかった。
何も知らないふりをしていればよかった。
わたしの言った事が全部間違っていたらいいのに。
目の前にいるこの画家が、すべて否定してくれたらいいのに。
何事もなかったように似顔絵を描いて、すべてわたしの勘違いだったと証明してくれたらいいのに――
手足の先が冷たい。そこから痺れが広がり、徐々に身体を蝕んでいくようだ。
胸が苦しい。息が出来ない。頭の中が真っ白になる。
足元がふらつき、思わず後ろに一歩よろめいたその時、背中を誰かの腕に支えられるのがわかった。
はっと我に返ると、すぐ隣にクルトが立っていた。彼はなんだか怒ったような、それでいて困ったような表情を浮かべてわたしの背を抱いていた。
「待ってください」
それまで黙ってなりゆきを見守っていたクルトが口を開く。
「ヴェルナーさん、それじゃあまるで、こいつの――ユーニのせいで画家をやめるって言っているみたいじゃありませんか」
「別に、そういうつもりでは……」
言いかけたヴェルナーさんをクルトは制す。
「あなたにそういうつもりは無くても、俺から見ればそう感じるんです。確かに、こいつはあなたが隠していたことを全部明らかにしてしまった。でも、元はといえば俺が頼んだことが原因なんです。こいつは何も悪くない。けれど、今あなたが絵を描くことをやめたら、こいつは自分を責めて、それを一生背負っていかなければならなくなる……そんなの残酷すぎると思いませんか? 責められるべきは俺であって、こいつじゃないのに……」
その声と、背中を支えてくれる手の感触も手伝って、わたしは少しだけ落ち着きを取り戻す。
「ヴェルナーさん、あなたはさっき、自分には絵を描く事しかなかったと言っていましたよね。肖像画を描けなくなってからも画家という存在にしがみついていた、とも。そんなにもあなたの人生に深く関わってきたものを、簡単に諦められるんですか? もしも俺なら、絶対に後悔します。それに、あの絵もあなたが描いたんでしょう?」
そう言ってクルトはドアの近くの壁に立てかけられた裏返しのカンバスを指差す。
先ほど見たときに風景画の描かれていた、あのカンバスだ。
「初めてあなたの肖像画を見たとき、俺はまだほんの子供だった。けれど、あの感動ははっきり覚えています。いきいきとして、繊細で、まるで額縁の中にもう一人の人間が存在するようだった……それがもう見られないというのは正直残念に思います。でも、今日ここであの風景画を見て、とても美しいと思った。足を止めて見入ってしまうほどに」
クルトの声が徐々に大きくなる。
「あなたなら、肖像画でなくとも、人々を感動させる絵を描く事ができると思うんです。あなたにはそれだけの才能があるのに。あなただって、絵を諦められないから、あの風景画を描いたんじゃありませんか? 俺はもっとあなたの描く様々な絵を見たいと思う。だから、これからも描き続けてもらえませんか? 目が見えなくなったわけでも、腕がなくなったわけでもない。それなら、まだ描けるでしょう? お願いします! 描いてください……!」
その顔はわずかに上気している。彼にしては珍しく感情的だ。
わたしはその張り詰めた空気に動くことが出来ず、ただ黙って目の前の光景を見つめていた。
長い沈黙の後、ヴェルナーさんが外の景色を眺めるように、顔を窓のほうに向けてぽつりと口を開く。
「……そんなふうに考えられるきみが羨ましいな」
そうして目を伏せると、搾り出すように呟く。
「……すまないが、今日は二人とも帰ってくれないか。暫く一人になりたいんだ」
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