第16話 策謀

 水曜日になるとだいぶ体力も戻ってきた。

 精神的にも、気にかかりすぎるほどかかっていたことが一区切り付いたから、本来やらなければいけないことに集中できるようになっていた。

 由紀のおかげで休んでいた日のノートは出来上がっていたし、提出物も何とか追いついた。

 文化祭の仕事の方は、むしろ進みすぎているくらい。なにしろ昨日は現実逃避のために異常な勢いで処理を進めて行ったから、翌水曜日になって改めて自分の仕事量を眺めて驚いたくらいだ。

 仕事量はこれで減っていくかな、と思っていたけれど、考えが完全に甘かった。

 放課後になって、あらかじめ呼ばれていた職員室に行くと、担任が腕を組んで待っていた。

「お前もうすうす気付いていたとは思うんだけどな」

 担任が渋い顔をしていう。

「今年の生徒会執行部はどうもやる気が欠けている。プログラムと計画書、見たか?」

「ちらっとですけど。まだよくは見てないです」

 そういえば昨日、綾華さんが告白劇の前に見ていたなあ、と思い返す。

「あれな、去年のをほとんどそのまま流用してるんだ」

「そうなんですか」

 何か問題があるんだろうか、と俺は首をかしげた。担任は計画書をいい加減にめくりながら続ける。

「文化部も各クラスも、やることはそれぞれ去年とは違う。使う資材だって、去年とはだいぶ違っていたはずだな」

「ええ、まあ」

 違ってはいたけれど、そもそも書類が全然なっちゃいなくて、よくまあこれで回ったもんだと感心していたくらいだから、どこが違うかまでは考えていなかった。そこまで考えていたら面倒さが倍増する。去年までのものは無視して一から作ってしまった方が早かった。

「今年はお前たちが早く動いてくれたおかげで企画が早く上がったからな、計画書もそれなりに練れるはずなのに、この有様だ」

 渡された資料を流し読みする。

 担任のいいたいことがだんだんわかってきた。

「ひどいですね……確かに」

 誤字脱字の嵐、という所はまあいいとして、今年の各企画がほとんど頭に入っている俺からすると、計画書はずさんというレベルじゃなかった。本当にこれを作った奴は、各企画の書類を見ていたんだろうか。各企画のタイトルくらいしか直っていない。

「予算くらい直してくれないと、数字が全然合いませんよね」

「金のかかる部分ですらその状態だ。後は推して知るべしでな」

 担任が深いため息をついた。

「突き返せばいいじゃないですか」

「本来ならそうすべきだろうな。でもな」

 担任は頭が痛そうな顔をした。

「人がいない。突き返したところで、この手の仕事ができるのは会計くらいしかいない。だがこれを進学組のあいつ一人に任せるのはどう考えても酷だ」

「他の人はどうなんですか? セクションごとに振り分ければ、個別には大した作業量じゃないでしょう」

「それを振り分けて作業を統括する人間がいない。いっただろう、今年の生徒会はとにかくやる気がないんだ」

 やる気がないのは知っていた。そもそも俺が綾華さんや由紀と一緒に仕事をすることに決まった日、綾華さんも由紀も、あまりにもやる気がない生徒会の会議進行にため息をついていた。俺も退屈で仕方がなく、由紀などはありえないほどうまい食パンマンを描いて俺の目を驚かせている。

「で、ここからが本題なんだが」

 と、担任がいすの上で身じろぎをした段階で、次に出てくるセリフの予想はついた。俺は右手を担任の前に出して制する。

「ちょっと待って下さい」

「どうした」

「俺にその取りまとめをやってくれとか、そういうのは無しですよ」

「つれないなあ。そこまで読めるなら引き受けてくれないか」

 案の定、そうだった。

「待って下さいよ、俺は執行部役員どころか、クラス委員ですらないんですよ? 一番下っ端の実行委員です。何でそんな奴が責任者やらなきゃいけないんですか」

「決まっている。人がいないからだ」

 担任は断言した。

「このままじゃ一歩も前に進まん。いずれ時間が足りなくなって、ぐだぐだの文化祭がいっちょ上がりだ。出納くらいは上手く行くさ。会計がきちんと手綱を握っているし、学校側の事務が介入して随時監査したっていいんだからな。お小遣い制、ともいうが」

「事務の言いなりの買い物しかできない、計画も言いなりで作成、というわけですか」

「生徒の自治なんてものは完全に失われる。困ったことに、一度その前例が作られると、次回以降もその流れになる。来年から生徒会は権限のほとんどを学校側に取り込まれて、骨抜きになるわけだ」

「いいんじゃないですか? それが時代の流れだと思えば」

「そうは行くか。少なくとも俺が生徒会担当の間にそんな流れにはさせんぞ」

 担任はいらいらと指を動かしている。

 いいたいことはわかる。

 担任が危惧していることはそまま現実になるだろう。生徒の自治なんて美しい言葉は、学校側にしてみれば手間と金ばかりかかって大した見返りもないこと。生徒自身が放棄してくれるのなら喜んで回収し、その分の資金と時間とエネルギーを進学率向上に投じた方が、学校の評価は上がるだろう。

 受験料収入と生徒数の確保という、学校の至上命題にとっては素晴らしい知らせに違いない。

 でも、そうすれば自由な文化祭なんてものは無くなる。下手をしたら、文化部の発表会のみを行う、形式だけの文化祭に思い切り縮小されたり、最悪は文化祭そのものの中断ということもありえる。

 生徒がやりたがらないから。

 経費も安上がりになるから。

 進学率向上のため有効に使える時間が捻出できるから。

 後押しする理屈なんかいくらでも出てくる。文化教育なんていう、生産性に関わらない教育に金を出すなんて、今の時代には合わない。そう考えれば、俺にだってあと二つ三つの理屈はすぐに思いつく。

「各クラスの計画をまとめ上げて資材提供の流れをこれだけ早いうちに作ってみせたお前の実務能力は、職員の間でも評判になっている。素人集団の中に、なぜか一人だけ熟練のプロがいたような、とかな」

「乗せようったってダメですよ。乗りませんよ」

「しかも生徒指導主任相手に予算の上積みを成功させるとか、前代未聞だぞ。それだけじゃない、執行部から予算執行権限の一部を委譲させたり、資材係の範疇をとっくに超えて、文化祭の実行権限の過半を手中にしているって、職員室じゃ豪腕官僚ばりの手腕だと評価されている」

「だから乗りませんって。いくら上げても無駄ですよ」

 俺はその線で押し切った。

 これ以上のことは勘弁してもらいたいのが本音。

 仕事を抱えるのは疲れるということもあるけれど、それより、時間が取られてしまうのが痛い。

 一応、これでも彼女持ちな俺。

 いくら由紀との出会いのきっかけが文化祭の仕事だったとはいえ、だからといってそれにばかり関わっていてはせっかく手に入れた恋人との時間を味わう余裕もない。

 由紀と普通の高校生らしく歩いてみたいし、手をつないで歩いてみたりもしたいし、仕事以外のことで中身の無い話をしてみたい。

 今でさえその時間がないというのに。

 これ以上、仕事を抱え込むのは願い下げ。

 と、思っていた。

 担任の前から退出して、今日出さなければいけない資材を運び出すために資材室に入り、段ボール箱を廊下に運び出して一息ついたところで、それを取りに来るはずの二年生を待っている間に、由紀と話をしていた。

 由紀はちょうど別件で三年生の教室に交渉に行ってきた帰りで、初めて最上級生のクラス委員と話し合いをしてきたばかりだったから、少し興奮していたらしい。

「あんなことを毎日していたなんて、晃彦くんすごいです」

 あんなこと、というのは、文化祭で何かしらの企画を出してきたクラスの担当と話し合いをすること。

 今日由紀がしてきた話し合いは、企画は出したもののまだ内容がはっきりしない三年のあるクラスに、早く企画を出し直さないと資材が足りなくなってきてますよ、という催促。

「あれだけの仕事なのに、私、緊張しちゃって上手く話せなくて」

 というわりにちゃんと企画書を回収してきてるんだから立派なものだと思うけれど、由紀は俺が今までやってきた交渉を見ているから、そのイメージと自分の交渉との差に驚いたらしい。

「交渉って思っていたりずっと大変です」

「そんなことないよ、由紀だってちゃんとできてるじゃん」

「晃彦くんが前からいってあったからです。私は結局取りに行っただけですから」

「いやいや、あのクラスは俺は何もしてないよ。働きかけてたのは綾華さん」

 そう、交渉ごとでは綾華さんが最強無敵だった。

 はっきりいって、各クラスとの交渉では、綾華さんが最強。何しろ顔が広いし、あの人が意外な(失礼)くらい論理的態度で迫って、陥落しない相手はいなかった。

 俺が豪腕官僚呼ばわりされるなら、あの人は豪腕政治家だ。

 俺が行っても話にならないようなクラスでも、あの人が行くと不思議とまとまる。

 俺に人徳が無いからだとか思ったりもしたけれど、違う。いや、俺に人徳が無いのは事実だけれど、それ以上に、綾華さんがすごい。

「……そうだよな」

 不意に俺は考え込んだ。いきなり目の前で腕を組んで考え始めた俺に、由紀は頭上に?マークを飛ばしていた。

 取りまとめる人がいないと担任はいう。

 単に仕事をするだけなら俺でもできなくはないけれど、人をまとめていくというのは実務能力とは関係がない。実務能力が褒められるのは嬉しいけれど、残念ながらそれだけで人はまとまらないだろう。

 生徒会執行部を差し置いて、文化祭をまとめ上げて行こうと思ったら、実務能力がある人間をあごで使えて、実務能力がない人間を力づくで従わせていく豪腕が必要になる。

 いるじゃないか、適任者が。

 でもちょっと待て。

 あの人を推薦して、たとえばそれが通ったとしてだ。

 俺、今までとは比べ物にならないくらいこき使われる羽目になるんじゃないのか?

 今でさえ仕事の量にひーひーいってるのに、文化祭全体の取りまとめを実務的に管理していくなんて、考えただけでも恐ろしい。そして、あの人を推薦したら、多分俺はありえないほどいいようにこき使われる。

 絶対そうなる。あの人が今さら俺に遠慮なんかするはずがない。

 自分がどの仕事をすればいいかさえわかれば、あの人は自分なりに動いてくれるだろうけれど、そこにいたるまでの計画や企画は誰かがやらなければいけないし、あの人が仕事をした後の実行や後始末も誰かがやらなければいけない。

 そして間違いなくそれが全部俺に一度回ってくる。それを振り分けて、誰かにやらせて、管理をして、まとめて、後始末をするという作業が全部俺にかかってくる。

 俺がぶつぶつと考え込んでいるのを見ていた由紀は、相手をしてくれない俺に不機嫌になるかと思いきや、そうでもなかった。

「……なんかすごいこと考えてます?」

「へ?」

 俺が顔を上げると、由紀は顔を紅潮させて、ファイルを胸にぎゅっと抱いた姿勢でわくわくした顔で俺を見上げていた。

「晃彦くんがそういう顔して考えてるときって、次にすごいことしようとしてる気がします」

「いや、別に……」

 何をいい出しますかお嬢さん。

「仕事してるときの晃彦くんの顔って好きです、かっこいいです」

 興奮して思わず出てしまった言葉らしく、いい切ってから恥ずかしくなったようだ。はっとしたように周囲を見回し、真っ赤になって顔を伏せた。耳どころか、首まで赤くなっていた。

 赤くなっていたのは多分俺も同じ。

 これを計算でやっているとしたらこの女、ある意味綾華さんより恐ろしい。天然だとしたら、俺は一生勝てる気がしない。

「……すごいことっていうか、自爆ネタを考えてたんだけど」

「どんなことですか?」

 うつむいていた由紀が顔を上げる。真っ赤な顔だけれど、相変わらず目がきらっきらしている。

「ちょっとこの学校を乗っ取る計画をね」

「それ、あたしも興味あるなー」

 いきなり後ろから声がしたから思わず「うわあ」と叫んでしまった。

「なによ、あんたマジで人の呼びかけに驚くよね」

「心臓に悪い登場するからでしょう、いつもいつも」

 綾華さんがいた。

「で、何よ、学校乗っ取るって」

 昨日の告白でこの人の態度が微塵も変わるはずもなく、あのことの気配など1ミリグラムも感じさせないのは、いっそ立派だった。

 この人にも一生勝てる気がしない。

「俺が乗っ取るわけじゃないですけれどね」

 俺は学校屈指の美女二人に囲まれるという奇跡を前に、自分の考えを話し始めた。

 この二人に好きになってもらえるとか。

 俺、既に人生の運はすべて使い果たしたんじゃないだろうか。

 運命の神から明日死ねといわれても、思わず納得してしまいそうな気がする。



 告白劇の前、綾華さんが文化祭の計画書にしきりに書き込みを入れていたのを見た記憶がある。

 綾華さんが広瀬さんやその知り合いにメールを返し始める前のことだ。

 赤ペンでしきりに書き込んでいたのは、自分たちがまとめていた資材関係の書類や企画書から引っ張った情報だったという。

 どう考えてもあの計画書のままに進められていったら、自分たちがやってきた仕事がぐちゃぐちゃにさせられる。綾華さんはそう思ったらしい。

 ここは直す。ここはあきちゃんに振る。ここは由紀にがんばってもらう。ここは教師に甘える。

 そんな書き込みだから、大雑把もいいところだけれど、書いてあることはいちいちまともだった。細かな実務をやる気がさらさらないこともよくわかるけれど。

 それを見て、一つの考えが浮かんだ。

「だからといってだ」

 生徒会室で高々と脚を組み上げ、さらに堂々たる腕組みで威を加えた綾華さんが、生徒会執行部、生徒会担当をしているうちの担任、文化祭実行委員の面々を前に見得を切った。

「あたしが文化祭を仕切るとか、あんた、頭おかしいんじゃないの?」

 綾華さんがいう「あんた」とは、俺のことだ。

 綾華さんの正面に座っているのが俺。その隣に座っているのが担任。そしてずっと離れたところに生徒会長がいて、その隣に会計氏がいる。会計氏は腕を組んだまま、じっと俺と綾華さんを静かに見据えている。

「実行委員長は会長が兼任してるんだから、会長がやればいいだけでしょうが」

「正論ですけれど、現実的ではありません」

 対する俺はというと、綾華さんには負けるものの、大概態度のでかい一年である。

 なにしろ、綾華さんと向かい合わせのパイプいすにどっかりと座りながら、長机に両肘を突いて手を組み、親指をあごに当てている。その体勢で相手を見据えているのだから、少なくとも永野綾華の正体を知っている一年生が取る態度じゃない。

 そして、この時、俺はあの文化祭の計画書のひどさ、ずさんさについて、このでかい態度のまま指摘し倒した後だった。

 一年の分際で、でかい態度でいいにくいことをずけずけと並べ立てた上、このままでは文化祭は壊滅的なぐだぐださに陥るということを、数字で説明してみせた。

 数字は俺が作った書類をちょちょいといじって作り直したもので、要するに予算。お金の話。これをいつの間にか握ってしまったおかげで忙しかった訳だけれど、その結果として、生徒会の首根っこをつかんでしまっていた。俺しか、お金の正確な動きを把握していないという、生徒会執行部にとっては致命的な事態に陥っていたのだ。

 そしてさらに致命的なことに、執行部は会計氏を除いて、その事に気付いていなかった。

「先輩もご覧になったはずですよね、計画書を。あのずさんさ、どうご覧になりました?」

 実は綾華さんもついさっきまで、生徒会提出の計画書を批判する急先鋒だった。俺よりよっぽどきつかった。

 この会議はそもそも正規のものじゃない。予定されていなかった会議で、この日の朝、急にメンバー全員に緊急ミーティングの開催が告知されて、開かれたものだ。もっとも、配布された計画書案があまりにもひどかったから、大体のメンバーにはそれが原因だろうと見当はついていた。

 ただ、こんなに大荒れの様相になるとは誰も予想していなかったに違いない。

「直せばいい話でしょ。あたしが仕切るのと計画書と、何の関係があるのよ」

「大ありですよ、先輩。どう直していくにしろ、先輩の力がなければ話が前に進みません」

 俺の態度に周囲がはらはらしているのが伝わってくる。

 お互いに公衆の面前で毒舌を交わしている姿が目撃されていて、最近新密度を増していると噂されている二人だけれど、さすがに俺の態度は綾華さんの忍耐の限界点を超えているだろう。

 綾華さんの目は明らかに殺気立っていて、それが静かで威圧的な表情とあいまって、いかにも恐ろしい。多分気の弱い人間は既にこの部屋から逃げ出したくなっているはずだ。それをじっと見返している俺のでかい態度には、周囲の方がはらはらしていた。

「今必要とされているのは、役職でも経験でもありません。強烈なリーダーシップと高度な折衝能力です」

「あんたがやりゃいいでしょ」

「俺には無理です。どちらも備わっていませんから」

「それだけしゃべれりゃ充分でしょうが。お馬鹿なあたしと違ってずいぶん頭の出来も良さそうだし?」

「頭の出来はこの際関係ありませんし、俺もその点はあなたに期待していない」

「はあ?」

 綾華さんが半分キレる。そりゃまあそうだろうな。

 遠い席で会長が痛そうな顔をしていて、担任も渋い顔をしていた。

「たとえば俺が指示を出した場合と、あなたが指示を出した場合と、この方々はどっちのいうことを聞いてくれると思いますか?」

 俺はわざとらしく身を起こして両手を広げ、部屋中の人々を指すようにした。綾華さんは不機嫌に口を閉じ、俺をじっと睨んでいる。

「こんな生意気な一年のいう事を聞くくらいなら、かつては素行不良で鳴らした人でも、今のあなたについていこうとする人の方が多いはずです。俺が期待しているのはそこです」

「……」

「さらにいえば、あなたはご自身でおっしゃるほど馬鹿じゃない。論理的思考能力と説明能力は水準を遠く越えています」

 我ながら偉そうなことをいっている。客観的には聞けたものじゃないけれど、ここはぐっと我慢して続ける。したり顔で。

「この部屋にいる生徒の中でも随一でしょう。危機にある今期の文化祭を救い上げていくには、あなたくらいの個性と能力がトップに立たなければ、実現すらおぼつかないというのが俺の意見です」

「……ずいぶん偉そうにほざくじゃないか、小僧」

 綾華さんの、毒にまみれたような口調。なまじ美しい人なだけに、禍々しい口調になると恐ろしくどぎつい。

「二年のあたしに三年の会長たちを差し置いて役職に付けという。実権を握れという。それを世間じゃクーデターっていうんじゃないのか。え?」

 薔薇を背負ったような雰囲気でこのセリフを口にしてくれるから、歴史ドラマでも見せられているような気になる。

「そう思っていただいて構いませんよ」

 と返す俺も俺だけれど、なにしろ綾華さんとじゃ役者が違いすぎる。せいぜい中学生日記というところだ、と自覚するのも情けないけれど、周りからはどう見えているのか。部屋の隅で控えている由紀に、後で聞いてみようか。いや、客観的な意見を由紀に求めるのは間違ってるか。

「もっとも、当事者全員が会議室にいるんじゃ、クーデターという呼び方は語弊がありますね。合法的に権力委譲を成し遂げようとしているわけですし」

「難しい言葉を使えば賢しげに聞こえるとでも思ってるのか、小僧」

「とんでもありません。ただ、どんな手段を用いてでも、誰かに権限を集中させて、独裁的に事を運ばない限り、文化祭の成功は望めません。少なくともこの段階まで来てしまえばね。それはあなたにもお分かりのはずです」

「緊急避難としての独裁ってわけ? どこかで聞いたような詭弁ね」

「事態が沈静化するまで独裁的権限を当局が掌握する、今だって世界中で行われていることですよ。自由の国アメリカですら、ハリケーンや地震災害が起きれば、非常事態宣言下で民主的統治が一時停止されます」

「今がその非常事態ってこと?」

「そうです」

「大げさね、たかが文化祭の危機でしょ? 生徒の命が危機に陥ってるわけじゃないでしょ? ほっとけばいいじゃない。あたしの恥じゃないわ」

「ええ、現生徒会執行部の恥です。あなたの恥じゃない」

 俺が素直に認めてやると、生徒会執行部の面々は、会長ばりに痛そうな顔をするか、むっとしたを顔した。

 一人だけ、会計氏は顔色を少しも変えていない。俺たちを冷ややかな目で観察しているみたいだった。

 俺は構わず続ける。

「でも、それを救う立場に立てると衆目一致した人間がそれに立ち向かわなければ、その人間の恥に代わってしまいます。あなたの恥にね」

「また詭弁。聞き飽きるわ」

 綾華さんは露骨に嘲笑する。それも俺は構わず続ける。

「これでもかなり譲歩しているつもりなんですがね。こうして交渉しているだけでも」

「偉そうに……どこが譲歩だ、聞いて呆れる」

「話し合いで解決しようとはしているじゃないですか。別にこんな面倒な手段、採らなくても良かったんですよ」

「……」

 なんとなく俺のいいたいことは察したようで、綾華さんは秀麗な眉目に氷の気配を浮かべながら、俺を睨みつけた。

「生徒指導主任やその上の校長にまで話を通し、かつ生徒会執行部の承認さえ得てしまえば、一時的に生徒会の独裁的権限をあなたに一方的に押し付けることなんか簡単だったんです」

 そういって、俺は担任をチラッと見た。担任は深刻そうな顔をして黙っている。

 実のところ、既に生徒指導主任には話が通っている。そして担任はそれを知っていた。

「でもそれじゃあまりに一方的ですから、衆議を決してのことだとあなたに理解していただける場を設けようと思ったんですよ」

「……それで緊急招集だったわけ」

「そうです」

 すべての黒幕は俺だ、と宣言したことになる。

 綾華さんはじっと黙って俺を見ていたけれど、やがて組んでいた足先で、触れそうなほど近くにあったいすを軽く蹴飛ばした。いすに座っていたのは執行部の役員をしている三年生の男子だったけれど、綾華さんの迫力におびえきってしまっていて、その衝撃にも黙って耐えていた。

「……どういうつもりだ、お前は。たかが実行委員の一年の分際で、生徒会を乗っ取る気か」

 綾華さんの怒気をこめた声。俺はあえて笑って見せた。

「とんでもない。文化祭実行委員として、文化祭のことだけを考えれば、これ以外に手はないと思っただけですよ」

「この後の生徒会がどうなってもか」

「どうせ改選です。文化祭が終われば現執行部は自動的に解散、選挙後の新体制に今後のことは任せればいいでしょう。今は文化祭ことだけ考えればいいと思いますが」

「こんな権道押し通して、悪例を残すだけだとは思わないのか」

「現執行部がしっかりさえしていれば、こんな非常手段が通る訳がありません。むしろここまで事態を悪化させた責任を追及したいくらいだ」

 俺はそこまでいうと、執行部、特に会長に視線を飛ばした。喧嘩を売るとき同様の目で。

 誰も、俺と目を合わせなかった。

 いや、一人だけ、真正面から俺の視線を受け止めた人がいた。

 会計氏だった。

 三年生で一番接触が多かった人、生徒会会計氏。

 俺のことを早くから認めてくれていた人だけれど、この人はさすがだった。会長の隣に座りながら事態の推移を見守り、ここに来て俺の本来の企図に気付いたようだ。余裕たっぷりの笑みを浮かべ、ひとつうなずいた。

 やっぱりこの人には勝てない。そう思ったけれど、もちろん俺は顔には出さない。

「そろそろ」

 と、会計氏が笑顔を消して発言した。

 注目が一気に会計氏に移る。

「諦めたらどうだ、永野」

 やる気がない執行部を一人で支えてきた人の発言だ。重みがある。

 綾華さんもこの人の発言には聞く価値があると思ったようで、高々と組んでいた脚を外した。

「僕も君が本気で取り組んでくれるなら最大限の協力をしよう。佐藤のいうとおり、ここまでの事態になってしまったのは僕らの責任だ。お詫びの言葉もない」

 悲痛なほどに、会計氏は率直だった。

「受験生という立場はいい訳にもならないだろう。過去の先輩たちはそれでもやってきたんだ」

 会議の空気が沈痛になる。会計氏が旧帝大系の難関を目指していることは有名な話だ。それがいい訳にもならないと自ら断罪した。

「遅まきながら、文化祭成功のために動いていきたい。そのためには、まず体制から大きく変えていくのが一番だろう。非常時だ、多少の権道も許されるさ。目的のためにはあらゆる手段は正当化される、政治学の基本だ」

 会計氏が俺の計画に乗ると宣言したことで、空気は完全に入れ替わった。

 この殺伐とした会議が終わってくれるなら、どんな結論が出てもいい、と思った人間も多かっただろう。

「佐藤、黒幕としてこのクーデターを教唆した罪は償ってもらう。当然だが」

 会計氏は俺に厳しい視線を送ってきた。

 怖い目だった。

 俺は姿勢を正してうなずいた。何をいいだす気かは知らないけれど、ここまでの事態を作り出した責任は取るつもりだ。どんな形でも。停学だろうがなんだろうがどんとこい、という、変なクソ度胸だけはあった。

 会計氏はその俺の気配に苦笑したかったらしいけれど、そんなことはおくびにも出さず、続けた。

「永野がリーダーとしての責任を負ってくれるなら、君には実務面すべての統括役になってもらう。会計分野から企画の取りまとめ、イベントの采配まで。今までとは桁違いの仕事量になる。覚悟は出来ているか」

 将軍役の綾華さんに対し、それを補佐し実務を統括する参謀長役を俺にやれというわけだ。

「……いいんですか、それで」

 俺が注意深く反問すると、会計氏は秀才という言葉を形にしたような顔に強気な笑みを浮かべた。

「君以外の誰が永野の抑え役をやれるというんだ? 実務面の統括というのは、実はそれが一番の役目になると思うんだけどね。僕は少なくともそんな役回りはごめんだ。みんなもそうだろう?」

 会計氏が周囲を見渡すと、人々はあわててうなずいた。

「ということだ。これは引き受けてもらう。君に拒否権はない」

 にやりと笑う会計氏に、俺は黙って頭を下げた。

 会計氏に屈したように見えるだろう。実際屈する気持ちだったんだから、そう取られて構わなかった。

 それにしても会計氏は凄かった。ここからは、彼の独壇場になる。

「さて」

 と会計氏は綾華さんを見た。

 綾華さんは会計氏を見つめたまま、無表情だった。どこまでも冷たいその顔は、そのまま美術館に展示できそうなほど美しく、気高い。学園のアイドルといわれたり、不良の女神といわれたりした人だけれど、この時の美しさは尋常じゃなかった。

「外堀は埋まった。後は君のやる気だけが問題だ、永野」

 その美しさに気圧されもせずにいってのけた会計氏も、すごい人だった。周囲の高校生とは格が違う。

「僕は以前の君になら、こんなことはいわない。無責任にもほどがあるからね、素行不良の君にすべての権限を譲ろうなんて」

 まっすぐに綾華さんの目を見て揺るぎもしない。線の細い感じのする人だけれど、芯は強いにもほどがある。

「でも、僕は知っている。実行委員になってからの君を。物事に対して君がどれだけ真摯で、人を惹きつける魅力があるか。君以外に適任はいない。佐藤にいわれるまでもない」

 綾華さんはついに目を閉じた。一度ほどいた腕をもう一度組み直し、きゅっと口元を結んだ。

 会計氏も口を閉じた。

 俺は当然何もいわない。

 他の誰も何もいえず、室内はしんと静まり返った。身動き一つ出来ないのは、動けばいすが音を立ててしまうからだ。

 異常な緊張感の中で、多くの人が視線をさまよわせた。

 綾華さんを見て、会計氏を見て、俺を見る。主要人物はこの三人に絞られ、他の人物には視線すら向けられない。ここで一番のVIPは生徒会長のはずだけれど、この部屋では既に過去の人になっている。

 やがて、綾華さんが目を開けた。長いまつげが物憂げに揺れる。

 組んでいた腕を再びほどいた。

 会計氏がじっと見つめる。

 綾華さんは一度俺の顔を見た。表情に変化がある。目に、力と決意がある。極限まで冷たかった表情に、血の色が差していた。

 俺は思わず立ち上がりかけたけれど自制し、じっと座ったまま、こくりとひとつうなずいた。

 綾華さんは俺からついと視線を外し、立ち上がる。

「……条件は一つだけ」

 玲瓏な声が部屋の空気を震わせる。

「聞こうか」

 会計氏が綾華さんの声に応える。余裕たっぷりの、大人の声だった。

「この場にいる人たちの全面的協力。命令っていい方は嫌いですけど、指示は出しますから。どんな指示だろうが、従ってもらいますけど、それが受け入れられますか」

「受け入れられない奴がいたら今すぐここを出て行け」

 会計氏のセリフは早くて激越だった。意外なほど大きなその声に、首をすくませた人はいたけれど、出て行こうとする者はいなかった。

 逆らえるような、会計氏の雰囲気じゃなかった。今まで感じたことが無い、威があった。

「……ということだ、『新』実行委員長。よろしく頼む」

 そういうと、会計氏は立ち上がった。

「佐藤」

 呼ばれた俺は立ち上がった。

「君は実行委員会の副委員長であり、執行役だ。この祭りをまとめ上げて見せろ。出来ないとはいわせない。やれ。命をかけろ」

「はい」

 短く、でも大きく返事をした。この人は本当にすごい。場を完全に支配していた。

「というわけだ、みんな。僕はこの二人を力の限り支える。みんなも覚悟を決めてくれ」

 立ち上がっている三人が周囲を見回す。

 その場にいる誰もが、少なくともこの三人に従う以外に道はないことを悟ったらしい。

 やがて、誰からともなく拍手が起きた。それはすぐに全員の拍手となり、生徒会室を満たした。




「助かりました」

 開口一番、俺は会計氏に頭を下げた。

 緊急ミーティングはあの後、一転して新実行委員会の業務振り分けの場になった。

 あらかじめ作ってあったロードマップを配付して、俺が説明する。会計氏がそれに適宜突っ込みを入れ、綾華さんが振り分け先を指示する。

 一気に事は回り始めた。

 今までの沈滞していた空気がウソのように、生徒会室は活況を呈した。

「部門分けはこれからもどんどん変えていくわ。全体の状況はあきちゃんがまとめて、次の日にはみんながわかるように掲示しておいて。みんなそれを必ず確認して、どんな指示が出ても対応できるようにしておくこと。いいわね」

 綾華さんのさばき方は見事で、三年も含めた全員が従った。

 それが終わったのは6時前で、そこで一旦解散になった。

「明日は放課後になり次第ここに集合。当日まであと10日も無いんだから、勢いで乗り切るわよ。いいね」

 綾華さんの掛け声に、全員がそれぞれの表現で返事をした。

 解散後、まだしばらく興奮冷めやらない人々の熱気の中で、各担当がどんどん質問をぶつけてきた。何しろ全体像がわかっているのはこの時点では俺だけだったから、目が回るような忙しさだった。

 それも大体収拾が付いて、本格的に解散になったのは7時ごろ。

 それから校外へ出て、俺、綾華さん、そして由紀が別の場所に移った。

 例の、国道沿いの喫茶店。

 そしてその喫茶店には由紀のお父様もいた。あらかじめ遅くなりそうなことを連絡していた由紀が、その場に呼んでいた。由紀としては駐車場でちょっと待っていてもらうつもりだったらしいけれど、そうも行かないだろうという俺と綾華さんの言葉で、急遽同席してもらうことになった。

 そして、俺たちが頼んだコーヒーや紅茶が席に回ったところで、会計氏が合流した。

 会計氏が座ったところで、俺が頭を下げた、という流れ。

 会計氏は苦笑いしていた。

「何が始まるかと思ったけど、まさかクーデターとはね。恐れ入ったよ」

「すみません、事前に相談できれば良かったんですけれど」

 俺が謝り、綾華さんも頭を下げた。

「猿芝居にまで付き合ってもらっちゃって、ありがとうございました」

「永野まで謝らなくていいさ。どうせ、考えたのは佐藤なんだろう?」

「ええ、まあ」

 頭をかいた。申し訳ない上に、この人は芝居を芝居とわかった上で、これ以上にない乗り方をしてくれた。

「金森先生は知っていたのか?」

 と、うちの担任の名前を出した。俺は首を振る。

「知りません。生徒指導主任は知ってますけれど、こういう策謀は知ってる人間が少なければ少ないほど成功するっていって、内緒に」

「あの狸ならいいそうだな。孫が出来てもそういう茶目っ気は失せないんだな」

 そういって笑ったのは、意外にも由紀パパ。実は生徒指導主任の教え子だという。

「新任当時から既に狸だったよ、あれは」

 由紀パパは事情は良く知っている。なにしろ、当事者たちが昨日話していた計画を、この人は由紀からすべて聞いている。

「なるほどね。でも、いいアイディアだ。組織を変えるには、上を変えるしかない。下がどんなに頑張っても限度があるからな」

「それをどうやって変えるか考えたんですけれど、あんなのしか浮かびませんでした。会長には申し訳なかったんですけれど」

「いいさ、あれだって立候補してまでなった地位を放置していたんだ、当然の報いだろう」

 会計氏は容赦が無い。

「むしろ、主任から強権発動してもらった方が早く進んだだろうに、わざわざあんな芝居まで打ってくれてありがたかった。あれで生徒の自主性の牙城は護れたんだからな」

「そこが問題だったしね」

 といったのは綾華さん。

「あたしも教師からいわれてやるなんて、形だけでも嫌だし」

「という綾華さんの強い希望があったんで、あの芝居を打ったんです」

「打てただけすごいよ。普通の高校生はああいう芝居は思いつかないし、思いついてもやらない。成功する訳ないからな」

 下克上で構わない。要するに、言い出しっぺが生徒で、引き受けるのも生徒で、あくまで生徒主体で起きたクーデターだったという事実が欲しかった。

「僕が反対に回ったらどうする気だったんだ?」

「その時は仕方ないですから、先輩にリーダーになってもらう計画でした」

「おいおい、待ってくれ」

 会計氏が本気であわてた。俺の隣に座って大人しくしている由紀が、それを見て嬉しそうに笑っている。

「その時はあたしが涙ながらの大演説を打つ予定だったんですけどね。残念、見逃したね」

 綾華さんもそういいながら愉快そうにけらけら笑っている。

「永野に泣かれちゃ断れないな……主任を落として予防線を張っておいて、俺まで視野に入れた三段構えの策か。やるな佐藤」

 会計氏はため息をつきながらいった。俺は黙って頭を下げる。何をいっても失礼になりそうだ。

「でもそれをすぐに理解できるのって凄いね」

 綾華さんが手放しで褒めた。非常に珍しい。

 会計氏は別に嬉しそうでもなく、追加で運ばれてきたコーヒーカップを手に取った。

「自分では考えつけなかった策だ。見抜いたからといって偉いものでもないさ。とっさに芝居に乗れた自分の演技力には、我ながらちょっと感心したけどさ」

「かっこよかったです、とっても」

 昨日から目をきらきらさせっぱなしの由紀が褒めると、さすがに会計氏は嬉しそうだった。打算が感じられないだけ、由紀の賞賛は素直に受け入れられるんだろう。でも、俺は知っている。

「とかいって純粋そうに褒めてる由紀ですけどね、先輩が反対したらリーダーになってもらう策、出したのこいつですからね」

「ば、ばらしちゃうんですか」

 由紀が一転してあわてる。綾華さんも暴露に乗ってきた。

「あたしがする予定だった涙の演説、この子が原案だからね。かわいいからってだまされちゃダメよ」

「ひ、ひどいです、綾華さんまで」

「事実だしー?」

「晃彦くんもひどいです、何となくいっただけなのに『採用!』とか叫んで勝手に私の発案にしちゃって」

「事実だしー?」

 綾華さんのまねをする。由紀が本気で悔しがり、怒り出したから、あわててなだめる。

「あの話し合いに参加してたら誰でも思いつくことだよ。由紀が考え付かなくても、結局はそうなったって」

「なっただろうな」

 とつまらなさそうにうなずいたのは、当の会計氏。

「僕がそこにいても同じことを考えただろうし」

「それにしても」

 と綾華さんが強引に話の方向を変えたのも、これ以上由紀の機嫌を悪化させないためだろう。

 俺の余計な行動でお手間を取らせます。

「ずいぶん迫力あったね。あたし、先輩があんなに凄い人だとは思わなかったよ」

 それは全面的に同感。こくこくとうなずくと、先輩は苦笑した。

「僕だって思わなかったさ。舞台が人を作るとかいうけど、まさか当事者になるとはね」

「もう高校生のノリじゃなかったもんね。あきちゃんを睨み据えたあの視線ってばもう、大人の男って感じで」

「やりやがったなこの野郎って思ってたからね。厳しい目に見えたとしたら、それはかなり本気が入ってる」

「うわあ、本気で睨まれてたんだ、俺」

「怖かった?」

 綾華さんが嬉しそうに聞いてくる。人が怖がるのがそんなに嬉しいですか。そうですか。

「怖かったです、かなり」

 正直に答える。

「未来の番長をびびらせたんだから、たいしたもんだわ」

「ちょっと待て、その呼び方をするなとあれほど」

「しらなーい」

 本当に楽しそうだ、綾華さん。

「すごいな、君らは」

 と、由紀パパが不意にいった。

 全員が視線を由紀パパに送る。

 由紀から見て俺の逆隣に座っている由紀パパは、温厚な顔に温厚な表情を浮かべていた。

「自分が高校生の頃のことを考えると、君らが途方もなく大人に見える」

 いいながら、由紀の頭をなで始めた。

「この子もこういう大人しい子だから、大した経験もしないまま卒業してしまうんじゃないかと思っていた。どうも杞憂だったらしい」

 そういうと、笑う。

「君らがそばにいるなら、この子もいろんな経験ができそうだ。安心したよ」

「……それ、どうなんでしょう」

 と疑問を呈したのは綾華さん。

「普通、こういう事態に娘さんが出くわしたら、逆に切り離そうとするのが親心ではないかと」

「安全に場所に置いておきたいって? それは中学生までの話だろう」

 由紀パパ、笑顔を崩さない。

「世間の裏なんて人間の感情が渦巻いている世界だ。その一端にも触れずに学校を出てしまったら、いざ世間に放り出されて何が出来る? 少なくとも君らの策は後ろ向きじゃない。ポジティブで建設的だ。その場面に立ち会うことが出来たんだ、幸せというべきだし」

 由紀の頭をなでていた手を下ろす。

「そういう人間と親しくなれたということは、これからも色々な経験が出来るということだ。立ち直れないほどつらい目にも遭うかもしれないが、それもいい経験になる。高校ってのは、そういう経験をするためにいくものだろう」

 全員、大人の意見に一言も無かった。この人がいうんだから、そうなんだろう。そう思わせる説得力があった。

「まあ、私の興味はむしろ、この子が佐藤君とどこまで進んでいるのかにあるんだがね」

 爆弾発言に、俺も由紀もとっさに反応できなかった。いち早く反応したのは綾華さん。

「あらおじ様、ご存じなくて?」

「それは僕も興味があるな」

「何乗ってるんですか、先輩まで!」

 俺がどうにか突っ込むけれど、そんなもので止まるはずもない。

「わたくしはむしろおじ様が彼との関係を認めているかのようにおっしゃる、その事に興味がございますけれど」

 綾華さんがいきなり超お嬢様モードに切り替わる。

 こうなったらもうダメだ。止まるはずがない。

 由紀が青ざめていくのがわかる。でも対処のしようがない。

 あきらめろ由紀。

「認めるさ、こんないい男、次にいつ由紀が捕まえられるかわからないしね」

「あら、理解のあるお父様でいらっしゃいますわね。ではわたくしも誠意を持ってお答えいたしますわ」

「何の誠意だ何の」

「この男、実はこう見えて意外や意外、バカップルを地で行く困り者でございまして」

「困り者ってなんだよ」

「ほう、詳しく聞こうか」

 会計氏もここぞとばかりに身を乗り出している。この人、実はこうやってどんな話にも乗っていくのが趣味なんじゃないのか。

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