第15話 核地雷

 不思議なもので、あれだけひどい体調だった月曜日、薬を飲んでろくにものも食べずに寝込んだはずなのに、火曜の朝、俺の体調はずいぶん良くなってしまった。

「本調子には程遠いけれど、なんかそんなに気持ち悪くはないよ」

 起き出してきた俺を見て無言で体温計を突き出した母にいう。体温も平熱だった。

「頑丈に産んだ自信はあるけれどね、こんな鉄人に育てた覚えもないわよ」

 俺の減らず口は絶対この人の遺伝だ。でなきゃ教育の結果だ。

「遺書書かせようかと思ったくらい昨日はひどかったのにね」

 横からいってくる妹も濃厚なDNAを感じさせる。

「俺ならあと一週間は寝込んでるな。本当に俺の子なんだろうな」

 と能天気に放言した親父は、最大の責任者だと思われる。

「あんたの子じゃなきゃこの平凡な顔は作成不可能でしょう」

 とは母。父は当然切り返す。

「お前、自分の顔鏡で見てからいえよ? まるっきり複製じゃないか」

「目が腐ってるんじゃなきゃ、あなたこそ鏡見てきなさい。どれだけ濃い遺伝子よ」

 別に喧嘩ではない。これが我が家の普通。

 かくして俺の減らず口が誕生したわけだ。

 安心してくれ。どっちも確実に俺の親だよ。




 学校に行くと変な顔をされた。

「お前……ゾンビか」

「なんだそれ」

 人の顔を見るなり、小学校からの連れがいう。

「昨日の顔色見たら今日は絶対休むと思ってたのに、何で明らかに昨日より元気なんだよ」

「知らないよ、起きたらこうだったんだから」

「包帯も取れて完全復活じゃないか、中間すっ飛ばして」

「すっ飛ばしてない、普通に回復しただけだろ。まだガーゼ張ってあるし」

「やっぱお前は怒らせないことにする。人間相手ならともかく、そうじゃない奴に逆らっても仕方ないもんな」

「ボクは小市民だよ? 人知れずひっそり生きていくんだから変ないいがかりはよしてくれないかなあ」

「うそ臭いにもほどがあるだろ」

 実際、俺の評価というものが、文化祭実行委員になって以来、だいぶ変わっている。

 ちょっと前に喧嘩に巻き込まれて、危うく素行不良グループの一員に数えられそうになったけれど、それは回避して、結局小市民の目立たない生徒の地位を回復していたはずだった。地味で、それほど目立つ個性があるわけでもなく、生徒が3人もいたら存在感が埋もれてしまうような存在。

 それは悲しい存在かもしれないけれど、俺にとっては居心地が良くてそれなりに楽しい世界だった。

 それが、綾華さんとまともに渡り合っている下級生がいるという噂でくつがえった。その後のもろもろの事件で「こんなやつがこの学校にいたのか」的扱いを受けるようになった。とくに大人の評判が悪い人々から。

 一方で、生徒会会計の先輩や、生徒会活動に多少でも関わっている教師たちに、面白い1年生がいるという評価も受けている。こちらは素直に喜んでおきたい。

 それから、由紀と付き合うようになって、急に女子と口を利く回数が増えた気がする。

「体の調子、もういいんだ」

「なんとかね」

 という話を、登校してから授業が始まるまでの間に3回、それぞれ別の女子と交わしている。

 原因は何だろう、と不思議に思っていると、解答は綾華さんがくれた。

 昨日、俺が帰ってから、由紀は学校に戻って文化祭の仕事をしていた。綾華さんは由紀不在の間からずっと仕事に取り掛かっていて、昨日も結構遅くまでがんばってくれていたらしい。

 3時間目と4時間目の間の休み時間、教室移動のついでがあったようで、綾華さんは生徒会関連の書類を持ってきてくれた。

「放課後すぐに出して欲しいんだってさ。あたしたちじゃよくわかんなかったから」

 2年生が1年生の教室に入ってくることはあまりなく、まして来たのが綾華さんじゃ目立つことこの上ない。ただでさえ注目されやすい人が、この教室では完全にスター扱い。誰もが異常なくらいに綾華さんに注目している。

「そんなん」

 と、解答をくれた綾華さんは非常に明快だった。

「あんな静かな子と付き合うんだってわかったからでしょ」

 体がでかい上に目立たず生きていこうとしていたからとっつきにくく、しかも交友関係が素行不良勢に傾いていたから(本人にその意識はないけれど)、女としては話しかけにくい人間だったらしい。

「なるほど」

「じゃ、その書類よろしくね」

 綾華さんは次の授業のこともあったからさっさといなくなった。

 その後姿を見送っていた周囲が、綾華さんが扉を出て行った途端、俺を取り囲んだ。

「いいなあ、綾華さんとあんなに普通に喋れるんだ」

「どうなの、綾華さんってなんか庶民とは話してくれないイメージがあるけど、そんなでもないの?」

「今一番綾華さんと仲がいいのって晃彦らしいじゃん」

 みんな、綾華さんは雲の上の人だと思っている。俺もつい最近までは別の世界の人だと思っていた口だから、人のことはいえない。

「別に普通だよ。俺の場合はたまたまきっかけがあったからだけど、むしろ話しやすい人だよ。変に人を区別したり差別したりはしない人だし」

「あたしたちとかでも?」

「きっかけさえあればね。用もないのに愛想売ったりはしないけど、用がなくたってファンですっていえば話くらいしてくれると思うけれどね」

「紹介してよ」

「それはダメ。自分から行くくらいの行動力は欲しがる人だと思うし」

 今まで、同じクラスなのにほとんど喋ったことがない女子まで話しかけてくる。綾華さん効果はすさまじい。




 昼休みはほとんど書類の処理に費やされた。由紀も手伝ってくれたけれど、たかが二日仕事から離れただけで、だいぶたまっている。

 自分が手がけて配布していたものが戻ってきている書類がほとんどだったから、機械的に一気に処理していく。リストを見て照合したり、こちらで直せるミスなら直していったり、不明点には深く考え込まずにどんどん付箋を貼っていったり、生徒会や職員室に提出する書類には検印代わりのサインを書いていったり、別に難しい処理はしていない。

 ただ、隣で見ている由紀には驚きの速度だったらしく、手伝いながら感心していた。

「やっぱりすごいですね」

「面倒なことは棚上げして後回しにしてるからね。別にすごくもなんともないよ」

「このスピードをすごくないとかいったら、落ち込みます」

「なんで?」

「私にはどうがんばっても無理です」

「得手不得手があるでしょ。俺は由紀みたいに綿密なチェックはできないもん。ざっとやっていくのは俺の得意、綿密さは由紀の得意、人それぞれだよ」

「そういう風にいえるのもすごいと思います」

「由紀は俺がやることは何でもすごく感じちゃってるんじゃない? もしかして」

「そうかもしれません」

 由紀はあっさりと認めた。俺が書類から少し目を離して由紀を見ると、白い顔をわずかに上気させた由紀は、聞こえるぎりぎりの小さな声でいう。

「惚れた弱みなので仕方ありません」

 思わず書類を放り投げそうになった。

 いきなり何をいい出すか、こいつは。

 引っ込み思案で大人しくて、なかなか自分の思いを口に出さない、というのが一般的な由紀のイメージだと思うけれど、とんでもない。この前から、この子は結構いいたいことをはっきりという。声は小さいけれど。

 これは内弁慶というんじゃないだろうか。俺は由紀の思いに答えた瞬間から由紀にとっては他人ではなくなったから、意外なくらいするっと思っていることを口に出せるんじゃないだろうか。

「……ほんと、由紀は俺を何度殺してくれるのか」

「えっ、変なこといいましたか?」

「変じゃないけど、想像をはるかに超えてるのは確か」

「想像を超えてるのは晃彦くんも一緒です、私の想像なんて全然届かないくらいすごいです」

「もういいよ、褒め合いは……仕事にならない」

 呆れて、というより、これ以上由紀に褒められたら、勘違いしそうだった。俺ってすげー人間なんじゃね? と。

 昼休みはそんなことで終わっていき、午後の授業を経て放課後になる。

 放課後になると、いよいよ今日の本番という感じだ。

 俺がいない二日間にたまり、今日また大量に発生したお金関連の仕事が、俺を出迎えた。資材購入には、歴代の生徒会が付き合ってきた業者と話を進めなければいけないけれど、生徒会の会計氏以外に話を通すとややこしくなりそうだったから、俺が最初から最後まで面倒を見てしまうことにしていた。

 なにしろお金が発生することだから、本来は学校の事務が肩代わりしていく仕事なのだけれど、そうすると今度はがしがし予算が削られたり、ひつひとつの購入資材に理由のコメントが必要になったり、ややこしくはないけれどひどく面倒にはなる。

 だから、会計氏や生徒会指導主任の担任を味方につけて、金額の枠内であれば自分で決済できるようにしていた。

 自分で決済、ということは、責任が付いて回るということ。交渉から受け入れの段取り、使用後の保管場所の決定から所有者票の作成・貼付まで、やることはたくさんある。

 業者に電話するのは完全に俺の仕事。

「私、しゃべれません……」

 といってその役から降りたのは由紀で、綾華さんには「あたしに数字の仕事させる気?」ど逆に脅された。やりたくないといっているのではなく、やったら責任は取れないよ、という押し付けっぽい理屈で押し通す気なのだろう。

 俺だってそういう電話に慣れているわけじゃないし、やりたくてやっているわけじゃないけれど、バイトで使い走りとしてあちこち走り回ったりお使いしたりしてきた経験は、無駄にはなっていない。

「しゃべらなくてもいい仕事がいっぱいあるから覚悟しといて」

 と由紀にいう俺の一番の仕事は、実はお金のことではなく、文化祭全体の資材が絡むことの段取りをつけて締切りを設け、それを守らせること。締切りがないと人間は動かない動物のようだから、守れそうな程度の締切りを設定し、それを軸に、直前になったら警鐘を鳴らし、時間を迎えたら確認し、過ぎていたら催促し、協力が必要なら協力し、それでもできないようならこっちでやってしまう、そういう割り振りをしていくこと。

 なんでも自分でやるのではなく、逆に自分以外の人間をどれだけ動かすかが大事になる。

 特に自分の体調にどうも自信がもてないから、徹底的に人を使っていくことを考えないと、また寝込んだりしたらまわりにかける迷惑がすさまじいものになる。

 カケスさんがよくいう事だけれど、仕事は段取りが8割。段取りさえできていれば、何も考えずに手足を動かしている内に、大方の仕事は片付く。

 この頃になると、企画を早く上げないと資材を貸せないよ、という俺たちの最初からの掛け声が浸透したようで、取り組みが遅いところでも出し物などの見通しが立ってきて、学校全体に文化祭を迎える雰囲気が出来上がってきていた。

 文化祭の、ざわざわした、期待と焦りに満ちたような空気が出来上がってきていた。

 こういう空気は嫌いじゃない。

「今年はずいぶん盛り上がりがあるな」

 といったのは担任。

「取り掛かりが早かったからかな、去年までとちょっと雰囲気が違うな。ぎりぎりにならないと、文化部以外の生徒はなかなか盛り上がらないもんだが、今回はクラス単位の盛り上がりがすごそうだ」

「そんなもんですか」

 去年の空気なんか俺が知っているはずがないから、話は一方通行。

「あたしもこういう雰囲気って好きだなあ。みんなで寄ってたかって祭りを作っていく感じ、わくわくするよね」

 意外に素直な感想を口にしたのは綾華さん。

「不健全だったり非合法だったりする騒ぎのテンションも嫌いじゃないけど、こういう健全なテンションの高さってのもいいよね」

 と、余計なことを付け加えてくれたけれど。

「お前たちの仕事が速いから助かるよ。校内の文化祭モードのスイッチを押してくれたようなもんだな」

 生徒会指導主任でもある担任の評価は、俺たちにひどく高い。

 人に評価されたくて始めた仕事じゃないけれど、やったことを評価されるのはやっぱり嬉しい。

「まだこれからが山場ですし、最悪のタイミングで倒れたりしないように気をつけます」

 俺がそういうと、両隣にいる綾華さんと由紀が同時に深くうなずいた。俺が倒れて、まず直撃を食うのはこの二人なのだから当然だ。




 まるで夢の中の出来事のようだったから、意識してそうしていたわけではないけれど、俺はやっぱり現実感がないままに無視していたことになる。

 あれから何日か経った今でも、あの時間そのものが俺の中で消化しきれないままになっていて、棚上げになっていた。

 綾華さんが俺の見舞いに来た件だ。もっといえば、その中で語られた様々な会話。

 そして、握られた手の感触。

 あの記憶のどこまでが現実で、どこまでが熱が見せた幻覚なのか、どこまでが信じられるもので、どこからが信じてはいけないものなのか、熱に浮かされていたのは間違いない事実だから、自分の中で整理ができなかった。

 その後に会った綾華さんは、あのときの面影をまったく引きずらず、あんな話は無かったかのようだった。お互いに忙しすぎて仕事に没頭していたせいもあるのだろうけれど、あまりにも今までと変化がなさ過ぎた。綾華さんの態度も、会話の内容も。

 仕事をしているときまでそのことに頭が占領されることはなかった。俺はそこまでの恋愛脳じゃないらしい。

 ただ、門限がある由紀が帰り、仕事がひと段落して、もう帰ろうかというタイミングになった夜の7時半過ぎごろ、棚上げにしていた記憶や感情が不意に浮かび上がってくる。

 綾華さんと二人きりになってしまうタイミングがあるのが悪い。

 各クラスの代表や生徒会役員と顔を合わせているうちは気にもならないけれど、扉のガラスがまだ割れたまま厚紙が張られている生徒会室で、俺が書類処理のためにパチパチとキーボードを打っている音と、パソコンのファンが回る音、もう真っ暗になった外から聞こえてくる部活の声、それしか聞こえない生徒会室の中で、綾華さんが携帯をいじっているかすかなクリック音がやけに大きく聞こえる。

 いつ、誰が入ってくるかわからない空間だからか、綾華さんは仕事以外のことでは一切口を開かなかった。誰かがいれば冗談もいうし、俺と掛け合ったりもする。でも、二人になると、必要以外の口は叩かなかった。

 前ならそれで良かった。

 俺も学校のスター相手に無駄口叩くくらいなら自分の作業に没頭していたかったし、綾華さんが俺相手に無駄口叩かないのはむしろ当然に思えた。なぜ、綾華さんともあろうものが、俺なんぞと喋らなければならないのか。

 ところが、その大スターが、あまりにも近くなりすぎた。どこまでが現実だったかあいまい、という厄介な状況ではあるにしても、綾華さんは病身の俺の手を握り、かなりきわどいことをいっている。

 こんなにそばにいて居心地がいい男なんか初めてだったから。

 その言葉が耳について離れない。

 その後、綾華さんは「『普通』でいることの心地よさを知っちゃったし、あきちゃんや由紀ともっと一緒にいたいし」ともいっていた。

 文脈から考えれば、綾華さんにとっては俺がどうというより、普通というものに対する憧れを自分なりに認めることができた、と解釈もできる。でも、解釈の仕方によっては、俺を好きだといっていたようにも思えなくはない。

 いやいや、それはないわ、と俺の理性は告げる。ありえないだろう。

 ただ、記憶にもやがかかっていて、自分の解釈に自信がもてないのが問題だった。

 それを考えたくないから仕事に没頭しようとするのだけれど、二人きりになってしまえばなかなかそうも行かず、ついつい綾華さんにとらわれてしまう。

 それでも仕事に没頭しようとした成果は上がっていて、見込みより早く処理ができている。休みもあったし、そろそろ仕事を溜め込むかな、と予測していたのだけれど、意外にも溜めるどころか、いくつかの仕事を先行して始末してしまっている。

 たとえば、各クラスの処理の合間にでもやろうと思っていた、後夜祭に使う資材の手配や、使い回しの計画など。全体の計画ができてからでもいいやと思っていたけれど、この段階でも作って作れないことはなかったもの。去年までのものだと不完全もいいところだったから、新たに作り直した。結構そういう書類や計画が多い。

 今までは現場の判断でどうにかしていたんだろう。それじゃダメだ、ちゃんと計画しなきゃ、なんて大声でいって回るようないい子ちゃんでも、自分が正義と思えば周りの弱さや怠けを許さない善人でもないから、それで別にかまわないと俺も思う。

 それでも計画を作ったのは、単純に、そうでもしないときつかったからだ。今日はなぜか綾華さんと一緒の部屋にいることが多く、その間、「仕事してまっせ」という顔で間を持たせたいという、ただそれだけの理由でばしばしとキーボードを打っているうちに出来上がってしまった。

 昼休みに仕事をしていた時、由紀がしきりに感心してくれていたけれど、放課後の仕事については褒められる理由は無い気がする。

 プリンタのモーターが静かな部屋の空気を震わせる。

 書類が2枚、吐き出されてくる。伸びをしてそれを取り、眺める。これで間違いが無ければ、今日できることは一通り終わる。そしてざっと見たところ、間違いは見当たらなかった。

 さあ、仕事は終わってしまった。

 綾華さんはまだ帰らない。

 なぜ、携帯を打っているだけの綾華さんが生徒会室に残っているのか。

 理由は知らない。知りたいし、できれば速やかにお帰りいただきたい気がするのだけれど、残念ながら訊ねる勇気がこの時の俺にはなかった。

 人を脅したり喧嘩を売ったりする機会に最近恵まれてしまい、おかげさまで「あいつは怒らせると怖い」だとか「大人しい顔して実は陰の実力者かもしれない」とか訳のわからない評価を得ている俺も、実態はこんなもの。小心、ここに極まれり。

 綾華さんも綾華さんで、他の生徒がいなくなった瞬間から一言もしゃべらず、さっき携帯を出すまでは、文化祭実行委員の本部から回ってきたプログラム案と詳細な計画書のチェックをしていた。赤ペンでしきりに書き込みを入れていたから、見るのは真面目に見ていたのだろう。

 それも一巡したようで、今はどうもメールをひたすら繰り返しているようだ。

 俺は覚悟を決めた。このままうだうだしていても仕方がないし、いい加減腹も減っている。病み上がりで胃も元気ではないけれど、減るものは減る。

「綾華さん」

 呼びかけた声はかすれていて、思わず咳き込んだ。全然しゃべっていなかったからだろう。

「……なに」

 綾華さんの声は氷点下の気配。こちらを見もせず、携帯を操る超高速の指使いがそこはかとなく俺の恐怖を演出してくれる。

「い、一応仕事は終わりました」

「ああ、そう」

 身じろぎもせず、うなずきもせず、綾華さんはごく短く答えた。メールによほど集中しているのか、それとも別の理由で俺に返事するのが鬱陶しいのか。ちらりとしか見ていないけれど、顔も強張っている気がした。

 気にしていたら1ミリも身動きが取れなくなりそうだったから、俺は帰り支度をすることにした。まずはパソコンの電源を落とす。それからいい書類を整理し、ファイルに綴じるものは綴じ、クリアファイルに入れる物は入れ、未処理棚に戻すものは戻す。

 俺がガチャガチャ動いて、棚の鍵も閉めて帰る準備が出来上がった頃、急に綾華さんがいすの上で大きく背伸びをした。

「うあああ、もう疲れたよー」

 今までとは全然気配が違う、肩の力が抜けた声だった。

「あきちゃんもお疲れ」

「あ、え、はい、お疲れ様です」

「……どしたの? あたし、どうかした?」

 俺がかなり怪訝な顔をしていたようで、綾華さんまで怪訝そうな顔になる。

「いや、今日はずっと難しい顔をしていたなあ、と」

「ああ……色々、ね」

 立ち上がりながら綾華さんはいう。

「広瀬と別れるって話、ちょっともめててさ」

 そういいながら苦笑している。

「広瀬が動き回ってるのかどうか知らないけど、あいつの知り合いからやたらメールとか電話とか来てて。返すの大変なんだ」

 それでか。

 俺は複雑だった。どう反応していいか、見当が付かない。

「いかんいかん、眉間にしわが寄ってたかな」

 ぐりぐと自分の眉間を揉んでいるけれど、もともと眉間にしわが寄っている顔つきでもないから、もちろんデモンストレーション。

「……まあ、荒っぽいことがないようにして下さいね。こじれるとあの人は大変そうな気がしますし」

「広瀬、こじれたらすごい勢いで復縁迫りそうね。あれは精神的には子供だからさ、自分がこうあるべきだと思うとあたしやみんなもそう考えて当然だとか当たり前に思っちゃうばかだから」

 本当に容赦がない。

 この人は成績以上に頭がいいから、表現力がある。説得力があるだけ救いがないこともある。

「でも多分、あきちゃんには火は飛ばないと思うよ。なにしろバックにすごいのがいるってみんな知ってるから」

「カケスさんですか」

「掛巣さんがあきちゃんの後見人だってこと、すごい勢いで広がってるから。どうもあきちゃんはそういうの鈍そうだけど、今でもあの人が一声かけたら、百人単位で兵隊集まるわよ」

「知ってますよ、この辺りの土木業界でも有名人ですから」

 本当にそうなのだ。

「なんなら」

 と提案してみる。

「カケスさんに頼ってみたらどうです? 俺が紹介しなくたって、この前の一件もあるし、勝手に動き出さないとも限りませんが」

「いいわよ」

 綾華さんは一笑に付す。

「別れ話くらい自分で始末つけるわ。いざとなれば、永野家ブランドの威力もあるし」

 思い出した。この人は地元最強の家の出だ。

 何しろ田舎のこと。相手が社会人ならなおさら、永野家のネームバリューは効果的だ。何も知らない子供ならともかく、永野家を正面きって敵に回すようなことになれば、何かと不都合が出てくることは、広瀬さんにも、そしてその周辺の人たちにもすぐにわかることだ。

「別れた原因に納得いかない、みたいな話が多くてね。もともと好きじゃなかったっていってるのに」

 携帯を器用に手の中でくるくる回しながら綾華さんいう。

「あきちゃんのせいだって話は意外に出てこないのよ」

「はあ」

 何が出てくるかわからないから、最小限の返事。

「由紀のおかげね。あの子に感謝しなさい。あの子とラブラブな場面が目撃されてるから、原因があんただとは気付かれないんだから」

「……やっぱ原因って俺なんすか?」

 思わず、踏み込んでしまった。

 俺はいつも自分から地雷原に飛び込んでしまう。そのまま「はあ」とだけ返しておけばいいものを。

 綾華さんは、今さら何を、という顔で俺を見た。

「そういってるでしょ? 信じてないの?」

「信じてないんじゃなくて、信じられないんですよ。なんで俺なんかと接しててそういう話になっちゃったのか」

 綾華さんは俺のセリフを聞くと、黙って立ち上がった。立っていた俺のすぐ近くまで歩み寄ってくる。俺は身動きもできないまま突っ立っていた。

 俺の目の前まで来ると、綾華さんは右手の人差し指をくるくると見せ付けるように振ってから、俺の胸に突き立てる仕草をした。

「何度でもいう。あんたはいい男なの。自分で気付いていないだけ」

 ぐりぐりと胸骨が押される。痛いほどではないけれど、くすぐったいというレベルではなかった。

「その自覚の無さはもう犯罪的ね。見てて腹立ってくるわ」

「そりゃ……どうも」

 気の利いた返事なんか浮かんでこない。綾華さんは指を降ろした。

「腹立ったついでに、はっきりいうわ。どうも回りくどいいいかたすると逃げようとするみたいだから」

 綾華さんのきれい過ぎる顔に、攻撃的な笑みが浮かんだ。

 凄絶な、といってもいいのかもしれない。寒気がするほど美しい、と思ってしまった。

 そして、爆弾を落とす。

「あたしは、あきちゃんが好き」

 ……炸裂した爆弾の巨大さは、夢かとも思えた熱の最中の話し合いのときの比じゃなかった。

 手を握られたときだって、ここまで衝撃は無かったはずだ。

 俺は口の中がからからに乾いていた。緊張で足が震えそうになる。

 とてつもないことが起きている。

「本当は、由紀なんかに渡しておくつもりも無いのよ。でもそれはそれであたしのプライドやポリシーが許さないから、由紀から奪うつもりはないわ。でも」

 綾華さんの瞳がじっと俺の目を貫いている。目なんかそらせない。

「好き。生まれて初めて、男を好きになった」

 女性としては背が高い綾華さんとは、由紀ほど視線の角度はない。まっすぐに射込まれる視線が、直接俺の脳に侵入してきそうだ。頬に差した血の色が、唇の赤さが、なにより俺の姿を映して動かない瞳の色が、俺を縛り付ける。

「話してて楽しい。一緒に歩いていると胸が痛くなる。ちょっと会えないだけで胸がざわざわする。遠くに見かけただけでどきどきする。会える予定があるだけでわくわくする」

 そこまでいうと、視線を外して下を向いた。

 俺は自分が呼吸を忘れていたことにすら気付いていなかった。息苦しさに思わず大きく息をついて、その音に自分でびっくりする。

 そのびっくりに更なるびっくりが重なる。

 綾華さんは、俺の両手を自分の両手で捕まえていた。由紀のそれより長い指が、俺の両手の中で動き、指と指が互い違いに結ばれた。

「こうして手をつないだら、わかるでしょ?」

 瞳が再び俺の目を射抜く。

 わかりたくなかったけれど、わかってしまった。

 綾華さんの手から、震えが伝わってきた。細かく、不規則に、綾華さんは震えていた。

「こんなこと、初めてだわ。自分でも自分がどうなってるかわかんないの」

 つないだ手はしっとりとしていた。汗がにじんでいた。緊張しているのか、冷たい。

 そして、鼓動が伝わってくる。激しく、早く、大きな鼓動。

「広瀬に抱かれてるときだって、どんなに興奮していたって、こんなにどきどきしたりしなかったわ。人を好きになるってこういうことなのかって、初めてわかったの」

 綾華さんの声が、俺の心を砕いていく。何も考えられなくなっていく。綾華さんの鼓動が、俺の体を溶かしていく。

「あきちゃんのせいだよ。こんなもの、気付かなければ良かったのに。気付かなければ、ごまかしていられたのに」

 胴が震える、という感覚。初めて命がけの喧嘩をする羽目になったとき以来じゃないだろうか。

「もうごまかせない。あきちゃんを好きってことはごまかせても、人を好きになる恐怖と快楽は、知ってしまえばもうごまかせないわ」

 そこまでいうと、綾華さんはそっと体を前にずらした。そこには俺の体がある。

 綾華さんの髪が鼻先に来る。綾華さんは自分の額を俺の首筋に埋めるようにした。綾華さんの香りが濃密に俺の鼻腔を刺激する。

「触れるだけで意識が飛びそうになるのよ。あきちゃんの指で触れられたらって思うだけで何も考えられなくなる」

 俺の指を確かめるように、握っていた手を離し、指先で俺の指を叩くように触れ、そして腕を上げる。

 そのまま、綾華さんは俺の腕の隙間に手を差し込んで、俺の胴を抱いた。

 綾華さんの細い体がしなやかに俺の体に密着する。

「こんな風に抱き合ってみたいって、あたしがどれだけ願ってたか、わかる?」

 柔らかすぎる胸が、ぐっと押し付けられている。片手が俺の後頭部の辺りをまさぐるようにしている。もう片方の手は俺の背中をつかんでいる。

「あきちゃんの鈍感さは酷だよ」

 そういうと、綾華さんはすっと頭を上げ、背を伸ばして、俺の首筋に噛み付くようにキスをした。

 全身に走る衝撃。

 髪の先まで電気が走ったような。

「……あたしがこんなに好きなのに、気付きもしないで由紀に走っちゃうしさ」

 切ない声で、綾華さんは愚痴った。耳元でささやくから、その息が俺の感覚を麻痺させていく。

「自覚も無いくせにどんどんいい男になっていくって、どんな詐欺だよ。ほんと、最低な男」

 俺を抱く腕に力が入る。結構強い力で抱きしめられて、俺は息が詰まった。

「悔しいから、せめて自覚は持ってよね。あんた、今、あたしも由紀もめろめろになるくらいのいい男なの。優しさがいい男の条件だと勘違いしてるその辺の童貞少年とはレベルが違うの」

 わずかに毒を吐きつつ、綾華さんは俺の首筋にもう一度キスをする。

「……今のあたしが、一番したいことってなんだか、わかる?」

 言葉と共に出てくる息のかけらが俺を熱くする。答える余裕なんかない。わずかに首を振る。綾華さんは俺の様子を伺いながら、ふふ、と笑った。

「あきちゃんを押し倒しちゃうこと。今すぐ。このまま脱がしちゃう。あたしも裸になって、二人で抱き合うの」

 綾華さんの腕から力が抜ける。

 その体が俺から離れた。

 体と体の距離は30センチくらい。

「しないけどね」

 そういって、くるりと背を向けた。

「そんなことしたら、あたし、自分が一生許せなくなる。自殺したって足りなくなる。後悔することがわかってて突っ走るほど、あたし、馬鹿にはなれないんだよね」

 綾華さんはそういうと、すっと離れていった。

 体温が、遠くなった。

 触れ合っていた心も、離れた気がした。

 とてつもない寂しさの発作に襲われて、追いかけそうになって、俺はとどまった。

 綾華さんの背中が、俺に何かを求めていた。

 それがわかってしまった。

 綾華さんは、半分は俺に抱きしめられたがっている。半分は、俺に拒絶されたがっている。

 気持ちを伝えた後、どろどろに溶け合いたい気持ちと、それを拒絶する気持ちとが、綾華さんの中でせめぎあっている。

 それを、綾華さんは俺にジャッジさせようとしていた。

 細い肩だ、と思った。背中から腰にかけての曲線の頼りなさはどうだろうか。守ってあげなきゃいけないと本能が叫ぶ。守らせて欲しいと欲求が頭をもたげる。

 蛍光灯の明かりの中にたたずんでいる綾華さんのシルエットがたまらなくいとおしい。




「……帰ろう」

 俺の声が生徒会室に響いた。

 他人がいっているようだった。

「途中まで送るよ。酷かもしれないけれど」

 びくっと身を縮ませた綾華さんに、俺は声をかけていた。

「気持ち、もらった。俺がどれだけその気持ちに震えたか、伝わったよね」

 わずかにうなずいたように見えた。

「綾華さんほどいい女、俺は知らない。あんな気持ちもらっちゃったら、こっちこそ押し倒したいよ。抱き合いたいよ」

 俺は机の上の荷物を手に取った。

「でも、綾華さんがあんなに自分を裸にしたんだから、俺も自分を裸にする」

 綾華さんの荷物も持つ。

「欲求だけでいったらとっくに綾華さんを押し倒してるけど、でも、今の俺、由紀のものなんだ。理屈でも強がりでもないよ」

 そのまま綾華さんの横を抜け、前に回る。

「由紀を裏切ったら、俺も自分を一生許さない。自殺したって足りなくなる。後悔するのがわかってても突っ走る馬鹿だけれど、今の俺が突っ走る方向は、綾華さんの方向じゃない」

 綾華さんが顔を伏せている。目は見えないけれど、涙の雫が落ちていくのは見えた。

「綾華さんの強さも弱さも好き。多分、順番が違ってれば、俺の幸せは綾華さんの中にあったんだろうと思う。でも、そうじゃない順番で巡り合っちゃったんだ」

 俺は両手に荷物を持ったまま、綾華さんに語りかけた。

「俺は由紀しか見ない。ごめん。二人一緒は無理だ」

「……当たり前だろ」

 綾華さんが声絞り出し、そして。




 俺の脚を思い切りよく蹴飛ばした。

「あいでっ」

 蹴飛ばすというより、蹴った足を振り抜く、見事なトウキックだった。サッカーボールなら回転もせずにキーパー手前で沈み込むスーパーキックだろう。

「由紀を不幸にするとか、んな選択したらその場で刺し殺してやる」

「いだいいだいっっ」

 これが本気で痛かった。蹴られた左足が飛び、俺は両手の荷物を落とさなかったのが奇跡と思えるほどにバランスを崩した。そしてそのまま右足だけで一歩飛びのき、崩れ落ちる。

「あんたのこと大好きだけど、それと由紀の話とは別問題だわ。由紀泣かせたら本気で殺しに行くからね」

「充分殺されかかっとるわ!」

 あまりの痛みに涙ぐみながら、俺は叫んだ。女子のキックでも、あれだけ豪快に振りぬかれたら、タイミング次第では骨まで逝ってしまうだろう。

 俺があまりにじたばたと身悶えているので、ようやく綾華さんは自分の攻撃がどれだけクリティカルヒットだったか理解し始めたらしい。

 目尻の涙を指ではじきながら、ちょっと心配そうな顔をした。

「大丈夫?」

「っ……!」

 返事もできない。息が詰まるほど痛かった。

 それがなぜか綾華さんの琴線に触れたようで。

 さっきまでの異常な雰囲気を自分の笑い声で吹き飛ばそうとするかのように、綾華さんは盛大に噴き出した。

「あっははは」

 笑い事じゃない、とはいわなかった。

 あの泣き笑いの顔を見ていたら、いえるはずがないじゃないか。

 脂汗を流しながら、俺は立ち上がった。宣言どおり、俺は途中までは綾華さんを送っていかなければならない。

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