第13話 地球の未来は大丈夫なの!?

 今週は激動の一週間だった、と自分でも思う。

 日曜日の綾華さんとのデート、由紀への告白から始まって、色々と出来事が集中して起きてくれた。

 おかげで気が休まることがなかった気がする。

 前の土曜日は雨の中での重労働、翌日の日曜は早朝から深夜まで動き回っていたし、月曜日は文化祭実行委員の仕事、火曜日には頭に怪我をした挙句につまらない脅迫騒ぎに巻き込まれた。水曜日は脅迫してきたはずの相手の愚痴を延々と聞かされるばかばかしい日を過ごし、木曜日は文化祭実行委員の方で恐ろしい量の仕事をこなした。

 連日のことで、さすがに疲れていたらしい。

 金曜日の朝、俺はひどい頭痛に襲われ、ベッドから起き出すのがつらくて仕方がなかった。

「どうした、ひどい顔だな」

 と親父がいうから、

「あんたの息子だしな」

 と答えてやったけれど、反論を食らう前に体温計を押し付けられてしまった。しかたなく測ってみれば、38度8分。

「残念、今日は外出禁止」

 おかんから無情の宣告。

 どうしても学校に行きたい、とごねるほど学校大好きっ子じゃないので、大人しく寝ていることにした。

 その前に、一応メールを打っておく。相手はまず由紀。それから友人何人かに同送信で熱で学校を休むとメールした。

 返信は由紀が一番早かった。

『発熱ですか!? 頭の怪我のこともあるから心配です。早く病院に行って、きちんと治して下さい』

 相変わらず絵文字もないメールで、簡潔。

 昨日は由紀も相当きつかったはずで、体は大丈夫かとメールを打ち返したら、またすぐに返ってきた。

『私は全然大丈夫です。晃彦くんは自分の体調のことだけを考えて下さい』

 また簡潔なメールだった。

 あいつらしいな、と思うと、女子高生のメールとは思えない文面も、妙に可愛く思える。恋愛で馬鹿になっているからなのか、熱に浮かされているのか、微妙なところだ。

 その後、迷った末、綾華さんにもメールした。

 実をいうと、出す気はなかった。

 一言でいってしまえば、綾華さんと関わるのが面倒くさくなっていた。

 綾華さんのことは嫌いじゃないし、一緒にいたら楽しい人だけれど、彼氏のことといい、いきなり別れると爆弾を投げつけておいて放置状態のことといい、今は関わるのが正直面倒くさいという感情の方が先に立つ。

 それでも、今日も文化祭実行委員の仕事があるし、多分俺がいないとあの仕事は回らない。今日はいっそ仕事は完全に休みにしてしまう方がいい気がしていた。

 今日は熱で休むこと、仕事は今日は休みにすること、月曜日に行う予定の仕事のことを簡単にまとめてメールする。

 もっとも、熱のおかげで頭がうまく動かず、大した内容でもないメールを打つのに時間がかかってしまい、送信する頃には始業時間になってしまっていた。

 意外にもまったく遅刻というものをしない綾華さんは、とっくに教室にいて、授業を受け始めているだろう。

 返信はあまり期待していなかったし、むしろ来ないほうがいいな、という気分がある。体調に引きずられてそんな気分になっていたこともあるけれど、やっぱり俺には綾華さんのことで振り回されるのは負担が大きすぎた。

 由紀とせっかく恋人同士になれた今、学園の憧れを一身に集めてしまうような格上の女性に、それを取り巻く人々まで相手に回して日々を過ごすのは、そういうことに情熱を感じてしまうようなタイプの人間でもない限り、きついものがある。

 華麗な人間関係の中に身をおくのは、俺には無理。

 そういうのが好きな人もいるし、綾華さんに振り回されるなら自分が代わるといいだしそうな奴もすぐに何人か顔が浮かぶ。でも俺はそういう人種じゃない。

 そして、すぐに眠ってしまった俺が、昼前に一度目を覚ました時、携帯には友人からのメールが何件か入っていたものの、綾華さんからは何の連絡もなかった。

 そんなもんかと、妙に安心したような、それはそれでさびしいような、変な気分になったりした。



 昼休みの時間帯、由紀から電話がかかってきて、怒られた。

『病院行ってないんですか?』

「疲れが出ただけだろうし、今日は様子見でいいかなって」

『ダメですよ、なんでそんなにのんきなんですか』

 由紀が大げさすぎるんだよ、と思ったけれど、いえばすごい反論が来るだろうと思うからいわないでいた。

『今からでも開いてる病院はありますから、必ず行ってくださいね』

 由紀があんまりにも勢い良く怒るから、ついその気になった。

 うちは共働きだから家には誰もいない。財布と保険証に携帯、鍵をシザーズバッグに入れて、家を出た。その時点で体温は朝より上がって39度ジャスト。病院に付く頃にはもっと上がっているんだろうな、と思った。

 自転車をだらだらとこいで10分ほどの所にある内科医院で診察を受けた。じいさんばあさんばかりかと思ったら、意外にそんなこともなかった。じいさんばあさんは朝が早いから、昼までには診察を終えているもんだよ、とは、帰宅後にその話を聞いて答えた親父の弁。

 診察結果は、親の見立てと変わらない。

「疲れで風邪を引いたんだろう。薬で無理に熱を下げずに、消化のいいものを良く食べて大人しく寝ていなさい。すぐ良くなる」

 ウイルス性の風邪の可能性もあるからと検査は受けたけれど、結果的には陰性だったらしい。

 家に帰り着いたのが4時くらいで、まだ誰も帰宅していなかった。鍵を開けて家に入り、食欲もわかないままにゼリー型の機能食を流し込み、スポーツドリンクをがぶ飲みしてから、着替えてベッドに入った。

 寒気がひどかった。頭痛の方は薬のおかげで大したことはない。鼻づまりもひどかったけれど、不思議とのどはなんともなかった。

 なんとなく人恋しくなり、携帯をいじったりもしたけれど、人恋しい割りに何もかもがうっとうしく感じるという、ひどく矛盾した気分になってもいた。

 たとえば由紀に電話をしたとして、たぶん由紀は喜んで俺の電話に応じてくれるんだろうとけれど、その声は聞いていたくても、意味のある会話をしたり返事を返したりするのが、どうも面倒に思える。

 ひどいわがままだとは思うけれど、病気のときってのは、ひどく淋しがるか、わがままになるかするものらしい。

 この時の俺は人恋しさより面倒くささが勝った。

 結局電話もしなければ、他の人から来たメールにも一切返信せず、寝てしまうことにした。

 そう、風邪のときなんぞは、寝て治すに限るのだ。



 次に起きたのは、夜の8時ごろだった。

「晩御飯食べられそう?」

 妹が呼びに来た。

「……食欲はないな」

「だよね。でも薬飲めないから、何か食べないと」

 特に仲が悪いわけじゃないから、病気の時くらいはお互いに優しくなる。普段はさほど仲がいいようには見えないらしいけれど。

「これ買っといたから飲みなよ。水分も取らなきゃダメだよ」

 そういって妹が出したのは、病院帰りにも飲んだゼリー型の機能食。気が合うというより、今時は定番なんだろう。

 ただし、メーカー違い。俺が買ったのは某薬品メーカー系列のもの、妹が買ってきてくれたのはスーパーのプライベートブランド品。価格がだいぶ安い。

「ありがと」

 これは気持ちがどうとかの問題じゃなく、妹の方が賢いんだろう。好意はありがたいので、素直に受け取ることにした。

「携帯鳴ってたけど、今日は電源切った方が良くない?」

 妹の言葉に携帯を見ると、ちかちか光っている。バイヴにしているから、寝ている間は気付かなかったらしい。

「そうするわ」

「体拭いたら? シャワー浴びるだけでもきついでしょ」

「そうだな……」

 妹は着替えまで用意してくれていた。おかんの指図だろうけれど、これも素直にありがたかった。だいぶ汗をかいていた。

 正直にいえば、怪我をしている頭の方が、最近まともに洗っていないから気持ち悪くて仕方ないのだが、この熱では洗いきる自信がない。シャワーは明日以降まで我慢した方が良さそうだった。

「体拭くなら、準備くらいしてるよ」

「そうしてもらえると助かるよ」

「私は拭いてあげないけど」

「そこまで頼まんよ、夫婦じゃあるまいし」

「そうね、拭いてくれるっぽい人もいるんだし」

 妹は立ち上がりながら爆弾発言をしてくれた。

 俺はまだ彼女ができたなんてことは、こいつには一言もいってないんだが。

「拭いてくれるって、ここにいない奴にどうやって拭かせるんだって」

 由紀がここにいるはずもない。なにせ、門限を過ぎているから。

 ところが、妹はまったく別の文脈で喋っていたらしく、怪訝そうな顔をした。

「いるからいってるんじゃない」

「へ?」

「誰の話してるの? まさかおにい、他にもそんな女がいるの?」

「ちょっと待て、どういう意味だそれ」

「どういうって……あ、来たっぽい」

 妹は立ち上がる。

 部屋の外から、階段を上がってくる足音がする。それは聞き慣れた家族の足音ではなく、静かで、どこか慎重で、明らかに遠慮している足音だった。

「おにい起きてますよ。遠慮なく拭いちゃってください」

「え、あたしが拭くの?」

 やけに聞き覚えのある声がして、俺は発熱以外の原因でくらくらしてきた。

「触れるのもいやならその辺に置いて戻ってきていただければ」

 妹が部屋の外に出て行く。

「嫌ってことはないけど。あなた、面白い子ね」

「ありがとうございます。馬鹿な兄を持つと色々と学ぶことが多いんです」

「ちょっと待て、色々とちょっと待て」

 思わず俺が口を出すのと、妹以外の声の主が顔を出すのが同時だった。

「あら、元気そうね」

 そこにいたのは、ありえないことに、この所の騒動の最大の原因、綾華さんだった。

 底が深い洗面器を持ち、私服で俺の部屋に入ってくる綾華さんの姿に、俺は今日最大級のめまいを感じていた。

「……元気そうに見えますか、そうですか」

「思ってたよりはってことよ。そう嫌な顔しないの」

「突然来ますか、それにしても」

「突然じゃないよー。電話したしメールも入れたよ? あきちゃんが見てないだけじゃん」 

 携帯をチラッと見たけれど、手に取るのはやめた。たぶんウソはいってない。確かに4時以降は携帯を見ていない。

「なんか色々と迷惑かけちゃったからね。せめて見舞いくらいはしようかなって。あたしって健気じゃない?」

「本物の健気は自分からいいませんて」

「ほら、文句いってないで脱ぎなよ。拭いてあげるから」

 綾華さんは黒いカットソーの上に紫の薄手のカーディガンを着て、下はスキニーのデニムパンツ。気取らない感じが近所のお姉さん然としていて、嫌味がない。

「自分で拭きますって」

 思わずかっとなって、邪険な言い方をしたけれど、少なくとも顔の赤さはばれないだろう。なにしろ熱のおかげでもともと赤いはずだから。

「遠慮しなくてもいいんだからね? 妹さん公認なわけだし」

「あれはたぶん勘違い街道爆走中なだけっす」

「あたし、彼女さんって思われちゃったかなー」

 綾華さんがベッドの下にちょこんと座りながら、手を胸の前で組む。わざとらしくかわいらしいポーズをとったつもりらしいが……むかつくほどかわいい。

「俺を訪ねて女が来るなんてこと自体初めてですからね、たぶんおかんも含めて耳ダンボで様子伺ってるでしょうよ」

「あらあら、大変ね」

 綾華さんはにっこりと笑いながらいった。

 とてもじゃないが目なんか合わせられないから、俺は無言でゼリーを手に取り、口をぶちぶちと回した。

 やっぱりこの人はきれい過ぎる。鼻が全然利かないからわからないけれど、多分すごくい香りなんかさせちゃってるに違いない。

 と考え、自分がどれだけ臭いかについての想像が働いてしまった。

 ただでさえ大汗をかいていることに加えて、火曜日の負傷以来まともに頭も洗っていない。

 ゼリーを口に含む前に、それどころではなくなってしまって、俺は綾華さんを見れないままに口を開いた。

「……早く帰ってくださいよ、こんな臭い部屋にいてもしょうがないでしょ」

 綾華さんはふっと笑った。

「別に臭くないよ。大体あたしが何かを我慢してまで他人の部屋にいると思う?」

 微妙な言い方だ。

 以前の俺ならそのセリフを聞いたら納得していただろう。我慢するくらいなら、顔だけ出してとっとと帰るタイプの人だろうって。

 でも、綾華さんはそういう風に見られがちなだけで、実のところは真面目で思いやりがある人だと知ってしまっているから、始末に終えない。俺を安心させるためにそういっているってわかるから、そうですね、とはもういえない。

「……何しに来たんですか」

「何って、お見舞いに」

「それだけでわざわざ俺の家の住所まで調べてきたんですか」

 住所まで教えた記憶はない。来たということは、調べたんだろう。

「そんなとげとげしい声出さないの。病人なんだから、余計なこと考えないで寝てなさい」

「誰が考えさせてるんですか」

 俺の声は自分でもわかるくらいにいらいらしていた。

「いきなり別れ話を人の前で切り出しておいて、その後は何の話もなしで、こっちがどれだけ振り回されてると思ってるんですか」

「それは……悪かったと思ってる」

「そりゃ広瀬さんが俺のところに来たのは綾華さんのせいじゃないかもしれませんけれど、綾華さんと知り合わなければこんな騒ぎに巻き込まれることはなかった」

 俺は知らず知らずにいいすぎていた。そして、そのことにすら気付いていなかった。

 反応が返ってこないから、ちらっと綾華さんの顔を見た。

 ひどく傷ついた顔をして、俺の手元をじっと見ていた。

 待て。俺は今、何をいった?

「……知り合ったのが間違いだったか。そこまでいわれちゃうんだ、あたし」

 あ、と思ったが、とっさにフォローするセリフが思い浮かばない。いつもならコンマ5秒で出てくるはずの次の言葉が出てこない。

「嫌われたね。まあ、しょうがないか。自業自得だしね」

「いや、そうじゃなくて」

「いっぱい迷惑かけちゃったね。ほんと、ごめん。もう一切関わらないようにするから、ここまでのことは謝っておく」

「そうじゃないんです」

「文化祭実行委員も、あきちゃんがいれば動くんだし、あたしが関わらなくても大丈夫でしょ。代わりの人手は手配しておくから」

「綾華さん」

「そういうことでしょ? 知り合ったのが間違いなんでしょ? あたしってあきちゃんにとって間違いなんでしょ?」

 綾華さんが、どろどろの感情むき出しの目で俺を睨みつけてきた。言葉で畳み掛けられ、目線で縛られ、俺は口ひとつ動かせなくなってしまった。

 しばらく、俺と綾華さんは睨み合いになった。というか、俺は蛇の前の蛙で、一方的に睨まれてすくんでいたという方が正しい気がする。

「……どうしたのよ」

 綾華さんの絞り出すような声が静寂を破る。

「いつもの華麗な言い訳はどうしたのよ。ごまかしてみなさいよ。かわしてみせなさいよ。それができないほど迷惑だった? 本音の本音で迷惑だった?」

 目が赤い。泣く寸前という状態で、綾華さんは踏みとどまっていた。それはプライドか、配慮か。ここでこれをいってしまうのは、すがっているのか、最後のチャンスを与えたつもりなのか。

 俺はそこで綾華さんがさらに畳み掛けてくれたおかげで、呪縛が解けた。

「迷惑なわけないでしょう。間違いでもありませんよ。愚痴っただけでしょうが。病人の愚痴なんか聞き流してくださいよ」

 すかさず病気のせいにする。

「振り回されたことは怒ってます。でもそんなのは友達付き合いしてれば当たり前のお互い様ですし、気にしてませんよ。ただ、こっちは熱はあるわ頭は痛いわで余裕がないんです。多少口調はきつくなっちゃったかもしれないです。それは悪いと思ってます」

 今度はこちらが畳み掛ける番だ。

 冷静な俺ならここまでにしておいたはずだけれど、今日の俺は普通じゃない。熱に浮かされたまま、歯止めも利かず、いいたいことをいってしまえ、と半ばやけになっていた。

「でもね、いきなり別れ話を聞かされる身にもなってくださいよ。しかも俺に思いっきり関係あるきっかけで。そんなん、俺に責任があるみたいに感じたって無理はないでしょう。どれだけ負担になったと思ってるんですか」

 俺がこんなにむきになって物をいうのは、少なくとも綾華さんに対しては初めてなはず。綾華さんから視線を切っていたから表情はわからないけれど、目の端に捉えた綾華さんは、床の上の小さな座布団にぺたんと座ったまま、背をピンと伸ばしてじっと動かずにいる。

「確かに、広瀬さんじゃあ綾華さんの彼氏にはきついなあって思いましたよ。その辺の女子高生つかまえとくには充分でも、綾華さんの相手が務まるほどの男じゃない」

 俺の声はだんだんトーンが落ちた。でかい声を出さなくても、綾華さんが聞いてくれていることがわかったから。声の調子を強くするのは、今日の俺にはやたら負担になる。

「なんであんなのと付き合ってんですか、綾華さんともあろう女が」

 広瀬さんには絶対聞かせられない会話だ。

 てか、高校生1年生の分際でどれだけ生意気なことを。

 綾華さんはゆっくりと息をひとつついてから答えた。

「彼だけが大人への扉を開いてくれたからよ」

 声が湿り気を帯びているのは、さっき涙をこらえていた残滓だろうか。

「セックスの話じゃないわよ? 抱かれたから大人とか、処女なら子供とか、そういう意味じゃなくて」

 ドキッとした。そういうことを平気で口に出してくるのは、綾華さんの癖なんだろうか。それとも、女ってのは、相手に男を感じたりしてなければその程度は平気でいえてしまう生物なんだろうか。

「あたしの家って旧家でさ。噂くらいは聞いてるでしょ?」

 知っている。それこそ、地元では有名な家だ。広瀬家も有名だが、綾華さんの家、永野家に比べれば、ぽっと出の成り上がり。

「室町時代から続く旧家ですよね」

 室町時代の中期、この辺りを治めていた地頭一族が、幕府への謀反を理由に攻め滅ぼされる事件があった。後の歴史から見ればごくごく小さな事件で、教科書にも載っていないような事件。

 実態は、室町幕府に謀反を理由に地方の地頭をいちいち攻め滅ぼすほどの力は無かったから、有力守護大名同士の勢力争いに巻き込まれただけというのが正解らしい。

 その後、しばらく騒乱の元になっていたこの土地に、様々な政争の結果として、新たに地頭に立ったのが永野家だった。

 その来歴はよくわかっていないけれど、どうもこの辺りの出ではなく、京都近辺から流れてきた流浪の公家侍だったらしい。

 それから応仁の乱を経て時代は戦国に。有力戦国大名の旗の下に屈しつつ、永野家は巧妙に時代をすごしていった。でしゃばらず、しかし勇気を持って。

 やがて戦国時代が終焉し、安土桃山時代のひと時の平穏が訪れると、永野家は小田原北条氏の一配下としてその名簿に名を連ねるようになっていた。城持ちではないけれど、それに準ずる階級として、お目見えの資格は得ていたようだ。小田原北条氏支配下の領域で、ひとまずは貴族の地位を得ていたといっていい。

 その後の豊臣秀吉による小田原攻めでは最後まで小田原城にこもっていたらしい。

 本来落魄し歴史から消えそうなものだけれど、そこは地生えの地頭出身ということで、みずから武士たることを辞め、庄屋や名主といわれる階級に身を落とし、家を守り抜くことを決意したようだ。

 徳川家康の江戸入府の際には、この辺り一帯の惣庄屋として名が残っているから、室町以来の地頭としてかなり地元に貢献していたんだろう。でなければ、いきなり「地頭は辞めた、庄屋になるから従え」といい出した所で、地元の百姓や地侍たちが従うはずがない。

 以降、江戸幕府の瓦解まで、永野家はこの辺りで一番大きな庄屋として、家を保ってきた。

 維新以降の荒波にもまれ、家はその財産のほとんどを失った。特に第二次世界大戦後の農地解放で、永野家はほぼすべての土地を失った。

 それでも、衆院議員を出したり、県会議員を出し続けたり、土地の名士としての永野家の盛名はまだ衰えたわけじゃない。

 土地を失ったとはいえ、それは農地の話。街場に持っていた多くの土地建物は永野家のものとしてあり続け、今も永野家最大の事業は不動産管理業だったりする。

「べつに家の伝統に従えとか、躾が厳しくてぐれるとか、そういうべたな話があるわけじゃないの。実際、父なんか、今は偉そうな顔して県会議員なんかやってるけど、昔は役者になるとかいってぶらぶらしてるだけのどら息子だったって、祖母が笑っているわ」

 綾華さんはぺたんと座ったまま、視線を落として喋っている。表情はわからない。

「でもね、やっぱり人の目が厳しいってのはあるんだよ。どうしてもさ」

 まあ、家が家だから注目はされるだろう。

「親戚はやたら多いし、私なんて永野家の本家の長女に生まれちゃってるからさ、色々あるのよ、ややこしい話が。それこそね、ワイドショーネタになるくらいの話が」

「……あるでしょうね」

「笑っちゃうような話、いっぱいあるわよ。この子は父の子です、認知してくださいなんて女が駆け込んできたり」

「それ、笑い事なんですか」

「笑い事よ、結果的にはね。だってDNA検査で明らかに違う結果が出たし」

「はあ」

「つまり、そういうあほな騒ぎが、ドラマの中じゃなく現実に起きちゃうような家なわけ」

 そういう話とは縁が無い下々に生まれた身としては、ちょっと現実感がない話ではある。

「男女同権とかいう時代になったからさ、昔ならあたしなんか政略結婚の武器になる程度のことで、せいぜい嫁入り修行に身を入れてれば何したって許されるご身分だったんだろうけど、そうもいかなくて」

「跡取り、ですか」

「そう。うち、下に妹はいるけど、男の子がいないのよ。父も一人息子だから、父の跡を誰が継ぐかでもめる気配がね、既にあるわけ」

 綾華さんは顔を上げた。長く話しているうちに、涙は引っ込んだらしい。ちょっと皮肉っぽい笑顔を見せていた。

「祖父が死んだら、どうせ相続税でごっそり持ってかれて、父の次の代なんて財産なんかほとんど残ってないはずなんだけど、それでも気になるのね」

「欲しがる人が多いってことですか」

「んー、ちょっと違うかな。欲しいってより、誰かが余計に財産を相続するのが許せないというか。自分の権利が少ないのは我慢できても、誰かが自分より大きく遺産相続しちゃうのが許せないのね」

「ははあ」

 いやな話だ。なんつーみみっちい話だ。自分が努力したわけでもない、人の死によって与えられる財産の分配で、自分の実入りどころか、他人の懐について嫉妬してくるとは。

「そういう人からしたらね、あたしなんて、どう育つかによって自分たちの将来が決まる、危険極まりない物体よ」

「物体ですか」

「人間扱いしてない節がちょくちょく見えたわね。特に小学生の頃なんかは」

 早く婿を取って男の子さえ産ませれば、あの子の役目は終わる。

 そういう空気を感じるようになったのが小学校低学年の頃だというから、酷な話だ。

「生殖器としての役割しか、期待されてないんだなってのが、初潮前にわかっちゃうってのもなかなか乙なものよ」

 面白そうにいっているけれど、当時の綾華少女にとっては大事件だったに違いない。性そのものが汚らわしいもの、恐ろしいものとしか思えないような年代に、自分自身がそれしか期待されていない存在だったとしたら。

「男女平等なんて口ではいっておきながら、女の方がね、婿とって男産めばお前なんか用無しだ、みたいなこと平気でいってたよ」

 本当だとしたら、それをいった女の性根の醜悪さは、聞いているだけで胸が悪くなってくるレベルだ。

「そういう中で育てられるとね、外に出られなくなるのよ。実際の話じゃなく、精神的にね」

 綾華さんの口調は淡々としていて、昔のことはもう自分の中で割り切れているらしいことは伝わってくる。

「両親にも祖父母にも、色々なところに連れて行ってもらったけれどね、家に帰ればわけわからん親戚連中やらなんやらがうようよしてるわけよ。そういう連中はあたしに変な虫が付かないようにって、近所中の男の子の家に行っては脅すわけ。お前の家の子が綾華に手なんか出してみろ、この土地じゃ生きられんようにしてやるぞって」

「小学生相手に?」

「小学生とその親相手に。そりゃあ浮くわよね、学校で」

「浮くでしょうね、盛大に」

 なるほど、綾華さんが常に孤高の雰囲気を保っているのは、本人の努力というより、周囲が孤高に仕立て上げてしまっていたんだ。今時そんな理屈が世間で通るはずも無いけれど、そんな連中が周りにいる子に、我が子を近付かせる親なんかいるわけがない。

「そこに現れたのが広瀬なわけね」

 その単語が出てきて、俺は自分たちが何の話をしていたか思い出した。別に永野家の旧家談を聞いていたわけではなく、綾華さんが広瀬さんと付き合っていた理由について聞いていた。

「10歳違うと、そもそも外の世界との付き合い方が、小学生なんかとは比べ物にならないのね。それがまず新鮮だった。それから、あれは広瀬の甲板背負ってきていたから、いってみれば婿候補の一人として見られててさ。他の男たちほど牽制されてなかったの」

「自由に会えた?」

「自由ってほどじゃないけど、家庭教師役も引き受けていたから、一番接点が多かったわね」

「それが恋に、というわけですか」

「というわけですよ」

 綾華さんは苦笑している。

「ありがちでもね、大切だったのよ。彼の目を通して、あたしは初めて世間を見れた気がしたの。彼にすがって、初めてあたしは自由に外の空気を吸えた気がしたのね」

 それが、綾華さんの「彼だけが大人への扉を開いてくれた」という言葉につながるのだろう。

「それで、外の世界イコール彼になって。外の世界の魅力は彼の魅力に感じられたのよ」

 なるほど。そりゃ、魅力たっぷりに思えただろう。

「でも、あれも結局坊ちゃん育ちなのよ。苦労知らずで、世間の常識って物を知らない。中学生になったばかりの女の子をよ、普通日付が変わるまで連れまわして遊ぶ? しかも行き先が都内のクラブだったりするのよ?」

「それは……まあ、しないでしょうね」

「それを悪気なくしちゃうのよ、あの坊ちゃんは。うちの家族も怒ればいいのに、現代的な家族像とやらに逆らいたくないとかわけわかんない理由で放置よ」

「なんですか、それ」

「うちの馬鹿親父が、友達みたいな関係が理想だとか馬鹿なこといって放任したの。育児放棄(ネグレクト)だろっての」

 綾華さんの話は完全に家族を突き放していて、言葉も平気で難しい言葉が出てくる。綾華さんなりに、自分というものを作り上げるために、読書したり考えたり、いろいろ努力してきたのかもしれない。

「母親は一族の嫁へのプレッシャーに負けて精神病一歩手前の有様だし、自分のせいでそうなってるってことに気付かない馬鹿な親父には、それを忠告してやれる人間もいないと来てるし」

 綾華さんがぎゅっと手を握っている。口元の表情も恐ろしく固い。

 しばらく、そこで言葉が途切れた。

 ふ、と綾華さんは息を吐いた。

「高校に入ってしばらくしたら、なんかもう、馬鹿馬鹿しくなっちゃって。あんな男がフィアンセみたいな顔であたしのこと抱いたり、あたしがどんなに叫んでも気付こうともしない親がいたり、いい加減馬鹿馬鹿しくてさ」

「ぐれましたか」

「ぐれましたよ。盛大にね」

 どれだけ盛大にぐれたかは、去年のこの学校のことを知らないはずの俺たちでも、噂で聞いている。成績はいいのに、そして今では遅刻はしないわ生徒会活動に真面目に取り組むわで、文句の付け所がない優等生の癖に、綾華さんは今でも素行不良の生徒の代表格のように扱われている。

「ぐれても誰も助けてくれないことなんかわかってたし、それまでの自分が馬鹿にしてた底辺の不良たちと同レベルになるなんて、あたし自身が耐えられなかったから、ほどほどにしたけど」

「ほどほどにしてあのレベルですか」

「ほどほどにしてなければ、今頃は高校生じゃなくなって、子供のひとりも生んでるんじゃない?」

 大したことじゃないように、さらっと綾華さんは答えた。風邪で伏せっている身……伏せっているはずの身としては刺激が強い。

「友達にも恵まれたしね。あきちゃんも知ってるあの子達、面白いでしょ」

「ああ、ええ、まあ」

 言葉は濁したけれど、まあ、下級生をからかっていただけで、特に悪気は感じなかったし、引き際も良かった。

「あたしのうちのアホさとかわかってくれた上で、あたしの捻じ曲がった性格も受け入れてくれたし」

 綾華さんの目が少し柔らかくなった。この人が、あの人たちにどれだけ心を許しているか、多少わかる気がした。

「そこに現れたのが」

 と、綾華さんは両肘を上げ、俺のベッドの上に乗せてきた。枕に背を預けて聞いていた俺のひざの辺りに、綾華さんの顔が来る。

 俺が不意の動きに緊張していると、綾華さんは両手で頬杖をついて、横目でちらりと俺を見た。

「あきちゃんだったのよ」

「は、はあ」

「最近の話だけどね、結構あたしには大きな事件だったのよ」

「えー、何かしでかしましたでしょうか」

「しでかしてないよ、そういうんじゃなくて」

 綾華さんは笑って、頬杖を一度外し、右手だけの頬杖になって前を見た。俺から見ると、ひざの右辺りで頬杖を突いている綾華さんが、俺の左側の壁をじっと見つめている。

「あたしに色恋抜きで接してくる男がいるってことが新鮮だったのがひとつ。そりゃそうよね、仕事でいきなり割り振られただけなんだし。でもね、偶然会っただけであたしに色目向けてきたり、いきなりキスしようとしたりする奴ばっかだったから、そうじゃないあきちゃんが新鮮だったのね」

「は、はあ」

 話の次元が違いすぎる気がした。いきなりキスとかありえないでしょ。てか、この人相手に恋愛しようとか、無理でしょ、普通。

「それとね、本当に育ちがいいっていうのは、こういうことをいうのかなって思ったんだ」

「育ちはさほど良くは無いんじゃ……」

「経済力とかじゃないよ? ちゃんと教育を受けて、いいことはいい、悪いことは悪いってちゃんと教わってきてるんだろうなって」

「はあ……」

 その辺りはどうなんだろうか。まあ、人様に迷惑はかけない程度の躾は受けたんだろうけれど。

「この前のデートだってそうだよ」

「はあ」

 もう、気の抜けた返事しかできない。自分のことが話題になると、俺はどうも弱い。

「あれだけ一緒にいて、あたしがあれだけ油断してたら、今までの男ならホテル誘われてるね。てか、連れ込まれるわ」

「そんな大それたこと、できるわけないでしょう」

「それを大それたことと考えない馬鹿ばっかだったのよ、あたしのまわりって。しかも」

 綾華さんはぺたんと腕を倒し、俺のひざに、布団越しに頭を乗せた。急に綾華さんの体温が伝わってきた気がして、俺は緊張する。

「あきちゃん、自分の家の門限の話したじゃない」

「しましたっけ」

「したの。それがすごい新鮮で」

 いわれてみればしたような。確か、午前様じゃなければ大丈夫でしょうというようなことをいわれて、その考え方おかしいから、とかなんとかいったような記憶がある。

「ああ、世間の家庭ってのはこうなんだ、親にちゃんと愛されてる子ってこういう反応なんだって思ったら、うれしくなっちゃってさ」

「うれしいって、なんでまた」

「そういうの、初めてだったから。どいつもこいつも、親に反抗してりゃ一人前みたいなことしかいわなかったのに」

「偏ってますね、それも……」

「こういう子と一緒にいたら、きっと幸せなんだろうな、とか思っちゃったのね」

 綾華さんが、俺のひざの上でわずかに笑った。

 いきなり、話題が核心に触れた気がした。

「それまではさ、そういう真面目な子とか普通の子とか、全然興味なかったし、親に愛されてきたような奴とは一緒にいられないとまで思ってたのにね」

 熱を出して寝ていたはずの俺だけれど、それどころじゃなくなってきた。全身が熱いのは、風邪のせいだけじゃない。

「それがあの時、すごいショック受けたの。あれ、あきちゃんってあたしが今まで勝手に毛嫌いしてきた人種なのに、めちゃくちゃ居心地良くない? ってさ」

 何もいえずに身を固くして聞いていると、綾華さんが「リラックスして聞きなさいよ」とでもいうかのように、俺の脚を布団の上から軽く叩いた。ひざ上20センチの部位は、叩かれるとなかなかきわどい。

「それに気付いちゃったから大変よ。だって、由紀があきちゃん狙いなのは見ててすぐわかったし、ああいう打算なしで突っ走っちゃうタイプ、あたしも嫌いじゃないから、応援したくなっちゃったし」

 叩いた手をそのまま滑らせ、綾華さんは布団の上に置いていた俺の手をとった。汗ばんでいる手を取られるのにはかなり抵抗があったけれど、逆らえない。

「でもこんなにそばにいて居心地がいい男なんか初めてだったから……」

 指を絡ませ、手を起こし、俺の右手と綾華さんの左手が、手のひらを合わせて指を絡ませる「恋人つなぎ」になっていた。熱っぽい俺の手には、綾華さんの手の冷たさが気持いい。

「由紀のものになっちゃったのは仕方ないから諦める。それは安心していいよ」

 このセリフのときだけ、綾華さんは俺の目を見た。そしてすぐに視線はつないだ手に向かう。

「でも、こんなに一緒にいて気分がいい男がいるって知っちゃったら、そうじゃない男となんか、もう付き合えないの」

 綾華さんの指に力が入る。ぎゅっと握った手から伝わる体温は、俺にも握り返せといっているようだった。

「だから広瀬と別れる気になったの。本当は好きになったことなんかなかった人だけど、今まで離れる決心がつかなかった」

 俺が握り返すと、綾華さんは一瞬目を閉じた。ほのかに、綾華さんの頬に朱がさしたように見えたのは、たぶん熱に浮かされた俺の幻覚だったに違いない。そういうことにしておく。

「……それももう終わり。今さらあの人とは一緒に歩けない。昨日、その話はしてきた」

 ふっと笑う。

「別れるってこと。今までありがとうってこと。その話をしてるときはなんとか納得したようなことはいってたけど、今日になったらメールは来るわ電話はかけてくるわで、あんまりにもうるさかったから携帯の電源切ってやったの」

 握った手をかすかに振るようにして、その感触を確かめているようだった。

「だからあきちゃんのお休みメールにも気付かなかった。返すの遅くなっちゃったからすれ違っちゃったね。ごめん」

「それは別に……気にしてませんし」

「まだしばらくごたごたするんだろうなって思うけど。でも、もう馬鹿なことはできないかな。『普通』でいることの心地よさを知っちゃったし、あきちゃんや由紀ともっと一緒にいたいし」

 そこまでいうと、綾華さんは頭を起こした。手は握ったまま。

「ずいぶん長く喋っちゃったね」

 といわれ、時計を見ると、もう10時半になっている。

「あきちゃんち的にこの時間帯は大丈夫な時間帯?」

「どちらかといえば、まあ、完全アウトの時間帯ですね」

「あら、失礼。それは一大事だわ」

 といいつつ、手は離さない人。

「でも、別に誰も来なかったわね」

「初めての事態に戸惑ってるんでしょう。俺のところに女が尋ねてくることも初めてなら、その相手がこんな超絶美人なんだから、そりゃ戸惑うでしょう」

「でも、何か間違いが起きてないかとか、気になるものじゃないの」

「これだけ話し込んでたら、逆に気を使って割り込んできませんよ、うちの家族は。壁薄いから、何かひたすら話してるなってことくらいは伝わりますし」

 といっている間に、綾華さんは身を乗り出してきた。つないでいた手ほどき、その手を両手で包み込んで、自分の頬に当てた。

「いいご家族ね。ほんとうに、君に会えてよかった。こんな家族もいるんだってこと、見せてもらえただけでも幸せ」

 綾華さんは俺の手を頬に当てたまま、しばらく目を閉じていた。

 そのうち、すっと手が離れた。

「病人にとんでもない長話させちゃったね。ごめん」

 そういって、座り直した。

「今日は帰る。来週からまたよろしくね」

 恐ろしく整った顔に浮かべた笑顔は非の打ち所がなかった。

 かえって痛々しい気がしたけれど、それは俺が絶対にいっちゃいけないセリフのような気がした。





 見事に熱は上がった。そりゃそうだ、病中の人間があんなに長話をして、しかもその内容が今まで経験したことがないほど緊張を強いるものだったんだから。

 土曜日はほとんど寝て過ごした。熱は最高で39度を超え、さすがに座薬で熱を抑えることになった。

「ばーか」

 と妹は同情のかけらもなく、両親も微妙な表情を崩さない。

 たぶん、かなりの勢いで聞きたかったに違いない。「昨日の美人はなんだったのか」、と。

 教えてやらないことは全然なかったんだけれど、熱を出して寝込んでいる最中に、自分からその話を触れる気にはならない。そして両親も寝込んでいる息子に聞く気にはなれなかったようで、汗だくになってふうふういっている長男に、触らぬ神にたたりなしの方針で接しているらしかった。

 だから、日曜日になって、熱はピークを超えたものの体調は全然戻っていない息子のもとを、別の女が尋ねてきたことで、両親の困惑はさらに大きくなったのだった。

「ごめんなさい、迷惑だとは思ったんですけど、来ちゃいました」

 由紀だ。

 あらかじめ俺には連絡があったけれど、親にまで詳しく伝える元気がなかったから、家族にとっては由紀の来訪は寝耳に水もいいところだった。友達が見舞いに来る、としか知らない。

「ちょっとおにい、どうなってんの? 地球の未来は大丈夫なの?」

 天変地異でも起きないか、と心配しているらしい。余計なお世話だ。

 何が家族を驚かせたかといって、綾華さんという超絶美形の次に、タイプはまるで違うにしても、明らかに俺の知り合いには不相応な美人が来てしまったことだろう。

 失礼な話だけれど、俺の家族は、そういう面での俺の力量をまったく評価していない。いや、自分でも評価したことがないんだから仕方ない話ではあるんだけれども。

 妹の案内で部屋に上がった由紀は、のっけから「どうなってんの?」だったから、かなりびびっている。

「私、来ても良かったんでしょうか」

「ほっとけ。日曜だからな、まだ寝てんだろ」

 寝言だから気にするな、という意味でいったんだけれど、通じたかどうか。

「たいそうなものを頂戴しまして」

 とおかんが部屋に上がってきたのはその直後で、由紀のために紅茶とケーキが出されている。ケーキなんてものを常備している家庭なはずがないから、これは今日の夫婦のおやつにと買っておいたものだろう。うちは両親とも甘い物好きだ。

「お気遣いなく」

 としきりに恐縮している由紀は、手土産に結構値が張るお菓子と果物を持ってきたらしい。

「病気の友達を見舞いに行くといったらいっぱい持たされて」

 おかんが下がってから、言い訳のように由紀がいう。

「病気の友達って女友達のつもりで聞いてるんだよね?」

 俺が聞くと、申し訳なさそうに由紀がうなずいた。

「彼がいますなんてなかなかいい出せなくて……」

 そりゃそうだろう。由紀と付き合う覚悟は決めたけれど、あの過保護見え見えの親御さんにどう向き合うか、風邪じゃなくても頭が痛い。

「体のほうはどうですか?」

「メールの通りだよ。熱は微熱まで下がってるけれど、かなりだるい。関節痛もまだ残ってるな。でも病院からウイルス感染は陰性だって連絡が来たから、まあ、明日は学校に出れるんじゃないかな」

「とてもそうは見えません……」

 由紀が伏目がちにいう。よほど憔悴して見えたらしい。

「無理はしちゃだめです」

「無理はしないよ。無理してまで学校行きたいってほど学校大好きっ子じゃないし」

 俺が答えると、由紀は何かいいたげにもぞもぞと組んだ手をひざの上で動かしている。

「なに?」

 水を向けてみると、由紀は耳まで赤くなりながらいった。

「私は晃彦くんに会えないのは淋しいです」

 何をいってやがる。俺はせっかく下がった熱がまた上がりそうになった。いや、絶対上がったね。

 俺ががっくりしたように見えたのか、由紀はあわてた。

「ウソです、晃彦くんが無理する方がずっとつらいです」

「いやいやいやいや」

 俺は首を振る。

「どうしてこのタイミングでそうも可愛いことをいえてしまうのかと……」

 その言葉で由紀がさらに赤くなる。

「なんかもう、由紀は殺し文句の宝庫だね。びっくりするよ」

「そ、そんなことないです……」

「今会ってるんだから淋しくないだろ、とかとっさにいえない俺もどうかと思うけど」

「いってくれてます、それ……」

「さらにいうと、今の発言で熱上がったから。どうしてくれるの」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「うっそー」

 やばい。めちゃくちゃ楽しい。

「でも、うれしいよ。由紀がお見舞いに来てくれるのは予想外だったから」

「やっぱり来ちゃいけせんでしたよね」

「マイナス思考禁止」

「う……はい」

「勝手な思い込みだけれどね、なんか休日は家族一緒じゃないといけない家族ルールがあったり、ご両親が知ってる子じゃないと遊びになんか出られない空気があったりとか」

「何で知ってるんですか? お話しましたっけ?」

 由紀が本気で驚いている。

 俺も驚いた。冗談で大げさにいったつもりだったんだけれど。

「晃彦くんって本当にエスパーみたいになんでもわかっちゃうんですね」

 由紀が目をきらきらさせて俺を見ている。

「いやあ、まあ、ねえ」

 褒められていい場面なのかどうか。お付き合いの先が思いやられる話ではある。

 その後少しの間話していたけれど、そのうち、由紀が決然と背を伸ばして宣告した。

「さあ、寝てくださいね」

「へ?」

「へ、じゃないです。寝るんです」

 勢いよく、俺の枕元に座り直した由紀は、枕をぽんぽんと叩いた。 

「風邪は寝て治すものです。私と話し込んでちゃダメです」

 珍しくきりっとした顔をしている。どうやら、これがやりたくてわざわざ俺の家まで来たらしい。

 病気の彼を寝かしつける彼女役。

 横でそんなに張り切られたら寝付けないと思うんだが、と思いつつ、まあ、そんな仕草も可愛いと思ってしまった俺はただの馬鹿だ。馬鹿はされるがままになってしまえ。

「はい、かしこまりました」

 しょぼんとした振りをして、俺はもぞもぞと布団に入り直した。由紀はその「しょぼん」が非常に気になったらしいけれど、それが俺のネタ振りなのかどうか判断に迷った挙句、当初の見込み通り進めていくことにしたらしい。

「苦しくなったらいって下さいね。まだしばらく、そばにいますから」

 といいながら、昨日の夜、あまりの気持ち悪さに無理を押して洗い、一応乾かしたけれど大爆発している俺の髪を優しくなでた。

 そうか、こいつ、これがしたかったんだな。薄目を開けて様子を見ると、由紀はこっちまで嬉しくなるくらい、油断しまくった顔で喜んでいた。



 それだけ調子が良くないということなのか、そのまますぐ寝入ってしまったらしい。

 綾華さんのあの長話の記憶が生々しいうちに由紀が来てくれて、いい気分転換になっていたのかもしれない。リラックスして眠れた気がした。

 目覚めも悪くなかった。熱が出て以来、ろくな寝起きじゃなかったのに、2時間ほどして起きたとき、ずいぶん気分が良かった。

 すぐに意識がはっきりして、体を起こすと、由紀が俺の机に向かっていた。

 俺が体を起こす気配に、由紀が振り返った。

「起きました?」

 窓からの日差しで一瞬メガネが光り、その奥の目が俺をまっすぐ見た。俺がいうとおりにしてすぐ眠ったからか、ずいぶんご機嫌らしい。

「うん、起きた」

「飲み物注ぎましょうね」

 すぐにいすから立ち上がり、スポーツドリンクをコップに注ぐ。

「汗拭きましょうか? 顔だけでも拭いておくと気分が晴れますよ」

「うん、拭く」

 いつの間にか洗面器に水を張って、新聞紙を敷いた床の上に置いていた。準備良くその横にはポットがあって、由紀はそこからお湯を注いでタオルを浸した。

 ゆるいお湯で絞ったタオルは気持ち良かった。由紀は自分が拭いてあげようと目論んでいたらしいけれど、そこまでしていいものかどうか一瞬悩んでいる隙にタオルを取り上げて、自分で拭いてしまった。

 恨めしそうな目で由紀が見ていたけれど、無視。そこまでされたら、さすがにきつい。

「なにしてたの」

 拭き終わったタオルを渡しながら訊くと、由紀は少しご立腹のようで、微妙に冷たい声で答えた。

「ノートをまとめていました。晃彦くんのクラスのノートを借りてきてるんです」

「そんなの自分でやるよ」

「文化祭の仕事もあるし、来週はやること多いですから。私でできることは肩代わりします。体調が戻るまで」

「いいよ、そこまでやってもらわなくても」

 といってから、俺は「やばいかな」と思った。「余計なことをしちゃいました、ごめんなさい」と来るか、と警戒してしまった。

 由紀の反応は違った。

「晃彦くんのまねをしてみたんです。先を読んで、勉強や仕事の段取りを付けたら、きっと少しでも楽になるんじゃないかなって」

 それで卑屈な感じで俺の様子を伺っていたら、俺も「余計なことを」という気になったかもしれない。でも、由紀の表情は穏やかだった。自信にあふれている、とはいわないけれど、静かだった。卑屈さはなかった。

「緊急避難です。普段ならしません。ノートは自分でまとめないと頭に入りませんから。でも、こんな時くらいは、少し手抜きをしてもばちは当たらないと思います」

 意外だった。

 それが顔に出たのかどうか、由紀はうつむいてはにかんだ。

「晃彦くんは文化祭を背負ってますから、私で協力できることがあれば、晃彦くんに関わってる人たちみんなの力にもなれそうですし。それ、すごくうれしいんです」

「背負ってはいないけれど。でも、その考え方はすごいな」

 素直に感心した。

「それがうれしいって考えてくれてるのが嬉しいよ」

 由紀はますますうつむいている。褒められ慣れていないからか、耳まで赤くしているのがかわいい。

「私って目立たないですし、真面目くらいしか取り柄がないって思われてるから、仕事を押し付けられることはあっても、自分から仕事をして行くって、したことなかったんです。だから、晃彦くんと仕事できるのって、すごくうれしくて」

 居場所を見つけたんだな。

 不意に、そう思った。

 期間限定だけれど、由紀は俺と一緒に仕事をする立場になって、そこに居場所を見つけたんだ。

 俺の彼女ってのは措いておいても、自分の努力が誰かの支えになる、それは病中の俺であってもいい、資材関係の手配を待っている各クラスでもいい、とにかく誰かの支えになっていることに幸せを感じているんだろう。

 地味で目立たない立場にいるしかない小市民的学生にしか理解されないだろうけれど、誰からも何も期待されてこなかった人間って、そんなことで幸せになれる。自分もそうだった(はずだ)からわかる。

「……由紀」

 俺はちょいちょいと由紀を手招きした。由紀はちょっと反応は遅れたものの、いすから離れて俺の枕元に来た。そこにぺたんと座り、ベッド上の俺を見上げた。

「ありがとう。こんなんじゃご褒美にならないけれど」

 といって、俺は由紀の頭をなで始めた。

 今日はなでられている由紀の顔がじっくり見える角度だった。

 由紀は、くすぐったそうな顔をした後、かすかに唇を開けて目を閉じた。なでられている頭に意識を集中しているらしいその顔が、凶暴に可愛らしい。こんなんで喜んでくれるんだから、なんていい彼女だろうか。

 やばい、俺、すげー幸せかもしんない。

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