第12話 恋愛って怖いですね
翌日、学校では様々に噂が飛び交っていてびっくりした。
聞く話聞く話が全部違う説になっていて、たとえば、俺の怪我は綾華さんの彼氏との喧嘩でできたものだとか、俺がカケスさんを使って綾華さんの彼氏に追い込みをかけたとか、気に入らない女子を潰すためにやくざを雇ったとか、まあひどいいわれようだ。
「お前、あの噂本当か?」
「あの噂ってどの噂だよ」
途中からうんざりしてきて、俺はまともに相手をするのをやめていた。
俺が資材移動中の事故で怪我をした、という情報を得た連中の中には、陰謀説を採る者すらいた。
「お前、綾華さんの取り巻きに暗殺されかかったんだって?」
話もここまで行けばいっそ面白い。
「怪我はただの事故」
という正しい情報を聞くと、むしろつまらなさそうにしているのが微妙に腹立たしい。
挙句の果てに、職員室にまで呼び出された。昼休みのことだ。
「佐藤、噂はどこまで事実なんだ」
担任に訊かれて、俺はうんざりにうんざりをかけた顔で答えた。
「怪我は事故、それ以外の噂話はほぼ事実無根ですよ」
綾華さんの彼氏との一件はもちろん伏せておく。
「一年のある女子が、お前に脅されたといって騒いでいるそうだが」
あの馬鹿女め。
「どの女子か知りませんけれど、ただでさえ怪我で頭が痛いのに、人を脅したりするわけないですよ」
思いっきりしらばっくれると、担任はうなずいていた。
「まあ、お前が人を脅すとか、ありえないわな」
こういうときに日頃の素行が物をいう。
俺は確かに不良呼ばわりされる人々と多少付き合いはあるし、喧嘩騒ぎに巻き込まれたこともあるけれど、全部受身。自分から問題行動を起こしたこともなければ、そもそも目立つこともしてこなかった。
バイトもきちんと届けを出してしているし、勤労少年ぶりは教師も知っている。といって、バイトのせいで成績が維持できませんでした、というほど成績も悪くはない。いや、別に良くはないけれども。
さらに、最近の文化祭実行委員の活動で、生徒指導主任からも高く評価を受けている身。
ついでにいえば、生徒会担当のうちの担任は、生徒会会計の先輩から俺の評価を聞いているらしい。あの先輩はなぜか俺を高く評価してくれているから、それも好材料になる。
一方で騒いでいる女は明らかに素行が悪いらしい。そりゃ想像は付くけれどね。
「だが、火の無いところに煙は立たずだ。今日のところはお前のいうところを信用するが、あまり妙な噂が立たんように身を慎め」
「そうします」
もちろんそうするつもり。
俺はビッグになってやるつもりもなければ、人にいえない野望があるわけでもない。小市民として細々と生きていけるならそれに越したことはないわけで。
職員室から帰ってくるころには、噂もひと段落していた。
俺が怪我をした場面を見ていた人たちの証言が伝わったかららしい。
それに、担任があっさり俺を解放したところからも、どうも大した事件性はないらしいと判断されたらしかった。
ワイドショーと同じで、事件性がないとなれば一気に興味を失って追跡しなくなるのが、物見高い連中の噂話。俺が、例の脅しネタやカケスさんのことを黙っていたから、脅された本人たち以外に目撃者もいなかったらしいあの事件は、見事なほどにニュースバリューを失った。
由紀のこともあるかもしれない。
休み時間になると、心配顔で由紀が俺のクラスに現れる。
由紀と俺が付き合いだしたことはあっさりと知られるようになっていて、せっかく付き合いだしたらいきなり彼氏が大怪我(ってほどでもないれど)をするわ、しかも彼氏が無責任な噂のネタに(実は事実はもっとひどかったりもするわけだが)されるわ、悲劇のヒロイン的立場に祭り上げられてしまった。
その由紀の前であまり物騒な噂話もできず、この地味な印象の割りによく見るとびっくりするほどの美少女でもある悲劇のヒロインの前では、そもそも俺にまつわる噂が駆け巡っていること自体が遠い出来事のようになっていた。
意外なくらい、勝手に周囲が由紀を守ろうとしていた。
そうさせてしまう雰囲気が、由紀にはあるのかもしれない。今までその威力を発揮する機会がなかっただけで。
ただ、一番気になる話が、そのままになっている。
綾華さんの「別れる」という爆弾の一件だ。
この状況下で俺から綾華さんのところにいけるわけがない。綾華さんも俺のところには来なかったし、メールも何も来なかった。
気にしたところで、人の恋愛に口出しする気もなければ、出せるほど恋愛経験豊富なわけでも、人生の達人なわけでもない。気にするだけ無駄。
そんなことはわかっているけれど、昨夜のことがあっても無関係を決め込んでいられるほど大人でもない。気になるものは気になるでしょ、この場合。
「痛む?」
「はへ?」
由紀の心配そうな声に、間の抜けた返事をしたのは、放課後。自分の教室で、宿題をやっつけていた。
今日は文化祭の活動はなし。まだ各クラスや団体の企画はろくに上がってきていないし、書類関係は昨日でほぼやっつけてしまっている。
宿題は明日提出のもの。世界史のレポートが2本。うちに帰ると確実にやる気を失うから、多少居残ってでも学校でやってしまった方がはかどる。
「宿題が手に付かないみたいでしたから」
「ああ……痛みはないよ。ただ、痛み止め飲んでるから、ちょっとぼーっとはするかも」
薬を飲んでいるのは事実だけれど、もちろんそれだけでぼーっとしていたわけじゃない。
「無理しないで帰った方が良くないですか?」
自分が痛むような顔をして、由紀は俺の顔をおずおずと見ている。視線はなかなか合わないけれど、照れて視線を外すより、心配で顔色を伺おうとする気持ちの方が勝るらしい。
ちきしょう、かわいいなあ。
「大丈夫。どうせ帰ったってこれやんなきゃいけないんだし、一緒だよ」
「無理はしないで下さいね」
そういうと、由紀は視線を落とした。俺がぼーっとしている間も由紀はレポートを書き進めていて、どうも俺の分までまとめようとしているらしい。
「いいよ、そんなにしなくたって」
「私ができることなんてこのくらいですから、やらせてください」
宿題を肩代わりして俺の負担を減らす、と決意しているらしい。
うーん、世界史もレポート書きも得意分野だから、むしろ俺のがコーチ役じゃね? などとも思ったけれど、由紀の決意に免じて、ここは黙っていることにする。頭がうまく働かないのも確かだし。
しばらくして、俺が自分なりに1本のレポートの内容を煮詰め、レポート用紙に向かおうとしたころ、由紀がポツリとつぶやいた。
「……晃彦君、噂話、聞いちゃった……」
俺はシャープペンを走らせていた右手を止めて、顔を上げる。
由紀が、思い詰めたように、顔を赤くして思い切りうつむいた状態になっていた。
「どんな?」
何を聞いたかわからなければ反応のしようもないので、まずは訊いてみる。
「……晃彦君が綾華さんの彼氏さんと、綾華さんを奪い合って殴りあったって」
「あれ、そんな噂に変化したんだ。面白いね」
そうか、その流れの噂話が届いたわけだ、少なくとも由紀のクラスには。
「殴り合ってないよ。昨日は誰とも」
由紀が本気で噂を信じているとは思わないけれど、綾華さんがらみで妙な噂になれば、絶対気にするだろう。俺と綾華さんの漫才を日々直接聞いていただけに。
「帰り道で説明するよ」
と、俺は小声で告げた。こんな誰が見ているかわからない状態で、あの話はしたくない。でも、由紀には話しておきたい。
由紀は小さくうなずいた。
それから、肩をすくめるようして小さくなり、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
ごくごく小さな声。今度は何でしょう。
俺が黙って見ていると、由紀は顔を上げないまま、聞こえるぎりぎりの声でポツリと付け加えた。
「晃彦君のこと、疑ったみたいでしたね。最悪な女ですね」
「自虐に走らないでよ。聞いてる方がつらくなるから」
はっとしたように由紀が顔を上げる。俺は苦笑していた。
「由紀が噂を流したわけじゃあるまいし、謝るのは無し。ね」
俺がいうと、由紀はまたうつむいて、静かにうなずいた。
長いストレートの髪が、由紀の動きにあわせてゆらゆらと揺れている。痛んだ様子もないきれいな髪が、蛍光灯の明かりにわずかなキューティクルを反射させているのが、やけにきれいに見えた。
見覚えのある車、見覚えのある顔。
帰り道。
由紀と二人で学校を出て、校門から左に折れて50メートルほど進んだ先の交差点近く。
昨日見たばかりの車が路上に止まっていた。道の左側を歩いていて、対向車線の脇に止まっているから、運転席に座っているドライバーの顔も見える。もちろん、昨日見たばかりの顔があった。
なにやってんだ、こいつ。
高校1年生にとっての20代男性ってのはかなり大人で、こいつ、なんて感想は普通は浮かんでこないものだけれど、この時、こいつという単語以外に浮かんでも来なかった。
いきなり口を閉ざして無表情になった俺に気付いて、俺の左側を寄り添うように歩いていた由紀が不安そうに見上げてくる。
「由紀、あれが昨日の騒ぎの原因」
とあごで指し示すと、由紀は不安そうな顔のままそちらを見た。
視線の先では、男が運転席から降りてくるところだった。明らかに俺の顔を見て動いている。
当然、俺は警戒する。
ドアを閉めると、男はこちらに歩いてきた。警戒心ばりばりで見つめている俺に、意外な姿が見えた。男が、俺に目礼していた。
向こうがお辞儀したら反射的にお辞儀してしまったのは、そういうところだけはきっちり躾けられた人間の悲しいさが。
よく見てみると、彼は地味なチャコールグレーのスーツ姿で、グレーのネクタイも地味。ワイシャツは白。生真面目な営業マン、という感じで、昨夜とは別人みたいだった。
「昨日はすまなかった、どうかしていたんだ」
近付いてくるなりいきなり謝られ、俺は面食らって言葉が出てこなかった。
国道のそばの喫茶店、由紀に告白された日に二人で入ったあの喫茶店に、今度は三人で入っていた。
「広瀬」
と、彼は名乗った。
どう見ても金のかかる車に乗っている「広瀬」というところで、この辺りでは知らぬ者の無い企業グループの名前が思い浮かんだ。地方財閥というには少し規模が小さいかもしれないけれど、この辺りで手広く商売している家に「広瀬」という名がある。
もらった名刺を見て、納得した。会社名が「ヒロセシステムコンサルタンツ」、親父からも名前が聞いたことがある会社で、もともと土建業から始まり、運送業、ガソリンスタンド、半導体工場などに手を広げ、早くからコンピュータシステム開発にも力を入れていた広瀬グループの子会社。肩書きは専務となっているから、広瀬の分家の跡取りというところか。
田舎だから、そういう情報は高校生ごときでも耳にしている。
「綾華からもずいぶん叱られたよ。悪かった」
「いや、まあ、あれはどっちもどっちだったんで」
こうも素直に謝られてしまうと、落ち着かないことはなはだしい。こっちには、なにしろカケスさん乱入というある意味負い目もある。ありゃ反則技もいいところだもんな。
「実は昨日、あれから綾華に会いに行ってね。でも叱られるだけ叱られたらすぐに追い出されてさ、それからは連絡も通じない」
今日は帰りの時間をみて綾華さんを待っていたらしい。でも、綾華さんはいつまで経っても現れず、そのうち俺が由紀と一緒に出てくるのを見つけたんだそうだ。
由紀のことも知っていた。
「綾華から聞いたよ。二人が付き合ってるって」
由紀がうつむいている。初対面の相手だからだろう、と人は思うかもしれないけれど、俺には思いっきり照れているだけに見える。由紀は俺と付き合っていること自体が照れの素になるらしい。
仕事はいいんですか、と聞きそうになったけれど、その口は引っ込めた。専務という肩書きは、仕事に支障さえなければ時間なんか自由に使えるご身分ってことだ。
「あんな小娘に乗せられて……馬鹿だと思うよ、自分でも」
自嘲、という言葉を全身で表現したら、今の広瀬さんのようになるんだろう。顔立ちは悪くないどころか素晴らしい出来なのに、自嘲の色が濃すぎて、疲れきっているように見える。
かなり濃いくまが浮かんでいて、よく見れば顔も脂っぽい。たぶん、あまり寝ていないんだ、この人は。
「最近、綾華とうまくいってなくてね。特に文化祭実行委員になってから、あいつが俺を露骨に避けるようになって、君が原因じゃないかっていってきたあの小娘の口車に乗せられてしまった」
「もともと知り合いなんですか?」
「顔くらいはね。綾華のグループに近付きたがってる子は多いけど、その中にいた奴だ」
彼女の底が割れてきた気がした。
「なんで広瀬さんに俺のことを告げ口したんでしょうね」
「君が気に入らなかったといっていたけどね。ちょっとルックスが良くて、まぐれで喧嘩に勝ったくらいで調子こいてるとか何とか」
「でも、普通、告げ口はともかく、一緒の車に二人では乗らないでしょう」
「俺に近付くのが綾華に近付く近道だと思ったんじゃないのか? あるいは、大人の男と二人になるってのが刺激的に思えたかな」
おそらく違う。
彼女は、綾華さんが好きなわけでも、広瀬さんが気になったわけでもない。
学校のアイドル綾華さんに、地域の支配勢力・広瀬家。
そういう華々しいもの、権威や権力というものに惹かれているだけだ。そうすることで自分が高められた気がするから。いや、本人は高められたと信じているんだろう。
だから、その権威や権力に無造作に近付こうとしている奴に嫉妬する。陥れるための陰謀くらいは企むだろう。あまりの浅知恵に、企まれた方はめまいすらするけれど。
広瀬さんは間違いなくもてる。そのモテ男と二人きりになるってのは確かに刺激的だっただろうと思う。
でも、あんまり深くは考えてない。多少深く考えられる奴なら、綾華さんのことを気にして、絶対二人きりでは車には乗らず、ましてでかい態度で助手席から「あんまりやりすぎないでよー」などと馬鹿な狎れた発言はしないはずだ。
軽蔑にすら値しない馬鹿女。
というところで、俺の中の彼女への評価は確定。
「君が綾華に気があると聞いて、いてもたってもいられなくなって、綾華のつてで知り合った子から君の行動を聞き出して、学校を出たらしいことを聞いてすぐに学校に行った。それが昨夜の状況だ」
広瀬さんはわざわざ解説してくれた。彼なりの誠意らしい。
「彼女がいるとまでは知らなかったんだ」
「仕方ないですよ。できたばかりですし」
由紀は無言。たぶん、うつむいたまま再度照れている。そういう場合でもない気はするけれど、口を挟まれるのも何なのでとりあえずは放置しておく。
「知っていればあんなことはしなかった。まして掛巣さんの弟分だなんて想像もつかなかったから」
「ああ、カケスさんのことは気にしないで下さい。確かにあの人に散々世話にはなってますけれど、あの人の性格上、弟分だからどうしても守るとか、無いですから」
口ではいうかも知れないけれど、あの人の本音は、娘以外のために死ぬとか何の冗談だよ、というところにあるはず。
「だと助かるな。俺も高校生のころは多少ぐれていたりもしたけれど、あの人の伝説はよく聞いたよ。あまり係わり合いにはなりたくない」
そりゃそうでしょうよ。
「今はただの子煩悩パパです。昨日はたまたま不機嫌になるようなことがあって、タイミングが悪かったんでしょう」
ざっと話を流しておく。
「俺も脅されて最初は頭にきましたけれど、もうそれも収まりました。あんま気にしないで下さい」
「気にするよ。高校生に圧倒されるような奴が企業経営とは笑わせる」
広瀬さんの自嘲が激しくなってきた。
「そりゃ、綾華も愛想尽かすよな、当然だ」
「広瀬さん、自虐的になってもなんも問題は解決しませんよ」
「わかっている。わかっていてもね」
というなり、広瀬さんは割と激し目に頭をかき回した。それからふうっ吐息を吐き出し、続ける。
「不安なんだよ、綾華の気持ちが自分に向いていないんじゃないかって」
思わず昨日のボイスチャットで別れ話が出ていたことをいいそうになったけれど、ややこしくなりそうなので寸前で飲み込んだ。
「それで校門を張り番してまでの出待ちですか」
「そうでもしないと、電話もつながらないんじゃ、あいつを捕まえられない」
広瀬さんはそこでコーヒーカップの中の濃い目のコーヒーをあおるようにした。
「……高校生なんて、27の俺からしたら子供だよ」
27歳だったのか。綾華さんとは10歳差くらいか。
「なのに、俺はその子供にいいようにもてあそばれて……男ってのはそういう生き物なのかな」
「さあ、どうなんでしょうね」
俺は適当にごまかしたけれど、内心では「一緒にするな」と思っていた。どうもこの人の行動といい言葉といい、年相応の成熟からは遠い気がしてきた。
「あいつはきれいだ。話していても楽しいし、あんないい女はいない。手離したくないんだよ」
「そうでしょうね」
「たまたま家同士の付き合いもあったから、あいつのことは子供のころから知っている。あいつのことなら何でも知っていたんだ」
「そうなんですか」
ひたすら相槌。もうも相槌男に徹して、聞き出せることは全部聞き出してしまおう。
「あいつが高校に入ってから付き合うようになって、いろんな所に連れてって、いろんな思い出を作った。わがままもいっぱい聞いてやったし、あいつの頼みならどんな無理でも聞いてきたつもりだ」
「ええ」
「なのに最近、あいつは俺から離れようとしている。理由を聞いても答えない。電話すら出なくなってきて、メールなんか返っても来ない。おかしいだろう?」
「そうですね」
なんか疲れてきた。
隣の気配をうかがうと、由紀は広瀬さんの話を聞きつつも、俺の反応が気になって仕方ないらしく、俺の呼吸の音まで聞き逃すまいと耳を澄ましているらしかった。
面白いやつ。
「なんか……」
喫茶店を出てしばらく歩き、由紀の家への帰り道をたどり始めた頃、両手でかばんを持ちながらとことこと歩いていた由紀がつぶやいた。
「恋愛って怖いですね」
「どうして?」
由紀がしみじみという、その口調がおかしくて、思わず聞き返した。
「だって、あんな大人の人があんな風に我を失っちゃうんですよ」
「まあ、ねえ」
あれは結構特殊な例じゃないだろうか、とも思ったけれど、なにしろ恋愛経験なんか無いに等しい人間だから、あまり物はいえない。
「私もあんな風になるかもしれません」
「あんな風に? 別れたくないって他人を巻き込むってこと?」
「それもありますし、相手の気持ちがわからなくて大騒ぎしてみたりとか」
由紀の顔を見てみると、意外にまじめな顔をしている。
「自分がどうなっちゃうかわからないです。たぶん、自分から告白するとか一生無いだろうなって思ってたのに、しちゃってみたりとかしてますし」
「しちゃったねえ」
「今でも不思議です。何であのタイミングで告白できたのか。恋愛って、自分でも想像もつかないことをやらせてしまう力があると思います」
「なるほどねえ」
思い当たる節はこっちにもある。芝生でのキスの一件だって、勢いであそこまで行ってしまった。周りが人であふれてるとか、全然考えが及ばなかった。
でも、と俺は返した。
「そうやってありえない自分と出会っていくのってさ、雑な言い方かもしれないけれど、成長だよな。お互い高めあっていけたら、じたばたしたり失敗したりする甲斐もあるよね」
由紀は俺の顔をちょっと見上げた後、大きくうなずき、それからうつむいた。
今度はなんだろう。
結局会わなかったな、と、帰って晩御飯を食べて、部屋に戻ってから思った。
綾華さんだ。
渦中の人物のはずで、彼女のおかげで色々と貴重な経験をさせていただいたわけだけれど、肝心な本人とまったく接触が無い。
確かに昨夜話したけれど、尻切れトンボで、肝心な話は何もしていない気がしていた。
いきなり別れるという話を人に放り投げておいて、投げっぱなしだ。投げられた方は受け止められもせず、中途半端に浮いているしかない。
別れたいという気持ちは、でも何となくわかる気がした。
あの人には確かに大人の男性が似合う。社会人の彼がいると聞いていたけれど、それも納得できていた。少なくとも俺たちみたいな年代の子供が相手じゃ、あの人はつまらないんじゃないだろうか。
無責任に大人と子供の中間を生きているような年代が相手じゃ、あの人の心は動かせないと思う。 しっかりと自分の足で立ち、奔放なところもある綾華さんを支えきれる力がある人じゃないと、綾華さんの心は動かせない。
そして、広瀬さんは、年代や経済力は充分でも、ついでにルックスでも充分でも、心の成熟度のようなものが足りていない気がする。
俺から見ても、広瀬さんは自立しきれていない感じがした。甘えが強い気がした。綾華さんに寄りかかっていて、支える力強さは感じなかった。俺が女でもあの人にはついて行こうとは思えない。
男としてならなおさら。
カケスさんを知っている俺には、あの不良時代からの柄の悪さは差し引いたとしても、広瀬さんの頼りなさは物足りなさしか感じさせない。無責任な人だ、とすら思う。
それにしたって、だ。
投げっぱなしは良くないだろう。
パソコンを立ち上げてみたけれど、綾華さんがサインインしてくる気配は無かった。
どうももやもやする。
明日は実行委員の方で打ち合わせがある。会ったら何か話ができるだろうか。いや、しないとな。
という俺の決意はあっさりと流れた。
綾華さんはいたし、仕事も一緒にしていたのだけれど、何しろ暇が無かった。
「何でこんなに早く一気に集まるんだよ!」
来週中の提出、という話でまとめていたはずのクラスごとの出し物計画が、なぜかこの日、まだ木曜日なのに、やたらと集まってきた。
もうある程度話をまとめていたクラスが、生徒指導主任の鶴の一声で計画の作成を進め、この日に一斉に提出してきたせいだ。
「あきちゃん、貸し出しは今日やっちゃうわけにも行かないんでしょ」
「貸し出したところで、教室に置くわけにもいきませんからね。部活の申請ならともかく、クラス単位の貸し出しは当日近くになってからじゃないと」
「じゃあどうすんの? 仕分けだけしておくってこと?」
「そうです。片っ端から付箋でも貼っていって、仕分けましょう。リストはできてますから、そっちはそんなに時間かからないと思います。とりあえず昨日までに上がってきてる分をやっときましょう」
「じゃああたしはそっちやるわ」
「お願いします。由紀と俺は書類のチェックをやろう。多分こっちの方が時間がかかる」
「企画書と貸出申請書ですね」
「うん。由紀は企画書のチェックをお願い。企画に図面が必要なのに出てないところが結構あるから、それは弾いて。で、図面の数量と企画書と申請書の数量が合ってるかどうかのチェックをお願い」
「わかりました」
「俺は弾いた書類の大体のチェックをして、場合によっては図面作っちゃうから。いちいち頼みに行くよりそっちの方が早そうだし」
仕事が早く進むのはありがたいし、今のうちにできるだけ多く処理できれば、土壇場になって仕事量がパンクする恐怖からも逃れられる。
それはいいんだけれど、物には程度ってもんがあるだろうと思うわけだ。
別に今日全部やらなくてもいい仕事のはずなんだけれど、そうもいかないのは、お金が関わってくるから。足りないものは早く注文しておかないと、後で足りなくなったときに対応できくなるし、そもそも生徒会に申請するお金が足りなくなってしまう可能性がある。そうなったら当然買い物もできず、資材の準備に穴が開く。
そして今日は木曜、今日中に注文する物リストを作って会計に回さないと、発注が週をまたいでしまう。
今日できることは今日やって、足りないものはさっさと注文リストに入れてしまうに限る。
とはいっても、量が量だった。だべってだらだらやって、終わるような仕事量じゃなかった。
「仕分け終わったよー」
「あ、綾華さん、こっちの申請書も上がってますのでお願いします」
「おいおいおい、由紀、あんた、あたしを殺す気かい」
「ご、ごめんなさい、じゃあいいです」
「こら、良くないでしょ、あたしの脅しにコンマ2秒で負けちゃだめでしょ」
「ご、ごめんなさい」
「謝んなくていいから。ほら、書類よこして」
「で、でも、私もやります」
「あんたは書類整理が先でしょ。あきちゃん、指示は?」
「えーっと、由紀はあと30秒そこで待ってて。修正した図面が上がるから。プリンタ見てて、すぐ出す。出たらそのチェックね」
「ということだそうだ。由紀、よろしく」
この会話だけ切り取ると由紀が仕事ができない子のようだけれど、やってる仕事量は大きい。俺が急かされるような展開になっているけれど、これは予想外だった。俺の仕事が先に終わり、由紀がためてしまった仕事を手分けして片付けようと思っていたのに、とんでもなかった。
成績がいいからといって、この手の事務仕事がうまいとはいい切れないはずなんだけれど、由紀の場合はいい切れた。早くて正確。人のミスを探したり、多少の間違いなら直してしまわなければいけない仕事で、いくつかチェックしたけれどミスが無い。
綾華さんは図面作りやその手のチェックなんか絶対やんない、と高らかに宣言した上で資材整理をやっている。いまだに巻かれている俺の頭の包帯が気になり、俺に資材置き場に入る機会など与える気が無いらしい。そしてこちらも仕事が速い。
背か高くてすっきりした体型の綾華さんは、どう見たってさして腕力があるほうには見えなかったけれど、この日は精密機械のような仕事振りを見せた。扱う資材に小物が多かったせいもあるだろうか。パーテーションパネルのような大物は、今日は無い。
そんな風に3人で嵐のような仕事に立ち向かいつつ、過ごしていたら、あっという間に時間が経っていった。
結果として終わったからいいものの、時間は既に7時を回ろうとしていた。
由紀の門限が近付いている。
「由紀、門限は?」
俺が訊くと、由紀はしばらく何の反応も示さなかった。たぶん、集中が切れたとたんに疲れがどっと出て、頭が働いていないんだろう。
そのまま二人で8秒間見つめ合う。
何の情熱もない見つめあいの後、由紀は自分がどんな状態にあるか思い出したらしく、時計を見てからばっと立ち上がった。
そして倒れこみそうになる。あわてて俺が体を支え、綾華さんがあきれた。
「疲れてるのに急に立ち上がったら、立ちくらみするの当たり前だろ」
「由紀、立つのはゆっくりでいいから」
俺はくらんだままでいる由紀に言葉をかける。肩を支えているのだけれど、ずいぶん軽い。
「あきちゃん、由紀を家の前まで送り届けること。いますぐに。可能?」
「可能は可能ですけれど。でもここはここで戸締りとかごちゃごちゃ面倒ですから、俺が戻ってくるまで留守番してもらっててもいいですか?」
「留守番はいいけど、あたしも帰りたいし。戸締りはあたしがしていくから、あきちゃんもそのまま帰りなよ」
「いいんですか? 割と面倒ですよ」
「大丈夫よ、面倒ってだけで難しいわけじゃないんだから」
そんな会話があり、立ちくらみは治まってもまだふらふらしている感じがする由紀を家の手前まで送る任務が与えられた。
というわけで。
俺は結局、綾華さんと、仕事以外の話はほぼすることもなく、むなしく帰ることになった。
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