第11話 事故、事件

 文化祭実行委員の仕事の方は、ここに来て軌道に乗り始めた。

 一番大きかったのは、生徒指導主任の教師が俺たちの側についたこと。

「ここまで入念に準備したり計画持ち込んできた奴は久しぶりだ」

 俺が別の交渉ごとで生徒会にかけあいに行っている間、生徒指導主任にかけあいに行ってくれたのは綾華さんだった。あたしの方が教師には顔利くでしょ、という理由だ。

 そして、行った先でそんな風に褒められて、

「しかもその相手がお前ときたら嬉しくてねえ」

 と涙ぐまれたらしい。ちなみに生徒指導主任はこの前孫が生まれたばかりの新米おばあちゃんで、成績はいいが素行がよろしくない綾華さんとは色々あったらしい。

「やったのはあたしじゃないよ」

 と綾華さんがいうと、

「聞いてるよ、1年生と組んでやってるんだって? こういうのはチームプレイなんだ、誰かががんばってるだけじゃうまく動かない。お前もやるべきことをやっているからチームが動いているんだろう」

 といわれ、さらにチームプレイのことだけで8分間ほどお話が続いたらしい。

 戻ってきたときには、今まで見た最大級の疲労困憊ぶりだった。

「もーあいつのところには行かん」

 自分で行くといっておきながら、とは思ったけれど、俺も由紀も何もいわない。しっかり生徒指導主任をたらしこんで、こちらの計画以上の収穫を得てきてくれた功労者なのだから。

 まず、俺たちが管理することになっていた資材関係の貸出申請は、来週中に提出された分のみの受付にされるよう、生徒指導主任が請け合ってくれた。つまり、文化祭開催間際になっての駆け込み申請は認めないということで、それだけこっちの資材管理や購入に伴う予算管理が楽になる。

 これは生徒会の権限で決められることのようでいて、意外にそうでもないらしい。綾華さんがいうには「教師に泣きついてねじ込んでくる馬鹿が出るに決まってる」そうで、生徒指導主任にこれを認めさせるということは、そういう「馬鹿とそれにだまされるもっと馬鹿な教師」の出現を防げるらしい。

 とはいっても、ぎりぎりまでがんばったところで「どうしても足りない!」となるところも出てくるだろう。それを救うための予備予算も、全体の予算の概算を綾華さんに持たせたのが良かったのか、「この枠内なら学校の予備費から出すよ」とお墨付きをもらった。しかも、あえて吹っかけた概算要求そのままの金額で。

「ただし生徒会の会計には話を通しなさいよ」

 と注が付いたそうだが、そこは大丈夫。なぜなら、その話を通すべく、俺は綾華さんに生徒指導主任を任せ、生徒会会計に直談判しに行ったのだから。

 なぜか俺のことを気に入ってくれている生徒会会計氏は、俺たちの計画案を見ながら、「予備費が学校側から出れば助かるなあ」と簡単に承認してくれた。

「でも、生徒会費以外の資金が入れば、当然監査の対象になりますけれど」

 一応、マイナス点もいってみると、先輩はごく気軽に答えた。

「企業の外部監査じゃあるまいし、出納さえしっかりしてれば問題ないよ」

 それに、と付け加える。

「僕が指摘する前から、監査の対象になることまでわかってる奴が管理するんだ。何か問題があるのかい?」

 やっぱりこの人は面白い、と思わせるに充分な、余裕のありすぎる先輩だった。

 そして、生徒指導主任がこの件を請け合ったことによって、自動的に各クラスに、資材関係の申し込みやそれに先立つ出し物の計画案提出を急ぐよう、教師側から一斉に通知が出されることになった。

 正式にそうなったわけじゃないけれど、自分が担任しているクラスが万が一遅れでもしたら、生徒指導主任という校長・副校長に次ぐ実力者が認めた期限を破ることになる。非常にまずいわけだ、教師の立場的に。

「どこからこのアイディアを思いついた? 僕はむしろそこに興味がある」

 会計の先輩は真顔で聞いてきた。生徒会費以外の財源を導入するアイディアも、期限を守らせるために生徒指導主任を引き込もうというアイディアも、これまでの生徒会には無かった発想だった。

「まだ交渉に行ってるだけで、成功してませんけれども」

 そう、この話をしている時点ではまだ成功してない。でも、先輩には成功しようがすまいが関係ない。アイディアの源を知りたがった。

「3人でです。3人で話してて、そういう話で盛り上がって」

「あの永野もか」

「永野もか、というより、あの人がメインですよ。最初校長のところに乗り込むとか無茶いってましたけれど」

「そりゃ無茶だな。事なかれ主義が服着て歩いてるような爺さんだ。生徒指導主任に目をつけたのは見事だと思うぞ」

「ですかね」

「最良の人選だろう。それも永野が?」

「そうです。俺たちは生徒会担当しか頭に無かったんですけれど、綾華さんが自分で行くからこいつがいいとかいって」

「あいつがねえ」

 先輩は遠い目になった。上級生でもある先輩には、色々と綾華さんについての事件の記憶やまことしやかな噂話の記憶が積み重なっていて、感慨深いらしい。

「生徒会なんてのは、本気でやる奴が損をするようにできているんだ。悲しいことに。でも、成果を出せば、それが人に認められなくても楽しかったって自己完結できる奴にとっては、いい遊び場になると思う」

 自分がそうだから、とはいわなかったけれど、この先輩、どこまで大人なのか。俺たちの渾身のアイディアを容易に理解した上で認める度量といい、物事の捉え方の深さといい、とても高校生とは思えない。

 それをいうと、先輩は苦笑していた。

「いずれお前も同じことをいわれることになりそうだな、苦労人くん」



 苦労人呼ばわれされた俺だけれど、仕事は実に楽しかった。

 なにしろ、できたばかりのかわいい彼女と、できる経緯をしっかり見届けた上に祝福してくれる美人の先輩と、3人でわいわい仕事ができる。これで楽しくない男がいるわけがない。

 が。

 好事魔多し。

 俺には幸運より、凶事の方がお似合いらしい。

 人々の中に埋没して、個性らしい個性も無く、目立たず大人しくさえ生きていればいい、底辺を這いずり回るべき存在の俺が、いっちょまえに彼女なんぞ作ってバカップルを楽しんでしまった罰が下ったのかもしれない。



 まず起きたのは、事故。

 資材申請が早くも行われ、教室内を区切るパーテーションとして使う大きなベニヤ板が貸し出されることになった。

 そのクラスの担当と俺が、生徒会室の隣にある資材置き場からベニヤ板を運び出し、さらにそれを支える足になる金属板を取り出そうとしているときに、事故は起こった。

 まだ資材置き場には物があふれていて、これを数えるのに俺たち3人は死ぬ思いをしたわけだけれど、それらのうち必要なものだけを取り出そうとするとちょっと無理がある。

「あれを出してここをこう移動すれば出せるんじゃない?」

 などとパズルゲームのような資材出しが必要になる。

 それをやっているうちに、誰が置いたかはわからないけれど、明らかに資材出しの動線上に、ペンキが入った小さな缶が置かれた。

 看板用のベニヤ板を一時的に出すべく、俺とクラス担当とが一緒に板を持ち上げ、移動を開始したとき、不運なクラス担当はそのペンキの缶に脚をとられた。

 転ばないように踏ん張った彼は、看板の板に思いっきり体重をかけてしまった。その片一方を持っていた俺に、当然ながら思いっきり加重がかかる。

 クラス担当の「うおぉぉっ」という声は聞こえていたけれど、何が起きたかまではわからないから、突然かかってきた妙な加重に、俺は耐え切れなかった。そのまま後ろに倒れこみそうになる。

 そのままじゃ怪我をする、と判断したのか、俺の体は何も考えずにその板を投げ飛ばすようにして離していた。気が付いた時には俺は尻餅をついていた。

 そこまではまあ良かったんだけれど、悪かったのは、看板用のその板から俺の支えが消えたことで、クラス担当が派手にこけたことだった。

 その動きのおかげで看板用の板が飛び、資材置き場の扉の窓ガラスを割ってしまった。

 そのガラスが、俺のすぐ頭上。

 ガラス片が飛び散り、大きな衝撃音と共に近くにいた女子の悲鳴が響き渡った。

「そんな叫ばんでも……」

 と思った俺だけれど、その叫び声はべつに大きな音に驚いたからじゃないということに気付くまで、少々時間がかかった。

「佐藤、お前、大丈夫かよ」

「ええ、まあ、お尻は痛いっすけど」

「いや、そうじゃなくて」

「?」

 本当にわかっていなかったのだけれど、次の瞬間、なぜそんなことをいわれるのか理解できた。

 落ちているガラス片で手など切らないように気をつけながら立ち上がった俺は、いきなり目に何かが入ってきてびっくりした。思わず何かが入った右目を閉じ、下を向いて目に手を当て、そして開いている左目に写った光景を見て、すべてを悟った。

 血痕があった。それもきわめて新鮮な。

 さらにいえば、そいつは増えていた。ぽたぽたと、俺の頭から落ちていたんだ。

「あー……なるほど、こりゃあ大丈夫には見えないわなあ」

 本人はこういうとき意外に冷静だ。周りの方が大騒ぎしていた。

「頭は大げさに血が出るだけだから、大丈夫ですよ」

 と俺がいったところで、誰も聞いちゃいない。

「保健室! 保健室!」

「タンカ! タンカ!」

「救急車! 救急車!」

「先生呼べ! 先生呼べ!」

 なぜああいうとき、人は短い言葉を2回繰り返すのだろう。不思議である。

「いや、そんな大げさな……自分で保健室行くから大丈夫ですって」

「いやああああああ」

「怪我してない奴が叫ぶんじゃないよ、うるさいなあ」

 たぶん雰囲気に呑まれて叫ばずにいられなかったらしい女子に思わず突っ込んだりもしたけれど、本当にこの場面、落ち着いているのが俺だけだった。

 これ以上パニックになられても損するのは俺だけなので……理不尽だが……俺はその場にいる全員を見捨てて、とっとと保健室に向かうことにした。後片付けなんぞ知るか、血痕なんぞ誰かが拭いとけ。

 というタイミングで現れたのが、まさに絶妙なタイミングで現れてくれたのが、我が愛する姫君だった。

 血だらけでずんずん歩いてくる俺の姿を、ちょうど別の仕事が終わって手伝いに来たらしい由紀が見つけた。

 最初はメガネの奥の目と口をまん丸にして、次に出そうになった悲鳴をとっさにこらえ、それから駆け寄って抱きつこうとした。

 俺は目で止めた。今抱きつかれたら、由紀の制服まで血だらけになる。

 後の由紀がいうには「狩の後の肉食獣みたいな目で、近付いたら殺されると思」ったんだそうだ。目に血が入った後だったから、たぶんまともに開いてない目で無理やり由紀を見ていたからだと思う。

「私もあの時は泣きそうになってましたけど、あの目を見たらそれを通り越してひきつけを起こしそうになりました」

 と付け加えてくれて、聞いていた綾華さんが腹痛を起こすほど大笑いしてくれていたけれど、まあ、それは大したことじゃない。本当の事件はその後に起こった。




 田舎の学校だから、怖いお兄さんなんて掃いて捨てて燃やしてもまだ出てくるほどいる。校内だけじゃない。学校の外に出れば、女子を狙っているのかただの暇つぶしなのか、車でその辺りを徘徊している怖いお兄さん方の姿は、それほど珍しい光景ってわけでもない。

 俺の場合、なぜかそういう筋かそれに近い先輩方と付き合いがあったり、そういう筋の先輩方が畏敬する方に可愛がられていたり、本人の意思に関係なくそういう方々と顔見知りなケースが多かったりした。

 バイト先でお世話になっているカケスさんは、現役の不良たちにとっては伝説的な存在で、やくざの世界に進んでいればあるいは大立者になっていたかもしれない。今じゃただの子煩悩パパだけれど。

 その人に可愛がられているというだけで、俺はだいぶこの学校で生きやすかった。自分からは何もせず、単に親父の知り合いという縁だけでそんな風になってしまっている俺は、相当運がいいんだろう。

 でも、別に俺がそういう社会での有名人かというとそんなことは無いわけで、同じ学校の先輩方の一部に「まあそんな奴もいる」という程度に覚えてもらっているという話。



 頭に大げさな包帯を巻かれてしまった俺は、帰るのも気が重かった。たぶん、大騒ぎされるに違いない。

 過保護な親ではないけれど、さすがに帰ってきた息子が包帯巻きで帰ってきたら、人並みには驚くだろう。

 あの後は大変だった。

 学校側にしてみれば、遊んでいたというならともかく、校内で生徒会の職務で動いている中での負傷だから、下手したら管理責任を問われる事態。俺が保健室にのこのこ歩いていったら、たまたま通りかかった教師がこっちがびっくりするくらい大騒ぎしてくれた。

 まずは病院へ、という話になったけれど、自分でももう血が止まりかけているのがわかっていたから、傷は大したことがないだろうと高をくくっていた。保健教諭がすぐに傷の具合を見たけれど、さすがに場慣れしているだけあって、少しも騒がず、「なめときゃ治る。自分じゃなめられんだろうから彼女にでもなめてもらっとけ」という、高校生にいうには少しきわどすぎる冗談を飛ばしていた。

 それでも大事をとってということで、教師側のたっての願いで、俺の頭にはおおげさな包帯が巻かれてしまった。

「傷は大したことはないけれども、傷口が開くと出血が大きくなる。後始末も大変だし、化膿しないように注意も必要だ」

 ということで、俺には傷口がふさがるまでの洗髪禁止令と、運動禁止令が下されてしまった。

 運動禁止って。

 既に通学が充分な運動だと思うんですよ。丘の上にある学校目指して自転車こぐってこと自体が。

「なんとかしろ。傷がきれいにふさがればともかく、変に化膿なんかしてみろ。異臭はするわ痛みはひどいわ、もっといえばその辺りから毛が生えなくなるぞ」

 それは大問題だ。怪我したのは右側頭部、思いっきり髪の中。別に目立つ場所じゃないけれど、自然に生えなくなるまでは生えていてもらわんと。

 まあ、自分の不注意もあっての怪我なので文句はいえない。

「しばらく自転車以外で考えてみます」

 自転車以外というと、歩くかバスか。ただ、田舎のこと。家からバス停が遠い上に本数が少ない。

 電車、と都会人なら考えるんだろうけれど、残念ながらうちの高校と、家から近い駅の鉄道路線とは、接点がない。

 車で送り迎えしてもらう当ても無いし。うちは両親共働きで、残念ながら兄や姉もいない。

「本数少ないバスに頼るしかないか」

 保健室から出た俺がため息をつくと、治療中ずっと保健室の隅にいた由紀が、俺の背中にくっついてきた。

 いや、くっつくというほど大胆なことはしていない。

 俺の制服のすそをつまんで、軽く引っ張っていた。その距離が非常に近いというだけ。

「すごい心配しました」

「ごめん、不注意だったわ」

「怪我のこともあるんだけど……」

「?」

 よくよく理由を聞いてみたら、怪我をした直後、俺にすさまじい形相で睨まれた時のことをいっているらしい。

 いや、睨んだつもりは無いんだって。あれはそういう目になっちゃっただけであって。

 そういう俺の思いは百も承知のようで。

「事情はわかってても、あの目が怖かったのは事実ですから」

 と由紀は譲らない。怒っているというより、かまってほしいだけにも見える。

 そこでふと気付く。ああ、由紀はもう帰る時間か。

 怪我をした時点で時間は5時を回っていた。保健室でごたごたとして、既に時計は6時を回っている。由紀はつい最近熱を出して寝込んだ前科があるから、家族が、特に父親がひどく心配していた。

 門限は基本7時。

「早く帰らないと、その目より怖い人が待ってるんじゃないの?」

 俺は何も考えずに、ただ頭に浮かんできたことをそのまま口にした。

 とたんに、制服を強く引っ張られた。ぐいっと上半身が後ろに傾く。

「私は早く帰れってことですか?」

 声が平板。あ、怒ってる。

「そういう意味じゃないよ」

 できるだけ気楽そうにいう。フォローは限りなく早く、そして相手の先回りをしてこそ。

「これから長く付き合っていくためには、周りから認められないとさ。まずは由紀んちで一番怖そうな人からも信頼してもらえるようにしないと」

 さも思慮深く聞こえる発言だけれど、もちろん今考えて出てきたセリフ。

 もっとも、うそじゃない。いってから、「その通りだな」と自分でも納得できた。

「ずっと一緒にいたいなら、最初が肝心でしょ?」

 いいつつ、由紀の手を握る。由紀は、手を握られた瞬間に体をぴくんと震わせ、それからうつむいて、俺が握る手をきゅっと握り返してきた。

「ずるいよ……」

「へ?」

 突然何を言い出すのか、俺が首をかしげると、由紀はうつむいたまま俺の胸元辺りを見て、ぼそっとつぶやいた。

「そんなこといわれたら、帰りたくないなんてわがまま、いえなくなっちゃいます」

 なにをかわいらしいことをっ! ずるいのはどっちですかと問いたい。




 送るといったら、逆に怒られた。

 結局今日は親父が迎えに来るまでの間、学校で待つことになったんだけれど、その間は暇だから途中くらいまで由紀を送ろうとしたら、

「けが人は今日くらい大人しくしてなさい」

 と怒られてしまった。

 その怒り方が妙にかわいらしかったので、もうちょっと怒らせてみたかったんだけど、多分それをいったらしばらく口をきいてくれなくなりそうだったから、諦めた。

 で、待ってたわけだ。親父を。

 携帯で話した時の親父の反応は、さすがに俺の親だった。

『頭は大げさに血が出るからな。噴き出してるんでもなければ心配いらんよ』

 俺と同じようなことをいっている。さらに続けて出たセリフが止めを刺した。

『母さんが見たら大騒ぎするだろうな。覚悟はしておけ』

 親父も、俺の想像が見せた風景が同じように見えていたらしい。

『仕事が終わって迎えに行けるのは8時過ぎになる。それまで待っていられるか』

「書類仕事がいくらでもあるし、やってるうちにそのくらいになっちゃうと思うよ」

『学校はまだ閉まらないのか』

「受験組の自習室が9時までやってるからね」

『わかった、待っていろ』

 実際に書類仕事をやっていると、時間が経つのは早かった。

 何枚かリストや申請書の処理をしているうちに時間が過ぎ、いつの間にか8時を回っていた。

 今日は綾華さんはいない。生徒指導主任との談判が意外なほど体力を消耗させたようで、「今日帰ってもいい?」と珍しい申し出があった。「もうやめるー」「むりー」とはいっても、「もう帰るー」とはなかなかいわない人なのだ。

 何しろ大功労者なので速やかにお帰しした。

 ただ、書類仕事に限っていえば、いない方がはかどるのも確か。

 こんなものは黙々と一人でやるに限る。綾華さんがいると漫才が始まってちっとも前に進まない。

 それでも8時を過ぎるとさすがに疲れてきたので、俺は片付けて帰り支度をしてしまうことにした。

 親父が来るまでどれだけかかるかわからないけれど、なんとなく外にいることにした。深い理由は無くて、この日はすっきりと晴れた日だったから、外に出て風に当たっていても気持ちいいかな、などと思っただけ。

 昇降口から外に出ると、朝晩がすっかり涼しくなった10月中旬、乾燥した風は適度に体温を奪っていって、気持ち良かった。

 ただ、時間が経ってくると、傷がじんじん痛んでくるのには参った。傷が熱を持ち始めたようで、鼓動にあわせてずきずきと痛む。

 一人で顔をしかめつつ、俺はぷらぷらと学校の敷地の周辺を歩くことにした。



「おい」

 と声をかけられたとき、俺は正面門から100メートルほど離れたところにある石碑を見ていた。

 静かだけど重い車のエンジンノイズに紛れた呼びかけに、俺が振り返ると、目の前には、俺が10年バイトした金額を全部つぎ込んでも買えないと思われる高級車と、左ハンドルであるがゆえに声をかけやすいところに座っているドライバーのお兄さん。

 少なくとも見覚えのある人ではなかったから、俺を呼んだのは人違いじゃないかと思ってまわりを見たけれど、残念なことに、この近辺にはそもそも人間が俺くらいしかいなかった。

「お前だよ」

 ドライバー氏は苛立つようにいった。

「俺、ですか」

 間の抜けた声だっただろう。自分でも思ったくらいだから、相手にはずいぶん気が抜けた声に聞こえただろう。

「お前、佐藤晃彦か」

 自分の名前を聞いた瞬間、俺はさすがに身の危険を感じた。普通、悪意でもなければ、わざわざ人の名前を確認してはこないものだろう。

 違います、とすっとぼけようとも思ったけれど、それは即座に断念した。

 助手席に、知った顔がいた。

 忘れもしない。

 綾華さんと知り合ったばかりのとき、いきなり朝っぱらから人の目の前で指を突き立て、調子に乗るなといい放ったあの女。

 こりゃ面倒な目に遭いそうだぞ、と、いくら鈍い俺でも、勘付かざるを得なかった。

 この時、俺は明らかに機嫌が悪かった。

 一日で色々仕事をこなして疲れていたし、何より、傷が痛む。徐々にいらいらしてきていた、というのがこの時の俺。

 それが、あの女の顔を見てスイッチが入った。

 完全に。

「少し顔を借りるぞ」

 と左ハンドルの車の運転席から、ややすごむような口調でいわれたけれど、普段の俺ならびびってすぐに従っていたと思う。

 けれど、この時ばかりはそうはならなかった。

 疲れて頭が働かなかったせいもあって、俺は鈍く返答しただけだった。

「はい?」

 その返事が出たのにはもっと理由がある。

 まずひとつ目。相手が、体格的には俺より線が細そうに見えたこと。男は常に、無意識のうちに相手の肉体的強健さを測って自分と比較する生き物なのだ。

 ふたつ目。男の態度がどう考えても俺に敵意むき出しだったこと。敵意を向けてくる相手に友好的になってやらなきゃいけないような規則も法もないし、俺は絶対平和主義者でもない。

 三つ目。綾華さんとの仲を勝手に疑って人を潰そうとした馬鹿女が隣にいたこと。そしてその女が意地悪そうな笑みを浮かべていたこと。

「何とぼけてんだ、ふざけんじゃねえぞ」

 年齢は20代半ばというところか。大学生というにはちょっと世間ずれした感じがする。高校一年の小僧に喧嘩を売れる程度には若いらしい。

「はあ」

 俺はずきずきと痛む頭の傷を気にしつつ、気の抜けた返事を繰り返す。

 それがますます相手の怒気を誘ったようで、運転席のドアが開いた。降りてくる気らしい。

「ちょっとー、やり過ぎないように気をつけてよー」

 車の中から癇に障る声がした。降りてくる男のやる気満々な姿といい、物騒この上ない。普段の俺ならびびって身動きが取れなくなっていただろうと思う。

 確かに身動きはとらなかったけれど、理由は違う。

 けが人の癖に、奇跡的なことに、この時の俺は迎え撃つ気満々だったんだ。

「答えによっちゃただじゃすまさない。覚悟して答えろよ」

 男は俺を下から突き上げるような目で睨みつけた。身長は175センチくらいだろうか。俺より少し低いくらい。体格は俺とどっこいという感じに見える。立ってみると筋肉質な体つきが目立つ。

「はあ」

 俺にはまともに答える気もなかったから、いい加減に声を出した。

「お前、永野綾華とはどういう関係だ」

 意外な名前、とは思わなかった。

 助手席に乗って余裕かましている馬鹿女は、綾華さんがらみででしか記憶に残っていないから、むしろその名前が出てきて当然という気がしていた。

「はあ?」

 たぶん相手を刺激するだろうな、とはわかっていても、いらいらが募っていたから、そういう返事になる。

「答えろ」

 相手はすごんだ。ちょっと肩を揺らせば触れそうなくらいに近付いている。脅し合い、虚勢の張り合いに慣れた人種の動作だと思った。

「どういうって、先輩と後輩ですけれど」

「それにしちゃあ随分なれなれしくしてるそうじゃねえか」

「そう見えますかね」

「とぼけてんじゃねえ、綾華とお前が日曜に会ってるのを見た奴がいるんだよ」

 あ、と思った。

 やっぱり、見られていたんだ。

 あの時は由紀のことしか頭に浮かばなかったけれど、それ以外にも気にすべき人がいたらしい。

 この思考が顔に出たのか、男は低い声でいった。

「心当たり、あるみたいじゃねえか」

「まさかとは思うけれど」

 と、俺はその男の言葉にかぶせるように大きな声を出した。

 土木の現場で鍛えた……というか鍛えないと引っぱたかれるから鍛えた声は、重機の轟音にかき消されない程度には大きくないと意味がない。車のアイドリング音程度じゃ俺の声は少しも覆えなかった。

 男の姿勢がややぐらつく。半歩、後ろに下がった。

「あんた、綾華さんの彼氏じゃないよな」

 そうでないことを祈る、くらいの感じでいってみたんだけれど、男は俺の言葉に、ぐっと一度息を飲んだ後、

「綾華を名前で呼ぶんじゃねえ」

 とすごんできた。

 俺はいい加減頭に血が上っていたから、明らかに自分より強そうな相手でもない限り、中途半端な脅しはかえっていらいらに火を注ぐだけだった。

「なんで名前も知らないような奴に」

 俺はついっとあごを上げて、思い切り相手を見下した。同時に一歩踏み出す。

「んなこといわれなきゃならないんだ?」

 男は異常に強気な俺の態度に、気圧されたらしい。思わず二歩引いた。

 どう考えても素行が悪い先輩方や、不良と呼ばれることに何の違和感も持たない人々と付き合っていると、いやでもこういうときの対処法を知ることになる。頭に血が上っていても、その知識は出てきた。

「ふざけるな!」

 本気で相手を脅すときは低い声で。喧嘩を売るときはでかい声で。

 今出せる最大限の怒鳴り声が俺の口から出た。

 男はまさかそんな展開になるなんて想像もしていなかったらしく、思わずさらに後ずさり、自分の車に寄りかかる姿勢になった。

 ここで追い込むのはセオリーだ。余裕を与えてしまえば、相手を立ち直らせてしまう。

「綾華さんは、俺が好きな女のことで悩んでいたのを察してくれただけだ。やましいことなんか何もない」

 一歩、さらに一歩と相手に詰め寄る。目は相手の目から絶対に外さない。

 相手の顔が、さっきまでの怒りの形相から、戸惑い、恐れの表情に変わりつつある。

 俺はさらに畳みかけた。頭に上った血が勢いを加速させる。

「だいたい、それが人に物を聞く態度かよ」

 ついに距離はゼロに近くなった。のけぞるように車に寄りかかっている男に、のしかかるように視線を下ろす。

「くだらない女乗せていきがってる割に礼儀を知らない奴だな。土方なめてると怪我じゃすまないってこと、知らないわけじゃないだろうが」




「その辺にしといてやれ」

 ポン、と肩に手がかかったのはその瞬間だった。

 苛立ちが最高潮に達していた俺が、睨みつけるようにしてそっちを向くと、その先によく知っている顔があった。

「か、カケスさん」

 カケスさんが、そこにいた。バイト先の社員であり、親父の友人であり、俺の喧嘩の師匠。いや、習ったつもりはないけれども。

「お前がたくましくなったのは嬉しいがな、何も学校の横で喧嘩することはないだろう。場所を考えるんだな」

 視界の中に親父の姿もある。

「あんたも喧嘩を売るなら相手を見てからにするんだな」

 なにやら陰気な顔をしたカケスさんは、俺の肩越しに相手を見た。

 相手は、カケスさんのことを知っているらしい。

「掛巣さん、なんであなたが」

「ん?」

 カケスさんは目を細めるようにして相手を見た後、俺を押しのけるようにした。

 俺はもう毒気を抜かれてしまっていたし、そもそもカケスさん相手に怒りの発作を持続できるほど我も強くない。押されるままに横に移動した。

「なんだ? 知り合いか? 俺は知らんぞ?」

 高校時代、あまりの凶暴さから近隣の不良たちを恐怖のどん底に叩き落したという、伝説の不良だ。カケスさんが知らなくても、相手が知っているということは充分ありえた。

 現役時代から10年、多少横に広がったおかげで、たぶん迫力は以前にも増している。現場で一緒に働いているとただの気のいい兄さんだけれど、本気になったらどれだけ恐ろしい人か、不良上がりが多い同業者から数々の伝説を聞かされている身としては、むしろ迫られている相手に同情すら感じる。

「どうした?」

 親父が、苦笑しながら近付いてきた。

「なんかよくわかんない。いきなり脅された」

「俺にはどう見てもお前が脅しているようにしか思えなかったがな」

「流れ的にそうなっただけだよ」

「まあ、お前から誰かを脅す度胸は無いか」

「その通りです」

 俺も苦笑した。苛立ちは、きれいさっぱり消えていた。

「晃彦は俺の弟分だぞ? 大恩人の息子さんだぞ? 晃彦にいいがかりつけるとか、俺に喧嘩売ってるようなもんだぞ?」

 すべて疑問系で迫るカケスさん。横顔がにやけているように見えるけれど、目も声もぜんぜん笑ってない。

 怖すぎです。いやもうマジでちびりますって。

「何でカケスさんと一緒なの」

「あいつ以外は奥さんの実家にいるんだってさ。向こうの家の誰かが誕生日らしいんだけどな、女だけで宴会するから来るなとか何とかいわれたらしい」

「ああ、それで……」

 陰気な顔をしていた理由がわかった。愛娘にまで「パパは来ないで」とか何とかいわれてしょげていたに違いない。娘関係以外で陰気になることなんかまず考えられない人だ。

「恐ろしく暗い声で仕事の電話してくるから、理由聞いてみたらかわいそうになってな。一人で飲みに行ってもつまらんだろうからうちに呼んだ」

「今日は泊まり?」

「に、なるだろうな」

 こんな親父のどこがいいのか、中肉中背でのほほんとしている顔つきしか記憶に残らないようなわが父を見つつ、カケスさんは親父のどこにああも惚れてるんだろう、と不思議な気分になった。




『なんか、ごめん』

 電話がかかってきたのは、親父が運転する車でカケスさんと共に帰宅した1時間くらい後のこと。

「どうしたんすか」

 柄にもなく暗い声の主は綾華さん。電話といっても、パソコンの無料メッセンジャーサービス。ヘッドレストマイクを使って話すんだけれど、両耳から音が聞こえるから、息遣いなんかが意外と生々しい。

『馬鹿が馬鹿なことして迷惑かけたようで』

 綾華さんの口調は完全にため息交じりだった。

「迷惑ってほどじゃないですけれど」

 むしろカケスさんに脅し上げられて、最後の方は哀れを誘った。




 あの後、カケスさんはもう2分ほど相手をいじめていた。

 大した時間じゃないように思ったら、それは大間違いというものです。あの人の視線を独占する2分間の長さったらあなた。

 身動きもできない状態でうわごとのように「ごめんなさい」を連発する彼に、助け舟を出したのは親父だ。

「掛巣、もういいだろう。それ以上やると自殺しかねんぞ」

 親父の口調も大概気楽なものだったけれど、カケスさんも大概だった。

「してもらっても構いませんがね」

 へっへっと笑い声交じりに応え、その間も相手から目を離さない。

「阿呆、お前のせいならともかく、この場合うちの息子も関係者になっちまうだろうが」

 親父がいうと、カケスさんは盲点を突かれたとでもいいたげな顔になった。

「ああ、なるほど。そりゃいかんな」

 そこでやっとカケスさんの体が彼から離れる。

 一瞬、息をついた彼は、直後に今日一番の気を付けをすることになった。カケスさんがずいっと顔を近付けたからだ。

「……もう一度晃彦に絡むようなことがあれば、どうなるかはわかるよな?」

 わざとらしく、ありきたりな脅し文句を口にするカケスさん。脅すときはわかりやすい表現に限る、というのもカケス理論。

 さらにカケスさんは入念だった。事情なんかこれっぽっちも話していないのに、大体の背景は見た瞬間にわかったらしい。

 彼から体を離すと、運転席の扉を開け、そのまま乗り込んだ。

 びっくりしたのは中の女だろう。ただでさえ、すぐ近くで自分を連れていた男が脅し上げられ、恐怖を味わっていたというのに、その恐怖の対象が自分のごくごく近くまで来てしまったのだから。俺なら2秒で漏らすね。

「さてお嬢。お前、何者だ」

 ぎし、と車が揺れる。運転席にかかったカケスさんの荷重が、サスペンションを沈ませた。

「あ、あたしはかんけいな」

「関係ないとかほざいたらひねり潰すから、それなりの覚悟で答えろよ?」

 鬼だ。この人は鬼だ。

 当然ながら、女は何も答えられなくなった。カケスさんがどんな人か知らなくても、単純に、この人に凄まれれば怖い。まして小柄といっていい少女だ。

「どうせ外の男を焚きつけたか何かしたんだろうが、晃彦に何かいいたいことでもあるのか?」

 女は恐怖に顔をゆがめたまま、ふるふると首を横に振った。

「なら、そんなにびびるこたあない。今日は大人しく帰れ。そして二度と晃彦にかかわるな」

 カケスさんの警告、というより嫌がらせは堂に入っている。なら、という前にタバコを取り出し、ゆっくりとしゃべりつつライターを出し、火をつけた。そしていい終わると大きくタバコの煙を吸い込み、女に向かって盛大に吐き出した。

「わかるな?」

 せきこむこともできず、女は首を今度は前後に振った。泣きそうな顔になっている。

「いい子だ」

 カケスさんは大きな手で彼女の頭をぐりぐりとなでまわしてから、悠々と運転席を降りた。

「わりいな、車内禁煙だったか?」

 などと、立つのがやっとという風情の男に声をかけ、それから俺たちのところに戻ってきた。

「お待たせです」

「悪かったね、収拾役なんぞさせてしまって」

 親父がいうと、カケスさんはタバコの煙を天に吐き出してから答える。

「構いませんよ。今日の晩飯代にしたって安いもんです」

 そういうとにやっと笑った。



 ちなみに、帰ると、母親の反応は、心配されたほど大げさじゃなかった。

 包帯を巻いて帰ってきた俺の姿に面食らってはいたけれど、親父がごく当たり前のことのように怪我の説明をすると、大して反応もせず、「髪が洗えなくても体は洗えるんでしょ? 早くお風呂入っちゃいなさい」と命じ、台所に入っていった。

 カケスさんもいるし、夕飯作りが忙しくて、俺のことに構っている余裕が無かったのかもしれない。あるいは、傷のじんじんとした痛みを無視して俺がへらへら笑っていたのも良かったのかもしれない。



『それ、一応あたしの彼氏ってことになってる奴だわ。ほんと、迷惑かけてごめん』

「やっぱりそうでしたか」

『やっぱりって、あの馬鹿そういってなかったの』

「いや、名乗らせようかと思ったらカケスさんが来ちゃったんで、それどころじゃなくなっちゃったんですよ」

『もうね……あの馬鹿、死んじゃえばいいのに』

「物騒ですね」

 綾華さんの口調があまりらに真面目な慨嘆だったから、おれはちょっとばかりびびった。

『なんかおびえたような顔してうちに来るから、何かと思えばあきちゃん脅しに行って返り討ちに遭ったとか……ありえねーだろ』

 よほど腹が立っておいでのご様子で、吐き捨てるようにおっしゃった。

「今もいるんですか?」

『追い返したわよ、たった今』

「ああ、じゃあ帰したところで電話してきたと」

『そういうこと。ほんとごめんね』

「謝らないでくださいよ、逆にこっちはいらん脅しまでかけちゃってるわけだし」

『あんなの、脅す程度ならいくらでもやっちゃってよ』

「いやいやいや」

 何でこんなに物騒なんだ、と思う反面、少しも彼氏をかばおうとしないことにちょっとばかり不自然さを感じないでもない。

「いいんですか? 彼氏、結構精神的にもきつかったと思いますけど」

『いくらでも苦しめばいいよ、あんなのは』

 綾華さんは盛大に突き放して見せた。

『しかも他の女、車に乗せてたんでしょ?』

「そこまで自分でいいましたか」

『吐かせたのよ』

 カケスさんに脅された上に、自分の彼女にまで責められたわけか。ちょっと本気で同情したくなってきた。

『そいつがあたしとあきちゃんが日曜遊びに行ったこと、ちくったんだってさ』

「ははあ」

 なるほど、そういうことか。

『そいつが何であたしの彼氏の連絡先知ってるのかが不思議だけど、まあそれはまた後で問い詰めるとしてだ』

「はい」

『またあれが行くような事があったら、本気で潰していいから』

「あれって彼氏さんですか」

『そう。もう人間扱いする必要ないからね』

 ひどいいわれようだ。

『それから、その女』

 綾華さんの声がさらに棘を増した。

『誰だか知らないけど、ただで済むとは思わないでほしいわね』

 電話越しにきいているからなおさらなのか、耳元に響く綾華さんの声が恐ろしい。

『あたしと仲良くしてるのが気に入らないとかほざいて、あきちゃんのこと勝手におどしておいて、あたしの彼氏ってことになってる奴の助手席に乗るとかありえないだろ』

「ありえませんなあ」

『絶対追い込むから。絶対追い込む』

 二回いった。この人は本気だ。

「ほどほどにしといて下さいね。そういう奴はたぶん平気で周りも巻き込むから、関わってもろくなことになりませんよ」

『あきちゃんは悔しくないの?』

「別に悔しくは……」

『いきなり脅されるとかわけわかんないでしょ? 悔しいでしょ』

「悔しくはありませんよ。途中からこっちが脅す側になっちゃってたし」

『でも迷惑だったよね、本当にごめん』

 綾華さんがまた謝った。なんか、こっちの方が申し訳なくなってきた。

「謝らないで下さい。俺より、彼氏さんの方を気にして下さいよ。精神的なダメージ、でかかったと思いますよ」

 俺がそういうと、綾華さんはいきなり爆弾を放り投げてきた。

『……いいよ、あんなの。もう別れるし』

「ちょっと待って下さいよ、短気起こさないで」

『短気じゃないよ、しばらく前からそのつもりでいたし』

「はい?」

 思わず聞き返すと、綾華さんはふっと笑った。

『ちょうどいいわ。あの馬鹿切る決心が付いた』

 この人はまた何をいい出すんだろうか。

 ちょうどそのタイミングだった。

 俺の携帯が鳴り出した。

 パソコンを置いているデスクの上にマナーモードのままで転がっている携帯が、ぶぶぶ、と音を立てている。

 画面を見ると、由紀だった。

 俺は迷った。この場合、どっちを優先させるべきか。怪我の心配からかけてきているだろう彼女か、爆弾発言を始めてしまった先輩か。

 その迷いは、ごく短い時間しか続かなかった。バイブの音が、綾華さんにも伝わっていたからだ。

『携帯鳴ってるでしょ。出なよ』

「ああ、まあ……」

『早く出なって。今日はここまでにしとこ』

 そういうと、綾華さんは逃げ出すようにして、あっという間に通話を切ってしまった。

 切られてしまった方は、とりあえずヘッドレストマイクを外し、携帯の通話ボタンを押した。

「はい」

『あ、晃彦くん……まだ起きてましたか?』

「うん、まだ大丈夫だよ」

『遅くにごめんなさい。怪我は痛みますか?』

「多少はね」

 パソコンの画面を見ると、綾華さんはサインアウトしていた。

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