第9話 長い一日は終わらない

 なにをやってるんでしょうか、わたくしは。

 昼下がりの街を、なぜか他人の荷物を持って歩いている自分がいた。

 下北沢の決して広くない道を、人の波をぬうようにして歩いたり、狭い店内であちこち引っかかりながら移動したり、二時間もうろうろしていると、日頃そんなことは絶対にしない人間だけに、その疲労度は学校に行っている平日の比じゃ無い。

 そもそも買い物にわざわざ都内に出てくるって発想が無いもんな。しかも下北沢。

「なに疲れてんの? まだ一日は始まったばっかりじゃん」

 能天気な声を出して俺の背中をバシバシ叩いている人がいる。

「あなたは俺をうんざりさせる名人ですね」

「はあ? こんな美少女とデートできるのに、うんざりとかいっちゃえるわけ?」

「いくらでもいいますよ、俺は」

 綾華さんに決まっている。

 ため息混じり、というよりため息九割の声で俺がいうと、久々の買い物だという綾華さんは、ため息の成分ゼロの声で応じる。

「あーあー、聞こえなーい」

 実に楽しそうだ、俺をいじめているときのこの人は。




 どうしてこの人と歩いているのか。

 元凶はもちろん、早朝の電話。

『あれ? あんたなんで起きてんの?』

「……じゃあ寝ますから、ごきげんよう」

『こらこらこらこら、せっかくかけてんのに、いきなり切るんじゃない』

「あのですね、綾華さん、たまたま起きてましたけどね、寝てて運悪くあなたの電話だと気付いたとして」

『うん』

「出なかったら明日からのいじめが倍増するわけですよね?」

『人聞きがわるいなあ、いじめてないよ、かわいがってあげてるんじゃないか』

「あ、すっげーニヤニヤしてるのが見えるっ」

『なんだよ、見てんのかよ、どこいんだてめっ』

「お約束のボケ、ありがとうございます」

『いえいえ、どういたしまして。ってか、突っ込んでからいえよ、そういうの』

 朝からどうしてこうハイテンションなんだ、この人は。

 って、俺もか。

 なんとなく似たような流れをついさっきも体験したような気がしつつも、会話を続ける。

「で、わざわざかわいげのない後輩に、こんな朝もはよから何のご用でしょうか」

『んー、べつに用はないんだけどさー。アキちゃんがきっとあたしの声を聞きたがっているだろうと……』

 ぷち。

 五秒後に再度着信。

『こら! 切るな!』

「普通バイトがない休日なら完全に寝てる時間なんです。最低限のマナーでしょう。綾華さんはその辺に落ちてるバカな女子高生じゃないんだから、そのくらいわかるでしょう」

 実際、けっこう頭に来ていた。

 ギャグ交じりに会話に付き合っていても、それはそれで良かったんだけれど、綾華さんの俺に対する我がままっぷりがどんどん加速していて、その声音が一瞬で俺の怒りに火をつけてしまった。

 俺の声が異様に冷たかったのか、綾華さんともあろう人が、言葉をつまらせた。

『……ご……ごめん、悪かったよ』

 なんとなくこっちまでばつが悪くなる。いきなり素直に謝るなよ。

「こちらこそ、生意気いってすいませんでした」

『うーん……両成敗ってことで』

「はい、いってこいで」

『チャラね』

 すぐに声が明るくなる。

 由紀の後にこの人と話していると、その切り替えの速さと明るさに、救われる様な気持ちがする。

「で、朝から暇つぶしのお電話ですか?」

『ううん、暇つぶしはこれから』

「はい?」

『今日ね、買い物行く約束してたんだけどさ、相手の都合で昨日の夜に消えちゃったのね』

「俺に付き合え、と」

『うん。話が早くて助かるわ』

「んじゃ素早く却下で」

『えー、ちょっとは考えよーよー』

「たまの完全オフなんですからね、ひたすらだらだら過ごしたいわけですよ」

『いかんよ、若いもんがそんな怠惰なことでは』

「どこのオジサンですか。綾華さんなら声かけりゃなんぼでも買い物友達なんて捕まるでしょうに」

『ところがそうでもないのよ。みんな彼氏持ちでさ』

「それこそ彼氏さんと行ったらいいじゃないですか」

『その彼氏に約束破られたの』

「……彼氏の代わりに俺ってのはどうなんでしょう」

『あたしは気にしないよ?』

「俺は気にしますよ。たぶん彼氏さんも」

『あー、それは大丈夫。あたしがいわなきゃいいだけの話だし』

「いやだから俺が……」

『うん、知ったこっちゃないし』

 この女。

「っていうか、彼氏いないっていってた人がいたじゃないですか、金曜日に話しにいった時」

『いたっけ?』

「そこそこ、都合よくすっとぼけないように」

『気のせいだよ。アキちゃん、その年でもう記憶障害?』

「どこまでもすっとぼける気ですね」

『行くとこまで行くよ、今朝のあたしは』

「勝手に行っちゃって下さって結構ですけどね、お見送りはしますから」

『どうしてそう可愛げが無いかねえ、きみは』

「生まれつきです」

 正直、バカ話が楽しくなってきている。あんなに別世界の人間だと思って敬遠していたのが嘘の様に。

『でね、下北沢に行くからね、往復の運賃くらいは準備しといてね』

「人の話、聞いてます?」

『フルユニクロでもおかんファッションでもいいから、一応隠すものは隠してきてよ』

「本当に聞く気がないんですね」

『でもリュックはやめてよね、あれすげー迷惑だから』

「あーもー本当に聞く気ねーよこの人」

『あんま早いと店空いてないけど、これから出る準備したり、着いてからちょっとお茶してたらすぐお昼近くになっちゃうでしょ』

「ハイハイソウデスネー」

『ってことだからよろしく。準備できたらメールしてね。多分駅集合にすると思うけど』

「拒否権無しですか」

『まさかそんなものが存在するとでも?』

「……かけらでも思っていた俺が馬鹿でしたよ」

『やーいやーいばーかばーか』

「それじゃまた月曜、お仕事で会いましょう」

『あーあー、待った待った、ごめんってば、一緒に行こうよー、楽しいよー?』

 リズムよくぽんぽんと進む会話のテンポと、電話の向こうでくるくると変わる声の表情の豊かさに、俺は思わず笑ってしまった。

 笑った時点で俺の負け。

『あ、笑ったね?』

「はい、笑いました」

『負けは認める?』

「はいはい、認めますよ」

『じゃあ準備とメールよろしくね?』

「わかりました。適当に隠すもの隠して行きますよ」

『多少は気合入れてきなよ? この超美少女と一緒に歩くっての忘れんなよ?』

「自分でそこまでいえる性格の持ち主と歩くってことは忘れられませんね」

『うーん、これがまた客観的事実ってやつだからなー』

「そこまでいえりゃ、もう大したもんですよ。呆れてものもいえない」

『んじゃ黙って集合場所おいで。その大した女とデートできる超絶素晴らしい権利を君に与えてあげよう』

「へーへー、ありがたく承りましょう」

『ぜんっぜんありがたくなさそうだよね』

「とんでもない、この上ない名誉に体が震える思いですよ」

『よろしい。お昼割り勘にする気でいたけど、全額あんたのおごりにしてあげる』

「……聞き捨てならないセリフが聞こえたわけですが」

『まーまー、とにかく準備しなさいって。んじゃあたしも準備すっから。よろしくねーん』



 そして今に至るわけ。



 荷物持ちにくたびれ果てた俺が、ようやく座り込むのを許可されたのは、さらに電車で移動した新宿のカラオケ屋。

 なんでカラオケ屋ごときのために新宿まで来なきゃいけないのか、理解に苦しむのだけれど、いわれるがままについてきたのは俺。文句をいうのは遅すぎた。

「渋谷っていまいち好きじゃないんだよねー」

 路線を選ぶ時に綾華さんがいっていたこと。そういう問題じゃない気がするんですよ、俺は。

「よっしゃ、歌うぞ」

 と、入る前からやる気満々の綾華さんは、いい加減疲れ果てた腕をさすりながらへたり込んでいる俺の事なんか眼中にない様子で、さっさと曲を選ぶとさっさと歌い始めた。

 選曲がすごかった。

『歌舞伎町の女王』

 椎名林檎の名曲。古いけど。だけどさ。新宿だからこれってのはあまりに安直じゃなかろうか。

「セミの声を聞くたびに」

 から始まるメロディ。

 多分上手いんだろうなあ、とは思っていた。

 こういう場合の上手さは、音程を外さないこと。さらに、歌手のクセを完全にコピーすること。カラオケレベルの上手さってそういう事でしょ?

 でも、ちょっとこれは想像を超えていた。

 綾華さん、いきなり歌い出しから自分の世界を展開してきた。

 喉や口で音程をあやつる、上手いけど素人くさいカラオケ名人の歌い方じゃなかった。吐き出す空気の量や圧力で音程をあやつって、声量と音程のバランスで聞かせる、迫力のある歌い方。

 腹式呼吸までできているらしく、喉を絞って声を出す素人の歌い方とはかけ離れた歌い方だった。

 ちょっと待て、なんなんだこの人は。

 綾華さんの普段の声は潤いのある落ち着いたアルトというところで、ちょっと大人びた色気がある、なんて表現してもいいと思う。

 それが、歌い始めた綾華さんの声は、明らかに今まで聴いたことがあるどんな声とも違っていて、上手いとか下手だとか、そういうレベルじゃ無かった。

 圧倒された。一曲目から。

「今夜からはこの街で  娘のあたしが女王」

 最後のファルセットまできっちり歌い上げて、綾華さんは静かにマイクを下ろした。

「す……すげっす」

 素直に拍手していた。

「あらー? やっぱりー? あたしって天才っぽくってさー」

 わざとらしく胸を張ってみせる綾華さんは明らかに突っ込み待ちだったけれど、そんな照れ隠しに付き合う気が無くなるくらい、この人の歌はすごかった。

「いや、マジで天才かも」

 本物のアーティストが目の前で歌ったら、もっと感動するんだろうか。それとも、この人はそういう人々と同レベルにあったりするんじゃなかろうか。なんという無敵超人。

 俺が非常に素直に褒め称える拍手をしたせいか、綾華さんは急に態度を小さくした。

「あ、ああ、あのさ、素で褒めないでくんないかな、すごい恥ずかしいんだけど」

 困ったような顔で笑いながら、俺からちょっと離れた所に小さくなって座った。

「いや、だって、俺、カラオケでこんなに感動したの初めてですよ」

「だからいうなってば」

 綾華さん、タッチパネルのリモコンを俺の方に突き出す。顔を思いっきり下げているけれど、多分赤くなっている。

「とっとと選んで歌いやがれ」

「えー、歌いにくいですよ、あんなん聞かせられた後じゃ」

「ばか、カラオケなんて乗りと勢いでしょうが」

「俺なんかが歌うより、綾華さんが歌ってるの聞いてるほうがいいですって」

「いいから選べっての。命令だぞ、お姉さまの」

 ぐりぐりと体にまで押し付けてくるから、仕方なく選曲を始める。

 といっても、歌えるレパートリーなんて限られているし、あんなの聞かされた後にまともな曲なんか選べるはずがないでしょう。

 乗りと勢い、という綾華さんの言葉に従ってみることにした。

『リンダリンダ』

 もちろん、ヒットした当時の事なんか知らないけれど、ちょっと前に映画になったのを見て、友達なんかともよく暴れながら歌ったりする曲。

 ちんまり歌ってもつまんない曲だし、綾華さんもイントロからのりのりだったから、思いっきりがなって歌ってみた。

「ドブネズミみたいに 美しくなりたい」

 の辺りで怒鳴っても仕方ないけれど、

「リンダリンダ」

 の連呼が始まれば、後は勢い任せになるのみ。上手く歌おうって曲じゃない。

 歌い終わったら疲れきってへたってしまうくらいにぶちかますのが正解。

 そのとおりに歌いきって、軽い喉の痛みを感じながらシートにどさっと座り込むと、綾華さんが大はしゃぎで手を叩いている。

「なんだあ、歌えるんじゃんかあ」

「綾華さんと比べんで下さいよ、空しくなるから」

「なにいってんのよ、かっこよかったよ」

 綾華さんのテンションがいつも以上に高い。

 俺ががなっている間に素早く二曲ばかり入れていたようで、すぐに次の曲のイントロが始まっていたから、それ以上は褒め殺しにはならなかったけれど、この人に歌を褒められて嬉しくならないやつは多分いない。

 俺も単純に嬉しくなって、綾華さんの強力な歌声に包まれながら次の曲を探すという、ちょっと体験できない幸運を味わっていた。

 この日の綾華さんは、当然ながら私服。

 ファッションってなに? 食えるの? という人生を送っている俺にはよくわからないけれど、ブーツカットのジーンズにベージュのライダースジャケットなんて着ているから、背が高くてただでさえかっこいい系の人が、なおさらかっこよくなっている。

 一緒に歩くのが嫌になるくらいに。

 ジャケットの中はラインストーンが並んだ黒いチビ衿のポロシャツで、ちょっとかがんだりすると背中が見えてどきっとする。

 何回か、ジーンズの後ろから下着が見えていたけれど、まあ、あれはそういうものなんだろう。見せてもいいですよ、と自己主張するように、なにやらロゴが並んでいた。

 それでも思わず見入ってしまい、あわてて視線をそらす辺りが、俺も気の小さいムッツリだな、と自己嫌悪に陥らせてくれる。

 そのジーンズに包まれた長い脚を組んで、ヒールが高い黒いパンプスを見せて座っていると、どうしてこの人がおとなしく高校生なんかやっていられるのかと疑問にすら思う。

 それに比べて俺なんて。

 同じジーンズでも俺のは某メーカーのありきたりのストレートジーンズ、上に着ているのはかろうじてユニクロではないものの、郊外によくある量販店で買ったウェスタンシャツ。妹の見たてってのが情けない。中はただのTシャツ。

 それにニューバランスのスニーカーだからね。本当にこの人と歩いてて良かったのかね。犯罪じゃないんかね。

 本来なら視線すら合わせることも許されない、カーストの最上層と最下層の人間が一緒に過ごしている、という気がして、今日は荷物持ちをしながら、ずいぶんとひがみっぽくなったりもした。

 だいたい彼氏がいる人相手に、のこのこ誘われてついてくる辺りがどうしようもない。なにやってんだ俺は。

 そもそも、由紀のことはどうする気なんだ。

 告白されて、会いたいだのこんなにも好きだだのと考えておきながら、同じ日にこうしてはるか最上層カーストにおわすお方と席をともにし、あまつさえその美声を拝聴する機会に恵まれているこの状況。

 嬉しい反面、楽しい反面。

 心がちょっと黒いものに冒されていくのを、俺はカラオケのリモコンをいじりながら、ひどく浮ついた気持ちで眺めていた。

 そして、やけに長い一日は、まだ終わってはいない。



 帰りが問題なんだ、という事に気付いたのが、カラオケもそろそろお開きというタイミング。

 あと10分で2時間分が終わり、というところで、「天城越え」を熱唱する綾華さんを置いてトイレに立った。

 カラオケボックスの狭いトイレで小さい方を済ませ、手を洗う。その水の冷たさが不意に頭を刺激したようで、帰りのことが頭をよぎった。

 あ。

 もしかして、地元で綾華さんと一緒の姿を見られるのって、致命的にやばくないか?

 ただでさえ、相手は綾華さんだ。うちの高校のアイドルで、彼氏持ちで、家は地元の名士。

 俺がその辺うろうろしていたところで誰も気にもしないだろうけれど、綾華さんが彼氏以外の男とうろうろしていたら、目立つことこの上ない。

 それに気付いた瞬間、水の冷たさもあってか、俺は寒気が勢いよく背中を駆け上がって行くのを感じた。

 由紀。

 狭い田舎のこと、絶対耳に入るはず。

 今日は親戚の結婚式でいないにしても、あんな電話をしておいて、その日の内に綾華さんとデートしている男の話が耳に入ったら。

「好きっていってもらえてすごく嬉しかった」

「この先は、直接会ってからいいたいんだ」

  よくいうわ、このあほんだら!

 激しく自分ツッコミしてから、俺はトイレの中で頭を抱えた。

 何やってんだ俺は。ついつい綾華さんのペースにはまって誘い出されて、めちやめちゃ楽しんで。帰りのことも気付かずにのんきにカラオケなんぞ歌ってからに。

 別にやましいことはしていない、つもりだけれど、そういいきってしまうにはあまりに節操がないこの状況。

 これだから童貞君は!

 ひとしきり悶絶したあと、俺は落ち着こうと深呼吸した。

 とたんに、トイレのそれなりの異臭に襲われて、ぶはっと咳き込む。

 あわてて廊下に飛び出して、たまたま通りかかったお姉さま方にじろじろ見られて、それで多少は血が上った頭がすっきりとした。

 とりあえず戻らないと。時間は待ってくれない。

 俺が部屋に戻ろうとすると、ちょうど綾華さんが出てくるところだった。

「どんだけこもってんだよ、便秘くんか?」

 二人分(ほとんど綾華さんの買い物袋だけれど)の荷物をどうにか持ち出そうとしたらしい綾華さんが、ぶーぶーと文句をいう。

「追加料金払うんなら置いて帰ってもいいんだけどね」

 ああ、それも手か、などといおうものなら殴られかねない空気だったから、大急ぎで駆け寄り、荷物を持つ。

「すんませんすんません」

 平謝りした俺が荷物を持つと、それ以上追求するつもりも無かったようで、綾華さんは元気に拳を宙に突き出した。

「さあ、まだちょっと歌い足りないけど、それなりに楽しかったし、次は腹ごしらえだ!」

「はい!?」

 素で返してしまった。

「はいってなによ」

 綾華さん、拳を突き出したまま俺を細くした目で見ている。

 時間は確か現在6時近く。明日は学校。ここは新宿。電車で地元まで乗り換え含めて約1時間。

「えーっと、帰るんじゃなく?」

「あたしに空腹のまま帰れと?」

 やばい。食事そのものに疑問を持ったと思われると、空腹の苛立ちをたたきつけられそうだ。

「……しょ、食事はいいんですけど、次は、とかおっしゃるってことは、食事後もまだラウンドが控えてるってことで?」

「嫌なの?」

 目が細いんです。射るような視線なんです。怖いんです。

「いや……ただ、学生の本分は明日から再開される学校にまずは通うことではないかと愚考する次第なわけでございまして」

「まだ時間余裕でしょ。日付が変わる前に帰れれば全然大丈夫じゃん」

「ちょっと待った」

 反射的に手を上げてさえぎる。

「その考え方おかしいから」

「えー、なんでよー」

 いきなり口を尖らせて可愛らしい声に切り替わっている。いやいや、だまされんぞ。

「普通のマジメな高校生の発想に、午前様じゃなきゃオーケーとか無いでしょ」

「いつの時代の高校生だよ」

「時代関係無いですって。ちなみにうちにゃ門限って物もあるんですぜ、お嬢さん」

「まじで? おかしくない?」

「おかしくないからっ」

 まずい。この人はズレてる。いや、世間的には俺がズレているのかもしれないけれど、高校生が日付が変わるまで遊び回っていて怒られもしないような家庭環境に、俺は育ってない。

「そりゃ、社会人とかならそれでもいいんでしょうけれど、俺には無理です」

 無意識に、俺は地雷を踏んでいたのかもしれない。

 綾華さんには社会人の彼氏がいて、そういう人と付き合ったりしていれば、午前様になることだってあるんだろう。そうでなくても遊んでいる印象が強い人だから、うちみたいなくそマジメな家庭からは想像もできないような自由さで外出しているのかもしれない。

 そんなふうな思い込みが、俺にこのセリフをいわせていた。

 綾華さんは俺のセリフに一瞬目を細めると、真顔になって5秒ほど反応しなかった。

 何かやばいこといったのか、と俺が冷や汗混じりに思い始めたころ、綾華さんは憑き物が落ちたような透明な顔になって、微笑んだ。

「……そうだね、そうなんだよね」

「……」

 どう返していいものかわからない俺が立ち尽くしていると、綾華さんの澄み切った笑顔が恐ろしくきれいに見えて、胸を鷲掴みにされたような気がした。

「いやあ、アキちゃんといると新しい発見があっていいねえ」

「……なんすか、それ」

「いいのいいの、こっちの話。それはそれとしてだ」

 綾華さんは自己完結して歩き出す。

「今日はおとなしく帰るにしてもさ、おなか空いたまま電車乗るの嫌だし、なんか食べて行こうよ。それもNG?」

 声が明るかったから、俺はとりあえずそれに乗っかることにした。何がなんだかわからなかったけれど、綾華さんが機嫌を損ねていなければ、それでいい気がした。

「全然オッケーっす。お昼は割り勘だったし、ここも割り勘の約束だから、晩飯くらいはおごりますよ」

「おーっ、さすが勤労少年、ここもおごりますよ、とかいわない少市民っぷりがすてき」

「まっすぐ帰ります?」

「ごちになりまああああす」

綾華さん、スキップしてる。リアルでスキップなんて見たの、何年ぶりだろう。



「もしかして、由紀となんかあった?」

 いきなり核心を突かれて、口に入れたばかりの広島風お好み焼きを盛大に吹きそうになった。

 綾華さんと入った、靖国通りからちょっと南に入った雑居ビルにあるお好み焼きやさんで、俺はさりげないつもりで「帰りはどうします? 一緒に駅前なんか歩いてたら、ちょっとまずそうな気もしないではないんですけど」と話していた。

 ちょっと考えていた綾華さんが次に発したセリフが、冒頭のセリフ。綾華さん、あなたにはいつから読心機能が追加されたんですか。

 俺は口に入っている物を守るのが精一杯で、涙目になりながらどうにか強引に飲み込み、それから咳き込んだ。

 綾華さんが対面の席で呆れている。

「大丈夫?」

 大丈夫です、と答えかけて、見事にむせる。げっほげっほと何度もせきをしていると、綾華さんが水を入れたグラスを目の前に差し出してくれた。

 ありがたいけれけど、まだ早い。

 ありがとう、の意味で手を軽く上げながら、大きく息を吸って一度息を止め、思い切りせきをした。

 そこでやっと落ち着いて、綾華さんが置いてくれた水を手に取り、慎重に口をつけた。

「今度こそ大丈夫?」

「大丈夫です、ありがとうございました」

「そんだけむせたら、さっきの質問の答えはいらないよ」

「ばればれですかね」

「ばればれですわね」

 綾華さんがにっと笑った。

「そっか、由紀は勇気を出したか」

 洒落かな、と一瞬思ったが、そのつもりはないようで、次のセリフでまた綾華さんは驚かせてくれた。

「意外に早かったわね」

「へ?」

 意外に?

「告られたんでしょ? 由紀に」

 と聞かれて、思わず素直にうなずいてしまうと、綾華さんはかえってつまらなさそうな表情になった。

「文化祭が終わる頃に言い出すのかなあ、とか思ってたけどさ、こんなに早い時期に告るとは。案外手が早い子だったのね」

「……って、知ってたんですか」

「なにを」

「その、由紀が、俺のこと」

「ばればれでしょーが。てか、あんた、気付いて無かったとか?」

 綾華さんが由紀の様子から俺を好きになっていたことを見抜いたのは、俺にとっては驚きだったけれど、綾華さんにしてみれば、俺が由紀の気持ちに気付いていなかった事の方が驚きだったらしい。

「まじで? うそでしょ?」

「いやあ、まったく」

「あたしだましても得しないよ?」

「いや、だましてないし」

「そのにぶさって犯罪的だよねえ、すごいわ、いや、ほんと」

 素で驚いているらしい様子がむかつくわけですが。

「気付くわけないじゃないですか、あんなに避けられてたんだし」

「ありゃ避けてたんじゃなくて、好きすぎて直視できなかったんでしょ」

 綾華さんの表現はストレートすぎてなかなかうなずけない。好きすぎて直視できないとか、そういうのってありえるんだろうか。いや、そんなようなことは由紀にいわれたけれど。

「だって、俺なんかをそういう目で見る人間がいるって事自体、ありえないと思うし……」

「にぶいっていうかさ、気付いてないんだね、あんたは」

 綾華さんは感心したように、頬杖をつきながら俺を見ている。

「気付いてない、というと」

 恐る恐る、という感じで聞いてみると、綾華さんはちょっと首をかしげるようにしてから、頬杖を外した。

「あんた、自分で思ってるよりずっといい男よ。ちょっと自覚しとかないと、まわりの女泣かすだけだよ」

「んなこといわれても」

 綾華さんの声に冗談の気配なんか全然無くて、それが俺をかえって困惑させた。

「俺、今まで女の子にもてたこともないし、そもそも女の子と口きくことだって滅多にないくらいで」

「関係ないでしょ、そんなの。それはあんたの周りの女に見る目がないのか、あんたがあまりに鈍くて気付いてないだけなのか、どっちにしろ、あたしの目がよっぽど腐ってなきゃ、あんたはいい男よ」

 そんなこと断言されても、ねえ。

 俺があたふたと困っているだけで、ろくに反応できなかったのが苛立たしかったのか、綾華さんは続けた。

「ちょっと褒められたくらいで動揺してんじゃないよ、しょーもない」

「す、すいません。てか、褒めてたんですね」

「けなしちゃいないでしょ」

「いや、褒めごろしかなあ、と」

「褒めごろしてどうすんのよ、おごってくれるっていってる相手を。それ以上何か求めて欲しいの?」

「いやいやいやいや」

 慌てた振りをする。

 つい最近まで、もてた経験も無ければ、バレンタインに妹と母親以外からチョコをもらった経験もない、哀しい青春を送ってきた男に、何を言い出すのだろう。俺はこの期に及んでも綾華さんの意図を探り出そうとか考えていた。

 そんな俺に向かって、綾華さんはとどめを刺すような言葉を叩き付けてきた。

「あたしだって、あんたのこと好きだよ」

 俺はこの言葉で完全停止した。

 頭がフリーズした、とかいう問題じゃない。身動きが出来なくなってしまっていた。

 めまいがしそうなほど一気に血が頭に上り詰めて、視界が狭まる。綾華さんの胸元に固定した視線が動かせない。目なんか見た日には、多分、即死する。

 そういう俺の様子を見て、自分の言葉が与えた衝撃を冷静に計っていたらしい綾華さんは、平然とした口調で俺の解凍にかかる。

「まあ、あたしは彼氏がいるし、あんたになびくことは無いにしてもさ。でも、嫌いなやつなら近付く気にもならないし、好きでもないやつと一日遊んでられるほど忍耐強くもないわけ」

 かろうじてうなずく俺を見ながら、綾華さんは続ける。

「友達として好きとか、男として好きとか、そういうのって境界線曖昧だとあたしは思ってるのね。タイミング次第で変わるものなんだろうし、男女で友情が成立するかとか、あほかって思っちゃう人だから」

 この話はどこに行くのか、とはらはらしながら聞く。

「そんなの、女同士の友情だって不変じゃないってのに、今の時点で成立してる友情が永遠に続くと思う方が馬鹿だろって話で」

 それは納得できる気がする。

「だから、あんたのことを好きって思ってるこの感情がどう変わって行くかはあたしにもわかんない。でもね、とりあえず今はね、弟分としてかわいがってるのが楽しくてしょうがないのね」

 弟分として、という言葉に、俺は正直ほっとしていた。

「あたしがそういう後輩作ったのって初めてなのね。告って来る後輩は掃いて捨てるほどいるけどさ」

「まあ、そうでしょうね」

 思い当たる節はありすぎるほどある。

「そういう子達じゃなく、あんたみたいな失礼極まりない小僧をかわいがってるあたり、あんた自身にそれなりに魅力がなきゃ無理な話よ」

「……そうなんでしょうか」

「まだ懐疑的かね、この子は」

 綾華さんがついに苦笑した。

「だって」と、俺はつい拗ねた声を出した。

「今の今まで、俺はモテない人生の裏街道を全力で突っ走ってたんですよ。いきなりそんなこといわれたって、はいそうですかと納得できるわけないでしょう」

「納得しろよ、あたしが素でいってるんだから」

「無理です、いきなりは」

 かたくなな俺の姿勢が笑えるらしく、綾華さんは苦笑というより、にやにやという笑いになってきた。

「で、そのもてないくんは、由紀の告白にどう答えたのかな?」

「……想像はついてるんじゃないですか?」

 あえてカマをかけると、綾華さんはあっさりと口を割った。

「保留中、そんなとこかな」

「正解、です」

 この人はほんとにどこまで洞察力があるのだろう。俺が目を丸くしていると、綾華さんはニヤニヤ笑いをまた苦笑の形に変えた。

「だってあたしと遊びに来てる時点でそう考えるのが自然でしょうが。オッケーしてりゃ来るわけないし、断ってたら人と遊ぶどころじゃない顔してるだろうし」

 見事に見透かされているらしい。

「どうすんの?」

 口元に微笑を浮かべたまま、優しい目をした綾華さんはポンと質問を落としてくる。ついこっちが拾ってしまうタイミングで。

 俺は素直に答えていた。

「受けます」

 それ以上の説明は、この人にはいらないだろう。

 綾華さんはにっこりと笑った。

「おめでとう」



 綾華さんはさすがだった。

「一緒に帰ったらいらない誤解されそうだしね。どうせアキちゃんもそれが気になって仕方ないんでしょ?」

 そういうと、綾華さんは新宿から地元までの乗換駅で、一本遅らせて帰るからといって手を振った。

「俺が遅らせますって」

「妙な気を使うなよ、いいから行けって」

 額を小突かれてしまった。俺が微妙な顔をして見送っていると、綾華さんはホーム横のトイレに姿を消していった。

「……ありがとうございました」

 その背中に向かって、俺は深く深くお辞儀をした。そうしたくなる、綾華さんの背中だった。

 そうして、俺の長い一日は、ようやく終わりを迎えつつあった。

 この時は、そう思っていた。

 立ったまま電車に揺られ、一人になって、ようやく俺の神経は落ち着きを取り戻していった。

 なんだかんだいって綾華さんと一緒の時には、常に昂ぶっていたんだろう。急に疲れがどっと出てきた。

 体力的なものじゃない。もっと、脳の奥から湧き出てくるような疲れ。

 綾華さんにお礼のメールを打つ。なんて書けばいいのか悩んでいるうちに時間は過ぎて行く。

 ようやく打ちおわり、送信しつつ、ふう、と大きくため息をつくと、地元の駅に着く。

 駅前のロータリーをつっきり、最初の交差点で曲がり、家への道をたどり始めた時、携帯が鳴った。

 綾華さんだろうか、と思って携帯を開くと、由紀からの電話だった。

 どきんと胸が動く。

 携帯の画面の中に浮かび上がる「渋谷由紀」の字体をちょっと眺めてから、キーを押し、左耳に押し当てる。時計は9時過ぎを表示していた。

「はい、佐藤です」

 ちょっと硬い声になっていたかもしれない。

『渋谷です』

 聞こえるぎりぎりの声で、由紀が名乗っている。携帯を持つ左手の親指が、サイドキーを数度押して、音量を限界まで上げていた。

「こんばんは。お疲れ様」

 まばらに通る車やバイクの音にかき消されない程度にははっきりした声で、俺は携帯の向こうにいる由紀に話しかけた。

『こんばんは、お疲れ様です』

 オウム返しに小さい声が聞こえてくる。

『こんな時間にごめんなさい。もう寝てましたか?』

「まだ。ていうか、外にいるし。聞こえるでしょ、車の音とか」

『あ、はい』

「どうだった、結婚式。楽しめた?」

『特に楽しくは……親戚が多いから、挨拶してるうちに終わっちゃった感じでした』

「そっか。花嫁さんはきれいだった?」

『ええ、きれいでした。写真もありますから、もしよろしければご覧下さい』

 硬いなあ、この子は。いまどき、電話口でこんな敬語使える高校生っているのかね。

 ていうか、他の家の花嫁にまで興味はないわけで。

「楽しみにしとく」

 と、適当に答えておいて、俺は口調もそのままに話を切り替える。

「で、どうしたの? 声でも聞きたくなった?」

 冗談に聞こえる程度には声に笑いを含めたつもり。由紀はその笑いには反応して来なかった。

『それもあります。でも、そうじゃないです』

「うん」

 何がいいたいのか、なんとなくわかる気はしている。

 今朝の電話の続きだろう。

『せっかく晃彦くんに誘ってもらえたのに、断ったのが気になって……』

「気にしなくていいのに。先約があったんだからそっち優先でしょ」

『それはそうですけど……』

「気にしないで。俺も今日はそれなりに忙しかったし」

『そうだったんです、か』

「久しぶりに休日にネットにつながらない一日だったよ」

『そうですか』

「結婚式ってやっぱ制服で出るの? 振袖着てたりとかはしないんでしょ?」

 多分、由紀には俺がかなり意地悪に思えているんだろうと思う。本題に入りかけて、逸らしている。

『あの……』

 恐る恐る、という感じで由紀が話を切ってくる。

「うん」

 俺はこの時、少し後ろめたさがあった。だって、由紀のことをほったらかしにするみたいに、俺は綾華さんと一日デートしていたわけで。

 由紀の細い声が、まるで俺を責めているように聞こえていた。そんなわけはないのに。

『……』

 電話の向こうから、由紀がためらっているような息遣いが聞こえてきた、気がした。

『……』

 どうした。がんばれ。俺は無言のままエールを送った。綾華さんの完璧超人っぷりをまざまざと見せつけられた一日の後だからか、変に余裕があったのかもしれない。

 あるいは、罪悪感のような物が、どこか他人事のように思わせていたのかもしれない。

 由紀はそんな俺のことをどう感じていたんだろう。それとも、俺の内心を伺う余裕なんか無かっただろうか。

 この電話をかけるのにも、相当勇気が必要だっただろう。でも、かけてしまったものは、なんとか言葉を出さないといけない。

 やっと、由紀は呼吸を整えた。

『……迷惑かもしれないし、失礼だとも思うんですけれど……今から、会えませんか』

「え」

 これはちょっと意外だった。

「大丈夫なの?」

 なぜなら、由紀の家が厳格で、こんな時間に外出できるとは思えなかったから。

『ごめんなさい、やっぱり迷惑ですよね、非常識でした、ごめんなさい』

「いや、そうじゃなくてさ」

 由紀がいつものように暴走しかけたから、俺はあわてた。

「俺はいいんだよ、どうせ外にいるんだし。由紀の方が大丈夫なのかなって」

『それは大丈夫です。父も母も疲れて早く床に入りましたし、他の家族もそれぞれ部屋に入りましたから』

「そうなんだ。でも、ばれたら大変でしょ?」

『やっぱり迷惑ですか? 迷惑ですよね? ごめんなさい、私がおかしいんです』

「いや、だからね」

 この子は。

「大丈夫ならいいんだよ。でも無理はしちゃだめだよ、夜遅いのは確かなんだから」

『無理なんかじゃないです。いつまでも子供じゃないんですから』

「でも女の子だからさ。いくら田舎だっていったって、危ないものは危ないわけで」

『あの、会えないならそれでいいんです、私が勝手に期待して勝手に盛り上がってるだけだから、晃彦くんに迷惑かけたくないし、わがままだってわかってるから』

「こら」

 ちょっと大きく声を出すと、スピーカー越しにも由紀が身を固くしたのがわかった。

「そのすぐ暴走するのを何とかしなさい。可愛過ぎるから」

『……え』

 我ながら恥ずかしいことをいい始めているのがわかるけれど、今さら止まれない。

「会えないとはいってないし、きみのわがままだとも思ってないよ。俺だって会いたいし。声だって、電話越しじゃ物足りないし」

 由紀の息遣いが伝わってくる。押し殺してはいるけれど、わずかにもれてくる息の音の間隔は狭い。

「ちょうど外にいるんだし、会いに行くよ。ちょっと時間はかかるけど、待ってて」

『そ……そんな、私が行きます』

「何度もいわせないでね。いくら田舎でも女の子一人歩かせるわけにはいかないの。まして由紀みたいなかわいい子に来させるとかありえないから」

 普段の俺なら絶対に口にしない「かわいい」という言葉がほいほい出てくる。

 勢いって怖いね。

「出来るだけ早く行く。近くになったらこっちから電話入れるから。待ってて」

『……はい』

 由紀の短い返事に、涙の成分が混じっている気がしたのは、たぶん勘違いじゃなかったと思うんだ。

 こうして、俺の長い長い一日は、何度目かの仕切り直しを迎えた。



 深いワイン色のワンピースの上に白いカーディガンを羽織った姿が、コンビニの強い照明に浮かび上がっている。長い黒髪が濡れたように光っているけれど、まさか風呂上りじゃないだろうな。

 背を伸ばして、あごを引いて、両肘を抱くようにして立っているその姿は、もとが華奢だからはかなげではあっても、電話の声のように弱々しい感じはしない。

 俺が歩いている方向はちょうど死角らしく、すぐ近くに行くまで、由紀は気付かなかった。

 ちょっと大きな声を出せば届く距離になって、由紀が俺に気付いてくれた。ちょうど、声をかけようかと手を上げかけたときだったから、そのまま手を上げた。

「お待たせ」

「あ……ごめんなさい」

「いきなりごめんなさいなんだ」

 思わず笑ってしまった。

「だって、急に呼びつけたりしたから」

 由紀は視線を合わせず、急におどおどして落ち着きなく俺の胸の高さで視線をさまよわせている。頭も揺れるから、メガネのフレームが照明を反射してきらきら光っている。

 かわいらしさを出そうとしているのなら、ここで上目遣いのひとつも炸裂させるんだろうけれど、由紀の場合は本当におどおどしてしまっているらしい。

「その件はさっきの電話で解決したと思ってたけど」

 という俺と、目を合わせるどころか、後ずさろうとしている。本当にこの子は俺のことが好きなんだろうか。

「うん……じゃあ、ありがとう」

 落ち着き先を探して肩からかけたトートバッグにかかっていた両手を離し、からだの前に重ねて丁寧にお辞儀した。

「それならいいよ」

 もう、笑うしかなくなっていた俺がいうと、由紀は頭を上げながらやっと俺の顔を見た。俺はやっと由紀の顔が拝めた。

 風呂上り、ではないらしい。髪はきちんと乾いている。ほとんどの女子が羨望の眼差しを向けること間違い無しのまっすぐな髪が、風も無い夜の空気に触れてしっとりと輝いていた。

 学校ではたいてい後ろで束ねているから、下ろしているのが新鮮だった。中学生の頃には何度か見た記憶もあったけれど、高校に入ってからは見た記憶が無い。

 白い顔は、実のところ、よく見えていない。目が悪いからじゃなく、逆光だったから。由紀がコンビニを背にして立っていたから、暗い住宅街を背中にしている俺には、目がまだ明るさになれていないせいもあって、表情まではよく見えていない。その分由紀には俺の顔がよく見えただろう。

 もっとも、由紀はすぐに顔を伏せてしまっていたけれど。

「移動とかご挨拶とかで疲れてるだろ。どこか、座れるところに行かない?」

 まぶしくて目を細めながらいうと、由紀が小さくうなずいた。

「じゃあ飲み物買っていこうよ」

 俺かコンビニに入ると、由紀は一歩遅れてついて来た。ペットボトルが置いてある一画に来て選んでいる時も、俺の視界に入ってこない。冷蔵庫の扉を閉めてレジに向かおうと振り返ると、さっと違う扉を開けてペットボトルを取り出し、やっぱり俺の後ろについた。

 本当に、本当にこの子は俺のことが好きなんでしょうか。不安になってきたんですけれど。

 なんか以前より強力に警戒されてないか、という疑惑が大きくなっていく中、俺はせいぜいゆっくりと歩きながら、コンビニのすぐ後ろにある公園へ歩いていった。

 由紀の家からは歩いて3分。学校からだと歩いて10分かからない場所にある。小さな公園だけれど、滑り台と砂場と鉄棒があって、北側に一本大きな桜の木がある。そのすぐ近くにベンチが設置されている。

「寒くない? 大丈夫?」

 と、座った直後に由紀に尋ねる。ちょうど隣に座りかけていた由紀は、ふるふると首を横に振った。俺がベンチのほぼ真ん中に座ったのに、由紀は一番端にちょこんと腰掛けて、結界でも張るかのように、俺との間にトートバッグを置いている。

 泣くぞこのやろう。

「で、さ」

 と、俺はちょっと間を置いてから口を開く。視線はまっすぐ前。隣に座る由紀の姿はほとんど見えない。

 何をどう喋ればいいんだろう、と、ここに来るまでは色々と考えていた。

 でも、こうして由紀と一緒に座っていると、考えていたのが馬鹿馬鹿しく感じる自分がいた。

 告白してきておいて、前よりよそよそしくなるってどうなんだよ、という怒りにも似た感情がある一方で、でも自分が相手を好きな気持ちが相手にとって迷惑だったらどうしよう、と考えすぎたあげくそうなってしまっているのだとしたら、それって相当かわいいよな、などと考えている自分もいる。

 考えてきたセリフなんか捨てちまえ。今のこの気持ちをぶつけて、あとは由紀に任せればいいじゃんか。

「きみが俺とのこと、どうしたいかは、よくわかんないけど」

 視界の端に、由紀がピクンとからだを固くした様子が入ってくる。けど、放置。

「だって、なんか今日はやたら壁を作られている気もするし、正直、こうして今会ってるのも、実はきみにとっては重荷だったりするのかなあ、とか考えたりもするし」

 由紀が慌てたように俺を見て首を振っているのが目の端に見えたけど、まだそっちは向かない。いいたいこというのが先。

「でも、俺も、まあ、恋愛経験とかあるわけじゃないし、自分が告白した立場だったら、相手が回答して来てくれてないのにどう振舞えばいいのかとか、多分思いつかないだろうからさ」

 持っていたペットボトルを由紀とは反対側、右側に置く。

「だから気持ちは伝えとく。俺、由紀が好きだよ」

 さらり。

 こんなに簡単に出ていいもんなのかな、と思うくらいさらりと出た、好き、という言葉。

 それから、俺はやっと由紀を見た。

 由紀は、ベンチに浅く腰かけて、ピンと上半身を伸ばしている。手は脚の上にそろえてぎゅっと握られていて、斜めに向けた体から俺をまっすぐに見つめていた。

 メガネの奥の瞳が丸くなっていて、コンタクトなら間違いなく外れている。いつもはきゅっと閉じられている唇は半開きになっていて、要するに、由紀は、呆然としていた。

「……と、いっても信じられないか」

 そんなに驚かれるとは思っていなかったから、こっちまで驚いた。

 俺が付け足すようにいうと、由紀は口をパクパクさせた。

「?」

 首をかしげる。何がいいたいのかまではわからないけれど、少なくとも酸素が足りなくてパクパクしているわけじゃないことくらいはわかるから、由紀の言葉を促そうとした。

 そうしたら、由紀まで首をかしげた。

「いや、そうじゃなくて」

 思わず突っ込んでしまった。

 それで呪縛がとかれたのか、あるいは喉の奥にあった形のない障害物が取れたのか、由紀はひとつ大きく頭を振ると、自分が置いたトートバッグを邪魔とばかりに膝の上に乗せ変え、乗り出すようにしてきた。

「し、信じて、信じていいですか?」

 言葉面にすると勢いよくいっているように見えるかもしれないけれど、実際は可聴範囲スレスレの細い声で、乗り出すようにといってもひどく控えめ。

 ついでにいうと、大きく首を振ったときにメガネがずれている。それを直す気になれないくらい、由紀は俺に集中していた。

 一途な目って、こういう目のことをいうんだろうな、と俺は思った。うす暗い街灯の光しか届かないベンチの上で、由紀の瞳の底から光が湧き出しているように見えた。

 後から考えれば、緊張と集中が高まりきっていた由紀の瞳孔が最高に開いていたってことなんだろうけれど、もちろんそこまで考える余裕はこの時の俺には無い。

「信じてくれなきゃ……」

 妙に、由紀のメガネのズレが気になった。

 いいながら、多分俺はにやけていただろう。好意的に見れば優しい微笑み、悪意に取ればだらしない顔。

 右手が自然に伸びていた。

 じっと俺を見ている由紀の顔の横から、そっと手を近付けて、メガネのつるに触れる。

「……この距離が縮まんないよ」

 するっとメガネが定位置に戻る。

「俺も好きでいていい?」

 ゆっくりと手を戻しながらいう。

 由紀が、視線を俺の目から外さずに両手を上げて、離れようとする俺の右手に触れた。そのまま壊れ物を包み込むようにする。

「……」

 無言で右手を外し、メガネを取ってトートバッグの中に落とし、左手で俺の手を導いて、頬に当てた。

 再び両手が俺の手を包み、手のひらに由紀の頬の体温としっとりした肌の感覚が伝わってくる。

 頬に当てた手をいつくしむようにして、由紀がささやいた。

「……ありがとう」

 閉じた由紀の目から涙がこぼれる。

「なんか泣かせてばかりだね、おれ」

 喫茶店でのことを思い出して俺がいう。

 由紀が目を閉じたまま、ふっと笑う。

「泣いてばかりです」

 こっちの胸が音をたててしまいそうなほど、幸せそうな顔だった。

 もう、遠慮も何も無かった。

 気がついたら、俺は由紀を抱きしめていた。

 といっても、こんなに繊細な生き物をどう扱っていいかわかっていないから、恐る恐るという表現ぴったりの、肩を引き寄せて両腕で包む程度のもの。

 由紀は両手を俺の胸につけて、額を首筋に押し当てるようにしていた。

 腕の中の細い肩も、胸元に感じる息も、いつの間にか当たっている膝も、どれも俺の全身をしびれさせる凶器だった。

 右手で髪をなでる。

「……もう、変に距離取ったりしないでね。寂しいから」

 本音が自然に出た。

 胸で、由紀がうなずいた。伝わってくる息遣いで、苦笑しているのがわかった。

「でも、難しいかもしれません。晃彦くんの前に出るとどうしても緊張しちゃうから」

 ささやきが、甘く耳と心をくすぐる。

「そうなの?」

「はい」

「どうして」

「……」

 少しの沈黙の後、由紀は顔を上げた。

 至近距離で視線がぶつかる。

「どうしようもなく好きだからです」

 そういって目を閉じた由紀の顔を、いつまでも眺めるような馬鹿な真似は、さすがにしなかった。

 2秒後、俺は生まれて初めて、キスをした。

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