第8話 長い一日の始まり

 土曜日はバイト。

 雨の中、カッパを着てひたすら肉体労働に励んだおかげで、恐ろしい量の汗をかいた。雨に濡れてるんだか汗に濡れてるんだか、比喩じゃなくわからないくらいに濡れた。

 家に帰ったころにはへろへろにくたびれた皮袋と化していて、とりあえずシャワーだけは浴びたあと、スポーツドリンクを一気に一リットル飲み干すと、晩飯も食わずに寝入ってしまった。

 起きると日曜日の早朝五時。起きるのが早いというより、寝たのが早すぎた。

 あれだけ寝る前に飲んだのに、起きるとひどく喉が乾いていた。あえて冷蔵庫には入れないでいるスポーツドリンクを飲む。

 家族は全員寝ている。両親は子供に比べれば早起きだけれど、いくらなんでも日曜日に五時起きする趣味はない。妹はほっとけば昼過ぎまで寝ているし。

 夕飯を食べていないことを思い出して、とりあえず何か食べようと台所を探っていると、冷凍した味噌にぎりを発見。解凍して食べる。さほど美味しいものじゃないけど、海原雄山を目指しているわけじゃないからオーケー。

 それから一度自分の部屋に戻ると、スマホがちかちかと光っているのを見つけた。

 開いてみると、メールが二件来ていた。

 由紀からだった。

 時間は最初が土曜日の夕方七時ごろ。二件目が九時頃。

『熱は下がりました。心配かけちゃってごめんなさい。知恵熱だって父に笑われました。本当に熱だけが出て、風邪の症状も何もありませんでした。今、木曜日に書いたメモをまとめています。月曜日には渡せると思います』

 一件目、絵文字ひとつ入っていないメール。女子高生の気配すら感じられない、由紀らしいといえば由紀らしいメールで、むしろ微笑ましいね。

 これに気付かなかったってことは、俺が寝たのはその前ということか。

 二件目を開くと、ちょっと雰囲気が違っていた。

『木曜日のこと、やっぱり忘れてください』

 というタイトルに、俺は思わず眉を寄せた。またなに言い出しやがる。

『メールを送るのも迷惑なことだってわかってます。だから返信はいりません。ごめんなさい。晃彦くんの優しさに甘えて、調子に乗ってました。友達でいいなんてぜいたくもいいません。夢を見させてもらっただけで嬉しかったです。ありがとうございました』

 なに一人で暴走してんだ、こいつ。

 由紀が考えた軌跡が、鈍い俺でもわかる気がする。つまり、一件目で返信が来なかったから、それを待っているうちにどんどん悪い方向に考えてしまって、挙句の果てに大暴走。

 七時に寝てしまっているなんて想像できるはずもないから、仕方が無いのかもしれないけれど、いくらなんでもそんな自己完結はひどいだろ。

 俺も悪いこととはいえ、ちょっと腹が立った。

 すぐにメールを打つ。

『おはよう。こんな時間にごめん。バイトで疲れて速攻寝ちゃって、メールに気付かなかった。ってか、暴走しすぎだし。迷惑だなんて誰がいった? わけわかんないこと書いてないで、このメールに気が付いたらコンマ五秒で電話しろ。携帯、力の限り握り締めて待ってるから、早くしないと壊れてつながらなくなるかもだぞ』

 えらく上から物をいっている気がしたけれど、このくらい書かないと連絡して来ない気がした。

 そして、わずかに怯えてもいた。

 このまま由紀とのことが終わってしまったら、俺はどうなるんだろう。




 いつくるかわからない由紀からのメールを待つ間、俺は外に出た。うちの中でうろうろしていると、起きた後の家族から安眠妨害の説教をくらうことになる。

 秋の雨は上がっていて、空はうす曇というところ。日の出直前の明るんできた空は朝焼けもなくて、どこか重い。なのに空気は澄んだ感じがする。

 近所をぶらぶら歩きながら、つらつらと由紀のことを考えていた。

 告白されてしまった。

 人生初。

 相手が由紀。

 悪い気はしないよな、やっぱ。というより、やばいくらい嬉しい。

 大したことない自分が、突然すごい男になった気がする。

 人に好きになってもらうってことが、どれだけ嬉しいことか、どれだけ心を強くしてくれるか、今までわかったつもりでいたけれど、実感してみると次元が違う。想像なんかじゃ追いつかない。

 どこを好きになってくれたんだか知らないけれど、由紀みたいな物好きも世の中にはいて、俺なんかのことを考えてあさっての方向に突っ走っていたりする。

 由紀にもいったとおり、今まで由紀を恋愛の対象として見たことなんかあるはずも無かった。そもそも接点が無かったし、接点が出来てからは嫌われていると思っていたし。

 あの態度から、由紀の俺への想いを見抜けというほうが無理。

 呼吸するように女を愛するやつならともかく、女とは縁がない暮らしを続けてきた俺に、そのハードルは高すぎるって。

 俺は由紀をどう思っているんだろう。

 かわいい、と思う。

 よく見るときれい、なんてのは失礼な話で、顔さえ上げていれば、誰だって由紀が美形だってのはわかる。いつもうつむいているのは、多分すごくもったいない。

 好きといわれるまで意識しようとしたこともないし、視線すら合わせてもらったことがなければ、この子のことを好きになっちゃいけないって無意識に敬遠してきた部分も、きっとあるんだろうと思う。

 自分が傷つきたくないから。

 じゃあ、嫌われてないどころか、好きといわれてしまった今、由紀のことをどう思っているか。

 木曜の夜、俺は興奮していただけで、自分の心の中なんか見る余裕もなくって、由紀と別れてから寝付くまで、付き合ったらどうしよう、とか、このまま結婚なんかしちゃったりなんかして、とか、そんな風に突っ走ってる自分が急にみじめに思えたり、要するにパニックだった。

 金曜の夜は、熱を出して学校を休んだ由紀からメールも来ていなかったことにちょっとショックを受けたり、携帯忘れてたくせに期待する方も馬鹿だよなと凹んだり、このまま月曜日まで何の連絡もなかったら、やっぱりドッキリの可能性が高かったりするのかなと悩んだり、やっぱり混乱していた。

 土曜日は……それどこじゃなかった。

 そして今日。

 暴走している由紀のメールを見て、俺は怯えを感じた。

 失いたくない、と思っている自分がいる。そのことに気付いた。

 いつの間にか家からだいぶ離れた公園まで来ていた。時間は四十分ほど経っていた。

 やべ、帰るのめんどいじゃんか、と思いつつ、来た道を引き返し始める。再び歩き出しながら、また考える。

 ぐちゃぐちゃ考えずに、今、俺は、何を感じているか。

 会いたい。

 話したい。

 触れたい。

 抱きしめてみたい。

 由紀の想いを確かめたい。

 あの声が聞きたい。

 泣きたいのか笑いたいのかわからない、俺を見るときのあの目が見たい。

 由紀が心から幸せだって笑ってるところが見てみたい。

 俺はいつの間にか立ち止まっていた。

 こんなにも、俺はあの子を欲しがっている。

 俺なんかがそばにいて、由紀がそれで幸せに思ってくれるなら、俺にとってそれ以上幸せなことって無い。

 由紀が俺を思ってくれればくれるほど、俺は高められる気がする。

 ここであいつが「やっぱりごめんなさい」とかいってきたら、俺は立ち直れない自信がある。みっともないけれど、認めちまおう。

 少なくともすぐに立ち上がってみせる強さは、俺には無い。

 虚勢張ったってしょうがないじゃないか、実際、二通目のメールで断られかけて腹を立てていたのは、認めたくないっていう、恐怖の裏返しでしかなかったんだろうし。

 人を好きになるって、こういう感覚なのか。自分の全存在が、相手のほんのわずかな言動でものすごい勢いで揺さぶられたり、高められたり、どん底に突き落とされたり。

 いや、まあ、あのメールはほんのわずかどころか、いきなりバンカーバスターぶちかまされるようなもんだけどさ。

 それはともかく、だ。

 心を持っていかれた、と、立ち止まったまま、俺は思っていた。

 由紀の時間差攻撃。

 三日も経って、俺は由紀への恋を自覚させられた。

 由紀に触れたときの、あの一粒の涙で、俺の心はとっくに由紀に根こそぎ持っていかれてしまっていたんだ。



 俺が相当怒っていると思ったらしい。

『ごめ……なさい……』

 聞き取れないほど小さな声で、由紀は電話越しにいきなり謝っていた。

「あやまらなくていいよ、おどかしちゃってごめんな」

 家に着く前、だから七時にはまだまだ遠い時間にかかってきた電話は、そうして始まった。

「今起きたところ?」

『……はい、メール見て、びっくりして、すぐかけました』

 電話の向こうでは正座してるんじゃなかろうか。想像力のたくましい方ではないと思うんだが、ありありとその光景が目の前に浮かぶ気がした。

「早起きだね。いつも休みの日でもこんなに早いの?」

『今朝はちょっと早く起きなきゃいけなくて……いつもはこんなに早くはないです』

「そうなんだ。俺もありえないくらい早く起きちゃって。ありえないくらい早く寝たからだけど」

『……ごめんなさい』

「何で謝るんだよ」

 失笑してしまった。

 笑い声が伝わって、少し向こうの気配も柔らかくなった気がする。

『なんとなく、です』

「敬語もなんとなく?」

『はい』

 だだでさえ声が小さい方なのに、携帯を通すと外の雑音が逆の耳から入ってくるから、かなり聞き取りにくい。この「はい」という返事も、ぎりぎりで耳が捉えた音。

 この調子で会話していたら、聞き取るだけで疲れ果ててしまうから、俺はさっさと本題に入ることにした。もっと大きな声で、と要求するのは、もう少し由紀が俺に慣れてからでもいい気がする。

「じゃあ、かけてもらってる電話で長く話してもなんだから、用件に入るね」

 わずかにゆるみかけた由紀の雰囲気が、携帯越しにも固くなったのがわかる。

「あんまり緊張しないで聞いてね、怒ってるわけじゃないんだから」

『……はい』

「その前に、脚、崩そうか。正座してるんでしょ」

 ちょっとカマをかけてみると、由紀が息を呑んだのがわかった。

『どうしてわかったんですか? 近くにいるんですか?』

「まさか。自分ちのすぐ前だよ。なんとなくそんな気がしただけ」

 由紀が自分の部屋でおどおどと窓の外をうかがっている様子が目に見えるようで、俺はまた失笑してしまう。

「意外にわかりやすい子だね、謎めいた美少女ってことになってるはずなんだけど」

『……からかわないで下さい、用件ってなんですか』

 ちょっと怒ったらしい。それもかわいい。

 なんて考えていると本気で怒らせそうなので、慌てて軌道修正した。

「用件っていうか、昨日のメール、見てびっくりしたからさ。俺が思ったこと、早く伝えておこうと思って」

『……はい』

 由紀の声がさらに細くなる。

「とりあえず誤解しないで欲しいのはさ。俺、由紀からメールが来たら嬉しいよ。迷惑なんて思わないよ。あんま自虐暴走しないでよ」

『……迷惑じゃないんですか? ちょっと仕事が一緒になったくらいで告白してくる気持ち悪い女ですよ?』

「気持ち悪いって思ってたら、あの日その場で断ってるよ」

『……』

 由紀、沈黙。ごくわずかに息遣いが伝わってくるけれど、気のせいかもしれない。携帯のノイズかもしれない。

「由紀がすごい勇気出して、告白してくれてさ、すごく嬉しかったんだよ。誰かに好きになってもらえるなんて、考えたことも無かったから。その相手が由紀みたいな子でよかった」

 なんかクサイこといいはじめたぞ、俺。

「だからさ、勝手に終わらせるなよ。俺、まだ答えもいってないじゃんか。友達にもならなくていい、みたいな寂しい事いうなよ。そりゃ、俺は由紀に嫌われてるもんだと思ってたから、今までは距離あり過ぎたかもしれないけどさ、好きっていってもらえて、すごく嬉しかったんだ、本当に」

 いっているうちにマジになってきた。字面だとすらすらいっているように見えるかもだけれど、口調はそれほど流暢じゃなかったはず。

「この先は」

 と、俺は一息入れてから、いった。

「直接会ってからいいたいんだ。だから……今日、会えないかな」

 やっとのことで、俺は喉から言葉を絞り出した。

 なにげに緊張していたらしい。携帯を持つ手が震えかかっていて、口が渇いている。

 少し沈黙。

 携帯の向こうで、由紀が息を詰めている。

 それから、押し殺したような息が漏れて、泣きそうな声がそれに続いた。

『……ごめんなさい』

 視界が暗転したような気がした。

 俺、振られている瞬間か?

 頭が一気に沸騰しそうになる。朝の低血圧はどこかに吹き飛び、全身が熱くなっている。

 続く由紀の言葉は、俺の乏しい想像力を超えていた。

『……今日は会えないんです……すごく会いたいけど……これから出かけるの、親戚の結婚式があって、家族みんなで出席しなきゃいけなくて』

「あ……ああ、そう、なんだ、そりゃ無理だよな、ごめん」

『……ごめんなさい、先にいっておけばよかったんですけど』

 由紀の声が本当に涙声になりかけていた。

「祝い事じゃしょうがないよ、目一杯お祝いしてきてよ」

 へららへらと笑いつつ、俺は血がスーッと下がって行くのを感じていた。ほっとしたような、裏切られたような、なんか混乱した不思議な気分。




 で、うちに帰って、起きていた親父に「何してきたの」と問われ、「人生勉強」と答えて不可解な顔をされつつ、俺はリビングの椅子にへたりこんだ。

 もう一日分の精気を使い果たしたような気がしていた。

 すげー空回り。あほみてー。

 気が抜けて、体の力も抜けて、だらっとしていた。

 だから、不意打ちのバイブで心臓が本気でどうにかなるくらい驚いた。

 着信あり。

 あわててポケットから携帯を出して、画面を見る。

『永野綾華』

 は?

 考える余裕もなく、キーを押して耳に当てる。

「はい、佐藤です」

『あれ? あんたなんで起きてんの?』

 朝っぱらからけんか売ってるのか、この人は。

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