第6話 由紀の息遣い

 相変わらず視線は合わない。

 うつむいている由紀の黒髪は、沈んで行く陽の光と蛍光灯の双方に染め上げられて、しっとりと紅くつやめいている。

 徹甲弾の直撃を受けた俺は、生まれて初めての直撃弾の威力の前に呆然としていた。

 ……何をいってるんだこの子は。

 それこそありえないだろ、俺が好きとか。

 なんか勘違いしちゃってるんじゃないのか? ほら、会計と仕事の話してるところ見てるうちに、催眠状態みたくなって、ちょっと付き合いが出来た同級生が素敵に見えちゃったー、とか。

 いや、俺が素敵に見えること自体おかしいだろ。メガネの度が合ってないんじゃないのか?

 てか、頭大丈夫か? とりあえず正気取り戻しとけ?

 いやいや、実はドッキリか罰ゲームとか。由紀がそういうのに乗るかどうかは別としてだな、ふつーに考えたらそれだよな。

 動揺しまくって、でも動けないでいる俺。じっとうつむいたままファイルの前で手を組んでいる由紀。

 開いている廊下の窓から、野球部のバットの音やサッカー部の怒鳴り声、近くの工場の機械の音が、まとまりもなく入ってくる。

 廊下に二人で突っ立っていると、試験期間直前の部活を上がってきた同級生たちが横を通り過ぎて行く。俺たちの事なんか眼にも入れちゃいなかったけれど、その話し声がすぐ近くを通り過ぎていって、やっと金縛りが解けた。

「と」

 口がからからに渇いていて、上手く言葉にならない。

 うめくような俺の声に、ぴくっと由紀が肩を震わせる。

 まるで俺がいじめているみたいじゃないか、怯えてるようにしか見えないぞ。

「とりあえずさ、ここで話もなんだかだし、学校出ようよ」

 どうにか言葉を絞り出す。

 とにかく、間が欲しかったんだ。自分を取り戻す間が。 




 このままじゃ帰ってしまう。

 いつもの別れが積み重なるだけで、一歩も前に進めない。

 友達になることすら出来ずに、このまま距離を置かれて過ごすのはつらいだけ。

 自分で作っている壁を壊して、気持ちを伝えなきゃ、何も変わらない。

 何も始まらない。

 早くしないと誰かにさらわれてしまう。




 そういうことらしい、どうも。 

 田舎のこと。外に出たって、近くにカフェがあるわけでも、ファーストフードが軒を連ねているわけでもなく、二人でお茶でも飲みながら話ができる場所なんて限られている。

 その限られた場所に向かう道すがら、できるだけゆっくり歩いている俺の横で、由紀がぼそぼそという。

 聞こえるぎりぎりの小声だから、聞き逃さないように前かがみになりながら、由紀の声を耳で拾いつつ歩く。

「さらわれちゃうんだ、俺」

 目的地、とっさに二人で話せる場所として思い浮かんだ場所は、学校から歩いて10分ほどのところにある、国道沿いのファミレス、のとなりにある喫茶店。

 ファミレスの方はうちの生徒もよく出入りしているけれど、ファミレスが建つずっと前からそのとなりにある喫茶店は、昔ながらのたたずまいということもあって、あまり高校生は出入りしない。よく潰れないな、と思うくらい、客も多くはない。

 その喫茶店が見えてきたあたりで、俺は苦笑しながらいった。笑うしかない、という感じ。

「カラスみたいにスーッと飛んできてスーッとさらっちゃうわけ?」

 笑いに紛らわそうと、下手くそな冗談を飛ばしたつもりだったけれど、由紀はうつむいたまま軽くうなずいた。

「どんなカラスだよ、物好きもいいところだな」

 心底そう思う。俺なんかさらってってどうするんだっての。バイト代狙いならまだ理解できるけれどさ。

 由紀は俺の右隣を歩いていて、さらに右斜め前に視線を落としながら答えた。

「晃彦くん、人気ありますよ?」

「初耳だな、それ」

 芸がない答えだけれど、事実初耳だったから仕方ない。

「高校入ってから、晃彦くん、変わりましたから」

「変わったか? まあ、バイトはじめて、体格は良くなったと思うけど」

「そういうんじゃないです」

 なぜか、由紀の口調が怒っている。

 理不尽だ。

「ずるいです、はぐらかそうとしてる」

 あげく、批難される俺。

「まあ、苦情やご批判は店内で承りますんで、どうぞ」

 喫茶店の扉を開け、先に由紀を通す。

 扉を開けたとたんに、コーヒーの香りに包まれて、ちょっと幸せな気分になった。

 俺はしょせんガキで、コーヒーの味なんかわかりゃしないけれど、家ではよくブラックコーヒーを飲んでいる口で、入れたてのコーヒーの芳香はちょっと他に代えがたいとも思っている。

 これで少しは落ち着けた気がする。

「俺はブレンドで。由紀は?」

 座るなり注文する。とりあえずコーヒーがあれば良くて、種類なんか選ぶ気になれなかった。

 後で思えば、かなりテンパっていたんだろう。

 由紀は、テーブル席の俺の向かい側に座って、おずおずとメニューに手を伸ばし、うつむき加減にじっと見つめていた。

 喫茶店なんか慣れてないんだろう。

 俺だって慣れちゃいないけれど、相手が自分以上に場慣れしていない雰囲気だったから、これも落ちつける要素になった。

 動転しっぱなしだった俺の神経が、少しずつだけれど鎮まっていた。

「……えっと……ウィンナーコーヒー」

 今時の高校生はそんなもん知らんぞ、という名前を口にされても、驚きはしなかった。

「……って、ウィンナーが乗ってたりはしないよね」

 というべたなボケが出てきたのにはさすがに驚いたが。




 ちなみに、濃いコーヒーにホイップを乗せたもののことで、ウィンナーはかけらも入ってません、念のため。



 メガネを取った由紀のまつげの長さに、俺はちょっと感動していた。

 この前、由紀はいっていた。

『素の自分を出すみたいで、人前でメガネ外すのが得意じゃないの』

 つまり、ここでメガネを外したのは、素の自分を出したいという意思表示なんだろうか。

 由紀が滅多に俺を見たりしないから、こっちは観察し放題だったりする。

 髪が黒いからなおさら引き立つのか、由紀の肌は白い。

 地味目の女子は自分を手入れするという発想が根底から欠けていたりして、よく見なくてもうっすらヒゲのごとき産毛に口元が覆われていたり、見事に男を萎え萎えにしてくれたりするけれど、そんな事もない。

 化粧の気配はまるで無い。リップくらいはつけているようだけれど、色が付いているわけでもない。中学二年の我が妹のほうがよほど人工物まみれになっている。

 眉にわずかにかかるくらいの前髪はふわっとそろえられていて、あまり強くない二重の瞳と調和が取れている。

 全体的につくりが細かい。繊細っていうのか。たとえば綾華さんのように、華麗なほどに整っているという感じじゃなく、小動物的というか、かわいらしいというか。

 それなのに決して由紀がかわいい系の女に見えないのは、それを武器にしているとはとうてい思えない無愛想さのせいだろうな。

 あるいは、無表情さ。硬質な雰囲気があるんだな。秀才型独特の。

 なんて見ていたら、由紀が居心地悪そうにもぞもぞと動きながら、ちらっと俺を見た。

 俺がじろじろ見ている、その視線がうっとうしかったのか。

 目を外しつつ、そういえば、と俺は思っていた。

 さっき思い出したメガネを外すのがどうという話、あのすぐあと、由紀はラーメン屋の店内を百合の舞台に変える離れ業を演じていた。

 あれ?

 由紀って別に百合ってわけじゃないのか?

 いや、本当に由紀が百合だなんて思ってたわけじゃないけれど。でもそうだったら面白いなあ、なんて無責任に考えてもいたわけで。

 などとつまらんことを俺が考えていると、今度は視線を外したまま微妙な顔でぼんやりし始めた俺が気になったようで、由紀がじっと俺の喉元辺りを見つめている。

 大した進化だ。さっきまではせいぜいブレザーの上のボタンだったんだから。

「……あの」

 またしても聞こえる限界スレスレの音量で、由紀が口を開く。

「……さっきの、忘れてくれていいですから」

「……はい?」

 今度は何をいい出す気だろう、この子は。

 由紀の白い肌が紅潮しているのがわかる。ついでにいうと、長いまつげが大半を占めているうつむき気味の目は、間違いなくあと少しで水浸しになる気配だった。

「好きとか、迷惑だってわかってます。ただ、伝えないと絶対後悔するって思って、勢いでいっちゃっただけですから」

 声が震えていた。

 まるで俺がいじめているみたいじゃないか。

 そう思った俺は、急に殴られたような衝撃でめまいすら感じていた。

 みたいじゃねーだろ。この状況、完全に俺が由紀をいじめてる絵だって。

 決死の思いで(多分)告白して、はぐらかされて、なれない場所に連れ込まれたあげくに延々黙られてしまっていれば、そりゃ泣きたくもなるだろう。

「ちょっと待って」

 俺は、意識して抑えた声を出した。一呼吸置いて、続ける。

「正直にいうよ。俺さ、由紀に嫌われてるんじゃないかって思ってたから、由紀を意識するとか、したこと無かったんだよな」

 すらすらとは、いえていない。由紀の細すぎるほど細い肩が、かすかに震えているのが見える。

「だから、好きとかいわれて、ちょっとわけわかんなくなって、今も多分理解できてない。だから」

 だから、の後が続かなくなった、そのタイミングで、二人のテーブルにコーヒーが運ばれてきた。

 俺は一旦話をやめ、由紀は店員に軽く一礼すると、また深くうつむいていた。

 コーヒーの湯気を唇に当て、用心深く小さく一口すする。苦味とわずかな酸味、すっとするような刺激が、熱さに紛れて舌をくすぐる。

 自分が何をどこまで話したかを考え、何がいいたかったのかを考えてから、再開する。

「……ちょっと時間くれよ。そんなには待たせないから」

 おそらく、テーブルの下で、由紀の手はぎゅっと握られているんだろう。ピンと伸びた肘が強張っている。

 言葉が自由に出てこない。何をいっても由紀を泣かせそうで、怖くて、半開きの口をパクパクさせて次の言葉を出そうとするんだけれど、声なんか出てきやしない。

 そのうち、由紀が、ふっと体の力を抜いた。

 全身から出ていた張り詰めた雰囲気が、ちょっとだけ和らぐ。

 下を向いていた由紀が、ゆっくり顔を上げた。

 泣きそうな瞳は変わらないけれど、表情は柔らかい微笑みになっていた。赤っぽい目をまつげで少し隠して、口もとをほころばせている。

 相当でかい口径の精密射撃が俺の胸を撃ちぬいた。

「ずっと見てきましたけど……晃彦くんがこんなに困ってるところ、初めて見ました」

 ずっと? 文化祭の仕事が始まって一週間たってないんだぞ?

 そう思ったのが思いっきり顔に出たのか、由紀の笑顔が大きくなる。

「気付きませんでした? わたし、中学のときから見てましたよ? 好きだよーって念送ったり」

「そ、それはうそだ」

 思わず否定してしまった。だって、いくらなんでもそんなに見られていたら気付くだろう。

 男なんてどいつもこいつも自意識過剰で、俺なんかその日本代表はれるくらいかもしれなくて、そんな俺が女の子に好意の目で見られて、調子に乗らないはずがない。

 由紀は、信じがたいことに、吹き出していた。

「あはっ」

 由紀が声を出して笑うところなんて、それこそ中学時代から見たことがない。小さい学校だったから、同級生の顔なんて一週間で学年全部覚えてしまうほどで、由紀が友達と話しているところや、行事でみんなと頑張っている姿なんかも見てきた。うっすら記憶もある。

 でも、困ったような微笑か、穏やかな微笑ってのがせいぜい。

 笑うんだな、こいつも。

「うん、うそ」

 だれだこいつは。

「晃彦くん、生真面目君ですよね、珍しいくらい。わたしにからかわれちゃうんですから」

「お前……いきなり本性出てきたな」

「だって、晃彦くんの困り顔がすごかったから」

「人のせいかよ」

「はい、晃彦くんのせいです。こんなに緊張してるのも、こんなに笑ってるのも」

 笑ってるくせに、声が震えていた。ほんの少しだけど、それくらいわかる。

 かわいい、と、腹の底から思った。

 胸がつまった。

 何かがこみ上げてくる気がした。

「中学の頃も、でも、いいなあって思ってたんですよ。それ以上じゃなかったけど」

 気が付くと、由紀は俺と目を合わせていた。その瞳から、俺は逃げられなくなっていた。

「ここに入ってから、どんどん意識していったんです。だって、晃彦くん、ずるいくらい成長して行くんだもん」

「……ずるいって」

「ずるいですよ。置いてきぼりにされてる気がして、うらやましくって、気が付いたら好きになってました。いつも目で追ってた」

「全然気付かなかったけど」

「だって気付かれないようにしてましたし。絶対視線合わせなかったし」

「なんだよそれ」

「怖かったんです。気付かれたら、きっと気味悪がられるって」

 由紀の声は大きくない。いきなりよく喋るようになったけれど、由紀は由紀だった。

「でも、たまたま実行委員で一緒になれて、最初の会議でとなりに座れた時、すごくすごく嬉しくって、緊張しまくっちゃって、帰ってから思ったんです」

 いつの間にか由紀は身を乗り出すようにしていた。さして大きくもないテーブルを挟んで、ちょっと手を伸ばせばほほに触れられるくらいの距離。

 息遣いすら感じ取れる距離。

「置いてきぼりになんかされてちゃダメだって。追いつきたいって思った。隣にいたいって、そばにいたいって」

 ささやきに近い声が、俺の耳を占領した。他の音は何も聞こえなかった。

「それがダメでも、自分から追いついていかなきゃって思いました。だから、いわなきゃいけなかったんです」

「……がんばったんだな」

 俺がやっとのことでそう返すと、由紀は首をかすかに振った。

「がんばってないです。いわなきゃって思ってるうちは何もいえませんでしたもん」

 店に入った時に出てきたお冷の中で、氷が音を立てた。由紀の目が一瞬伏せられて、また俺の目に向けられる。今まで見たことがない、強い瞳。

「でも今日は違いました。いいたいって、思ったんです。どうしてもいいたくなったんです」

 また、泣き出しそうな目になっていた。

 気が付いたら、俺は右手を由紀のほほから耳の下あたりにすべらせていた。

 由紀の目が大きく開かれて、わずかな間、全身に力が入って、それから肩から順に力が抜けて、目が閉じられた。

 一粒だけ、涙がこぼれた。

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