第5話 メーデー! メーデー!
朝から降り出した雨は、昼休みになっても上がらずに、小さな粒が根気よく地面を濡らし続けていた。
昼休みに体育館で汗まみれになってバスケをする、というような青春の風景とは縁が無い俺は、文化祭の準備が本格的に始まる前に訪れる最大の障害、中間テストの勉強なんて物をしていた。
うちにいるとまず勉強なんぞしないから、せめて学校にいる間にどうにかしようという、ささやかな足掻きだ。
ガリ勉に見られるのがいやで絶対学校では勉強しない、というような根性も無いし、俺がバイトで週末を潰していることは教室の誰もが知っているらしいから、むしろ同情の目で見られたりする。
「休み時間で出来る勉強なんてたかが知れてるんだから、諦めろよ」
「うっせー」
うっかり赤点なんぞ取ってしまうと、バイトの許可が下りなくなってしまうから、これでも必死なわけだ。
国語系の学科は得意だし、詰め込みの記憶でどうにかなる科目は一夜漬けの山掛けでどうにかするにしても、数学や英語は多少積み重ねないと危ない。
弁当をかき込んだあと、4時間目の数学のノートをまとめ、例題を解こうと無い頭を必死で絞っていると、声がかかった。
「晃彦、客だぞ」
視線を上げると友達が立っていて、教室後ろの扉を指していた。そのまま顔ごと目をずらすと、長い黒髪とメガネで似顔絵が描けそうな女子がいて、俺の方をじっと見ていた。
由紀だ。
友達は冷やかすでもなく、すぐに離れていった。たぶん、由紀が生徒会支給のファイルを持っていたからだ。
同じ待ち姿でも、相手が綾華さんなら大騒ぎになるんだろうな、などと思いながら、俺は愛しい数学の問題を泣く泣く捨てて、立ち上がった。
俺が近付いてくるのを見ると、由紀は扉から離れていった。ついてこい、ということか。
廊下の隅、階段近くの窓際に立った由紀は、改めて近くに立った俺を見た。
見た、といっても、視線は合わせてくれない。相変わらず。じゃあどこを見ているかというと、たぶん俺のブレザーの上ボタンあたり。
まあ、体の向きすら俺から離していた頃と比べれば、ここ何日かでずいぶん距離は縮まったものだ。そう思わないと哀しくなる。
「どうかした? 仕事で間違いでもあったっけ?」
できるだけ柔らかく話しかけてみる。妹あたりが聞いたら「おにい、きしょっ」とでもいって逃げ出すような声だ。こういうのを猫なで声っていうのかもしれない。
由紀は無言のまま首を振った。切りそろえた前髪まで揺れているから、結構強い否定だ。
「あんま強く振るとメガネ飛ぶぞ」
思わず憎まれ口が出てしまった。あ、しまった、と俺が思う間もなく、由紀は「そんなわけないじゃない」という目で一瞬俺と視線を合わせ、すぐにまたうつむいた。
やりにくい嬢ちゃんだぜ、まったく。
「今日は特に由紀に振る仕事は無いよ。会計の所に顔出して、新しい備品の購入枠とか打ち合わせるだけだから」
どうせ由紀の用事なんて限られているわけで、先回りしてしまうことにした。
俺がいうと、由紀はうつむいたまま小さくうなずき、それから意を決したように顔を上げた。
いつもは俺と話していても表情がない由紀が、ちょっと固い顔つきで俺を見上げる。
「その打ち合わせ、わたしも同席していいですか?」
「え……うん、まあ、それはいいけど」
面食らってしまった。
由紀が自分の意志を伝えてきたのが初めてだったから。そもそも俺の目を見て話してきたのが初めてだったから。
「どうしてまた」
俺が尋ねると、由紀はまたうつむいてしまった。「よく見るときれいな顔をしている」といわれる由紀の顔を正面から観察するいい機会だったのに、面食らって動揺しているうちにまた顔が見えなくなってしまった。
由紀はちょっと言いよどむ気配を見せてから、かろうじて聞こえる声でぼそぼそと話し始めた。
「わたしも仕事したいんです。いわれる仕事じゃなくて、自分でする仕事。晃彦くんみたいにはできないけど、せっかく任せてもらった仕事だし、一人でどんどん進めていける晃彦くんに感心してるだけじゃなくて、わたしからも仕事に取り組みたいなって思って」
今までの由紀のセリフ全部合わせても足りないんじゃないかってくらいの長ゼリフを口にし終えると、由紀はファイルを抱きしめるようにして大きくひとつ息をした。
「へえ、そりゃすごいね」
俺は間抜けな返事をした。わざわざこんなつまらない仕事を、買ってまでしようという人間がいるとは思わなかったし、由紀がそれを言い出すのはさらに意外だった。しかも、こんな長ゼリフで。
どうにも棒読みに感じられたのは、準備したセリフを一気に語りきったからだろうか、と気付いたのは、その日の授業も終わり、会計担当の生徒会役員と話をした、その後だった。
だからこの時の俺は何も気付いていない。
「一緒に行くのは構わないよ。二人の方がメモし忘れとか少なくて済むだろうし」
うん、と由紀はうなずいている。
「放課後、在庫の表とかまとめたら生徒会室行くからさ、またうちの教室来てよ」
うん、ともうひとつ由紀がうなずく。
「表のコピーは渡すから、メモ係してて。途中で職員室よってコピーしてもらってから行こうか」
さにらうなずく由紀。視線も合わないし、俺に見えるのは由紀のつむじ。もう喋る気はないらしい。
「んじゃあ、そういうことでよろしく」
というと、それが切り上げのサインだと思ったのか、由紀は最後のうなずきを返すと、つつっと二歩後ろに下がって、くるっと踵を返し、てくてくと歩き出してしまった。
俺は置いてけぼり。
去って行く由紀の背中は小さくて、どこか急ぎ足だった。
会うのも嫌なら来なきゃいいのに、と、俺はやけにひがみっぽくそれを見送っていた。
生徒会役員の中でも、決して花形とはいえない地味な役職が会計。
会計自身の中でもその存在は地味らしく、せっかく人が約束を取り付けて、資料まとめて訪ねてやったのに、すっぽかされそうになった。約束をほぼ完璧に忘れ去っていたらしい。
「悪かったな」
3年生だから受験生でもあり、中間テストを控えてもいるから、色々と忙しいのだろう。にしても、忘れられれば、こっちとしちゃ腹も立つ。
いつまでたっても来ない会計に内心いらいらしていた俺に気付いて、たまたま生徒会室に来ていた副会長が携帯で連絡を取ってくれるまで、会計の先輩は自習室として開放している空き教室にいたらしい。
「きれいにまとめたな。仕事が速くて助かるよ、他のところはまだろくに動いてもいないから」
「まあ、暇っすからね」
せいぜいきつくならないように、穏やかに答えたつもり。顔だってにこやか。
「君ら二人でやったのか?」
先輩は、俺のとなりにひっそりと座っている由紀と見比べるようにしていった。
ええ、と答えかけて、先輩がいっているのは資料まとめのことじゃなくて、在庫チェックのことだと気付いて、いい直した。
「いや、綾……永野先輩も一緒でしたよ」
「へえ、永野が、ねえ」
先輩が目を丸くした。よほど意外だったのか。そりゃそうだろうな。
「先代の生徒会が管理いい加減だったから、片付けながらで大変だっただろう」
「そりゃもう」
「いつか片付けなきゃって会長なんかとも話してたんだけどな、僕らもなかなか暇がなくてね」
やる気が、だろ、と思ったけれど、もちろんいわない。話してみると意外にいい感じだったし。
「とりあえず、クラスごとの申請が来たら新規購入分の配分決めて行く。予算枠はある程度決まってるから、その中でうまく切り盛りしていってくれるかな」
「その枠内でさばいていくって事ですね?」
「資金が足りなくなったらいえ、といいたいところだけど、この前、テニス部が全国行ったおかげで予備費が無くなってるんだ」
「ってことは、後出しであれこれ準備してっていわれたとしても、その時点で予算使い切ってたらそこでアウト、と」
「そういうことだな」
めんどくさそうな話だ。
俺たちの仕事は、生徒会としてクラスごとの出し物用に準備している備品を貸し出したり、管理すること。
貸し出すためには、何が必要なのかを申請してもらわないといけないけれど、どうせぎりぎりになって「あれがない」「これがない」と始まるに決まっている。
プロとしてやっていて、直前になって「機材がない」「材料がない」などとほざいていたら、叱られるどころか首が危うくなる。バイト先の人々を見ていれば、段取りが大事だってことがいやでもわかる。
でも高校生にそこまで望めないだろう。別に大人ぶったり偉そうに考えたりしているんじゃなく、俺もカケスさんたちの下でバイトなんかしてなきゃ、段取りの「だ」の字も理解出来て無かっただろうって思うからだ。
「じゃあ早めにクラス担当に取りまとめしてもらって、あとは上手くケチってやって行くしかないですかね」
「やって行くしかない」
「今あるもので何とか工夫してやってもらうのが原則ってことで」
「そうなるな」
「その工夫も、一緒に考えるんですかね」
「思いつくんならそれもやってあげないとだな」
「備品に関係してることは俺らで独自に判断していいんですか?」
「というと?」
「たとえば板だったら切ったり貼ったりペイントしたり、ここまでは自由に使ってもいいかな、とか」
「ああ、任せるよ。常識の範囲内でな。事後でいいから報告はくれ、金のかかる部分だけでも」
「というと……最終的なリストの更新と、あと必要なら報告書か始末書の提出ってところで手を打ってもらえますか?」
「始末書が出なけりゃいうことは無いけどな。お金つかう場面できっちり領収書上げてもらって、ついでに収支報告もつけてもらえればいうこと無し」
「出金簿みたいなのって、出来てるのあります?」
「ある。生徒会のPCに入ってるから、後でプリントアウトして渡しとく。領収書とか入れる袋も準備しとく。出納は一日毎にな。費目は気にしなくていい」
会計の先輩が、やる気のない生徒会の一員とは信じられないくらい話せる人で、ちょっとびっくりした。とにかく、判断が早い。
後で聞いた話だと、この先輩、実家が町工場を経営しているらしい。商売している姿をずっと身近に見てきたから、生徒会程度の仕事なら、苦も無くこなせるという。
この間、由紀はというと、一言も喋ることなく、俺たちのぽんぽん進んで行く会話をひたすらメモっていた。一字一句逃さず、というわけに行かないのは当然だけれど、かなり上手く要点をまとめている。成績はいい奴だけど、なるほど、ノートとるのも上手いんだろうな、と思わせる。
先輩も由紀も、それぞれ頼れる仕事仲間になりそうだった。
思っていた以上に話がスムーズに運んだから、俺もかなり嬉しかったらしく、テンションが上がっているのが自覚できた。
この時点で、会う約束を思いっきり忘れられていたことなんか、頭から消えてしまっている。
「テストが終われば、会長やらその他の連中も、だんだんその気になっていくと思うんだ。僕達みたいな立場の役目は、あいつらが本気で仕事始めるまでに、舞台を整えておくことだと思うんだよな」
先輩がいう。
「誰かがきっちり段取りしておかないと、上手くいかないだろ? でもそれが出来るやつって、高校生じゃ限られるだろうしさ」
俺が感じていたことをそのまま言葉にしてくれたから、この言葉も嬉しかった。
「僕は人を引っ張って行くような力はないし、主役になれるタイプじゃないから。脇役としてしっかり主役になれる連中を支えて、結果として楽しい文化祭になれば、それが最高だろうって思うわけだ」
線の細い先輩は、そういって笑った。
高校生とは思えないほど、肩の力が抜けた大人の微笑だった。
話が終わって、別れ際、先輩が俺に言葉をかけてくれた。
「佐藤君、文化祭が終わったら生徒会改選がある。僕たちの後を継いでみるのもおもしいぞ。君みたいなのがいないと、来期の生徒会が心配でしょうがないんだ」
たぶん、ものすごい褒め言葉なんだろうと思う。
気分良く打ち合わせが終わって、生徒会室を出たのが5時過ぎくらい。
「お疲れ」
一緒に生徒会室を出た俺と由紀は、並んで歩き始めた。となりのクラス同士だから、帰るにしても、書き取ってもらったメモをまとめるにしても、どのみち途中までは一緒になる。
「メモまとめるの、今日じゃなくていいから。中間テスト終わったらすぐ使えるようにしといてもらえればいいし」
指示、らしき物を口にしたけれど、反応は無い。
というか、多分うなずいたんだろうけれど、わざわざゆっくり歩いているのに一歩遅れてついてくるから、振り返らないと見えやしない。
嫌われているという確信はないけれど、好かれてはいないんだろうなあ、というのはわかる気がした。
もてたこともなければ、いい男って自信があるわけでもなく、ゲイ疑惑がささやかれた実績があるくらい女に縁がない生活を送っている俺としては、こういう空気、一気にテンション下がる。
何となく黙ってしまい、そのまま、となりあった教室が見えるところまで来た。
つい5分前からは考えられないくらいのローテンションになった俺は、もう帰る気満々でいた。
帰宅部の俺に、文化祭の仕事以外に学校に用事なんか無かったし、居残って勉強する気分じゃなくなっている。どうせうちに帰ったって、飯食ってPCいじって、風呂入って寝るだけなんだけれど、この空気に耐えているより100倍まし。
それじゃメモだけよろしく、今日もお疲れでした、なんていおうと口を開きかけた時、由紀の方が先に声を出した。
「晃彦くん」
びっくりした。
「はひ」
思わず立ち止まって直立不動。あほか。
由紀はいつものようにうつむいていて、しばらく何かいいたそうにファイルを両手でいじくりまわしていた。
そのうち、いいたいことがまとまったのか、それとも迷いを吹っ切ったのか、ファイルを抱くようにして手を胸の前で組んだ。
あれ、なんか違う。
俺は違和感に襲われた。
嫌われていると思っていた。好かれちゃいないだろうな、と思い込んでいた。
目の前にいる由紀は、そういう感じにはとても見えない。
錯覚だろ、と俺の中のへたれな自分が防衛線を張ろうとした時、観測弾が由紀から放たれた。
「今日……前からいわなきゃってずっと思ってたんですけど……いいたいって気持ちに変わりました」
相手との距離を測るため、砲戦では観測用の発砲を行う。目標との距離を実際に砲弾を撃つことで測り、正確に射角などを修正してから、一斉に砲撃を開始する。その一斉砲撃を「斉射」という。
……などという軍事用語が頭を駆け巡った。
たぶん、珍しいくらいに俺の勘は冴え渡っていて、由紀の雰囲気を正確に捉えていたんだと思う。
それを認めてしまう前に、由紀からの斉射が俺を撃った。
「……わたし、晃彦くんが好きです」
巨大な徹甲弾が、大気を切り裂いて俺を粉々に撃ち砕いてくれた。
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