第50話 みどりの描く空
わたしは青人を待っていた。わたしがわたしの空を描くために。
白い星空が広がった後、空色職人たちの手で彩り鮮やかな空が描かれた。煌めく金の朝焼け、澄み切った青空、真っ赤な夕焼け、遠い宇宙を思わせる濃紺の夜空。千差万別、行雲流水、空は刻々と移り変わっていった。
白色結晶の爆発で最上層と上層は立ち入り禁止になった。残された中層と下層をフル稼働し、職人学校の講師も3年生も呼ばれ、空を描き続けた。黒い空の修復以上に働き詰めなのに、誰も疲れていないらしい。むしろ、喜びで手が止まらないという。
空は黒色から解放され、美しさを取り戻した。誰もが空から目を離さなかった。
みどりもそうだった。太陽の光に輝く空に、心が潤った。これが空の力なんだ。
早く空を描きたい。
1年生の授業再開の日が決まった。みどりは空の描き方を教わろうと、何度も青人を訪ねたが、まだ会えていない。病院に行くと、とうに退院して仕事へ出かけた後だった。その足で青人のアトリエに行ったが、当然いない。仕方なく手紙を書くことにした。
「退院おめでとう。空を描きたいんだけど、しばらく忙しいの?」
翌日行ってみると、青人から返事があった。
――もうひっきりなしに描いてるよ。寝込んだ分、描きたいんだ。授業が始まったらちゃんと教えるから。それまで、自分で描いてみて。アトリエの霧絵の具も道具も使って良いから。
側に霧絵の具と道具一式、使い方のメモまで揃えてあった。みどりは青人と初めて描いた空を思い出し、同じ青空を描いた。
「どうかな?」
手紙と一緒に写し取ったフィルムを残していった。
次の日の返事はこうだった。
――普通だなあ。初めの課題は自由に描けってことだろ? みどりの理想をぶつけて良いんだよ。
わたしの、理想......? わたしが描きたい空ってどんな空だろう?
新しい空を描いて、今度はどう? と書き置きした。
寮に帰るなり、桃枝が駆け寄ってきた。
「青人さんはほかの3年生より長く、空を描くんだって」
どうして知ってるの? と首を傾げると、桃枝は誇らしそうに胸を張った。
「紅さんから聞いたのよ。今日から染め方を教わってるの」
ほら、と差し出した指先はほんのり茜色に染まっている。果樹園育ちの桃枝が植物を使った染めに興味を持ったのは自然だった。何より、桃枝はきりっとした紅に憧れたのだ。3年生になったら、格好良い桃枝になってたりして。まだ想像できないけど、良いかもしれない。
「代わりに教えようかって、紅さんが言ってたよ」
「大丈夫。約束したから」
授業が始まったら教えてくれると手紙に書いてあった。それに天上の街に下りた時、空が元に戻ったら描き方を教えると、青人は約束した。桃枝はニマッと笑った。
「一途ね」
みどりが追いかけると、桃枝はキャー怖い、と廊下を走った。案の定、寮母に見つかり、2人揃って叱られる羽目になった。頭を下げている間、みどりたちはこっそり目を合わせ、微笑んだ。他愛のない日常が戻ってきた。
翌日も青人の返事があった。
――おれの感想なんて聞くことないよ。今度会う時まで何も言わないから、好きに描いてごらん。
ええ? 普通だなって言ったくせに。だけど確かに、空を描くのはわたし自身、わたしが決めることだ。
みどりは1人、空を描き続けた。
あー違うな。混ぜ方が悪かったのか、濁ってしまった。手を振り回し、描いていた色を散らして消す。床に寝転んで本物の空を観察した。
青空の中に無数の色が広がっている。高い空は色濃い青、低く遠い空は淡い水色。その間を美しく変わるグラデーションが占める。そっか。色じゃなくて濃度を変えたら良いんだ。まだ何にも知らないんだな。
空を描くことで、今まで見えていなかったものが見えてきた。みどりは起き上がり、また描き直した。
ついに、授業の日がやって来た。みどりが寮を出ると、幸先の良い晴天が広がっていた。
空を見上げるとわくわくする。何かが始まる。角膜を出てから、空が近い。雲は風と寄り添って空を渡る。雲が駆け抜けると、空の表情はどんどん変わっていく。早くおいでと呼んでいる。
空がわたしを待っている。
「みどり、行こう!」
桃枝が声を掛けてきた。授業が始まる。やっと青人に会える。
午前中の清々しい空の下、1年生は広場に集まった。白髭の学長がにこやかに出迎えた。いよいよ、授業再開だ。
「全員無事に再会できて、とても嬉しい」
無事という言葉が胸に響いた。みんな元気で、という当たり前の挨拶とは違う。わたしたちが乗り越えたのは、夏休みなんかじゃない。
「本来なら空の禁止法は後で学ぶのだが、君たちは先に黒い空を学んだ。空が人を脅かすことすらあるのだと、肌で体感したことだろう」
1年生の眼差しは真剣だった。入学してから今日までの間、空の恐ろしさと美しさを目の当たりにした。学長はみどりたちを見回し、優しく目を細めた。
「とても苦しい期間だったが、将来、職人になった君たちがどんな空を描くか、楽しみだ。諸君は1年生にして空がどれほど大切な存在か、分かっているのだからね」
心にぼっと灯が点いた。せっかく学校に入ったのに、いきなり黒い空になって災難だと思っていた。だけど、空を知ることができたんだ。みんなの心の灯が燃えた。
「今日から2週間、それぞれの望む空を思う存分、描いてきなさい」
同じ課題を前に、それぞれが新たな空を胸に抱いていた。
わたしは地上の人間。地上に関わった人たちが黒い空にしたことが悔しい。地上の国が白爆を使っていることも。明るい空を怖れる人がいる。空ばかり見てちゃだめだ。まだ見たことのない地上を想わないと。
地上を変えたい。
ずっと地上出身であることを隠してきたけど、後ろめたいなんて思うことない。わたしは地上の血を持ちながら、天上で生きている。根は大地に生え、枝葉は空に伸びている。どっちの世界にも跨がっている。
天地を跨ぐ空色職人になるんだ。誰もが汚したくないって思うくらい美しい空を描く。
だったらどんな空を描いたら良いのか。答えはまだない。描きながら探すしかない。少しずつ役に立つように、少しずつ何かをする。それならできる。そのために技術を身につけるんだ。
わたしの空の色を探すんだ。
「いつまで立ってるんだ?」
気付くと、広場には誰もいなくなっていた。きょろきょろと声の主を捜していると、頭上から笑い声が溢れた。
なんだ。みどりは幹をドンと打つ。
わたしのあおいろ、早く下りて来い。
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