第46話 日暗と青人
だめだ!
青人は重くのしかかる黒い霧の中をもがき、進んだ。持っていた小瓶のわずかな青色でしのいでいたが、耐えられない。一か八か、手探りで捉えた門の扉を開け、転がり込む。どこかの層に出ると、身体が軽くなった。霧は中まで侵入していない。すぐさま扉を閉め、階段通路から流れ込む霧を遮断する。何とか逃れた。
床面に手を付き、長く止めていた息を吐く。やっと呼吸ができた。安堵と共に疲労がどっと押し寄せた。目を開くと、そこは中層だった。いつもなら、走っても平気なのに。あの霧の中じゃ、永遠に続く地獄のようだった。
いつまでも休んでいられない。呼吸が整うのも待たず、霧絵の具のタンクに駆け寄る。手前がカラになっているのを目にし、冷や汗が出る。まさか、ないのか? 黒い空の修復では出番ないはずだ。
祈るように次のタンクに走ると、灰色がたっぷり入っていた。良かった。黄金、夕日、それから......。
あった! タンクに充填された青色はほとんど満タンだ。バルブを思いっきり開け、青色を全身に浴びる。黒色に飲まれかけた意識を起こす。
「さみぃ!」
中層の冷えた空気は青色に濡れた身体に容赦なく吹きつけた。おかげで眠気は吹き飛んだ。門に戻り、手を掛ける。息をいっぱい吸い込み、階段を一気に駆け上がった。全ての階段を上りきり、最後の扉を開けた。
最上層は全体が投影室になっている。地盤の円周を囲むプールに採取された絵の具は修復の白が入り交じったのか、墨色だった。
投影機の向こうに人影が見えた。ケースに入った白い結晶が輝いている。
全力疾走で、声の限り叫ぶ。
「待って!」
投影機を回り込み、相手の前まで出た。高空服を着た人物は、信じられないという顔で青人を見た。この人が誰なのか、二択だった。地上の門、病院、白色結晶の爆破現場、実習棟、今まで歩き、見聞きした全ての記憶を辿り、答えを出す。
「日暗さん」
相手は肯定も否定もせず、立ち尽くした。プールに溜まった絵の具の静かな波音が聞こえる。
「どうやってここまで来た?」
相手は質問の内容を聞きたいというより、不意に現れた青人を見定めたいのだろう。青人も目を離さず、慎重に答えた。
「青色を使ったんです」
「青色を? 青色は海の水と同じなのか」
「うみ...... ?」
何かの専門用語か? 今度は青人が尋ねる。
「あなたが黒い空にしたんですね?」
相手はまた返事をせず、青人を見据えていた。なぜ何も答えない? 無感情な眼差しを向けるばかりの相手に苛立つ。
「どうしてこんなことをしたんですか?」
その人はしばしの沈黙の後、口を開いた。
「君は白爆を知っているか?」
だから何だと言うんだ? 怒りに手が震えた。
「知ってますよ。白爆の正体が白色結晶だってことも。そのせいで地上の人が苦しんでるってことも」
「白色結晶は抹消する。止めるな」
「あんたは間違ってる」
青人は空を塗りつぶした人間に、思いの限りを全部ぶつけた。
「あんたは何も分かってない。自分のせいで苦しむ人がいるって、考えなかったのかよ? 黒い空になってから、人の心は擦り減ってる。作物を守る農家の人も、家族の安全を祈る親も、必死に修復する職人も、みんなだ」
闇の中で作物は育たない。相手の顔も、川も空も見ることができない。心を開けない。光の中でしか人は生きられない。
「しかし、白爆を受けた人々は光を怖れて夜の闇をさまよっている。君は許せるか?」
「空の色が命を奪うなんて、絶対許せない。だけど、あんたのしたことは正義なんかじゃない。誰かを犠牲にするなんて、おれは許さない」
黒い空と白色の撲滅が誰かを守るためだというなら、間違っている。誰かを救うために、誰かが傷つくなんておかしい。どんな事情も理由にならない。
地上の人も誰も望んじゃいない。
「地上も天上も変えたいなら、知ってること、全部話したらどうなんだ? 勝手に死ぬなんて、そんなのただのテロリストだよ。あんたは、空色職人なんだろ?」
ただの破壊者じゃない。戦争家でも、独裁者でも、狂った研究者でもない。
空色職人は自分のために空を描くんじゃない。人の幸せを願って空を描く。この人には他人の気持ちが分かるはずだ。
「あんたの仕事は、独りで始めて終わらせることじゃない。全部責任取って、生きてください」
相手は下を向いた。青人はにらみつけて構えた。何を言われたって、負けるつもりはない。だけど、あの人は声を立てて笑い始めた。
「何がおかしい?」
予想外の反応に、内心怯んだ。本当に狂ってしまったのか?
「おれが君を巻き込まないとでも思ったか?」
相手は背後の投影機のスイッチを押した。起動音が最上層に鳴り響く。白色結晶を掲げ、近付いてくる。青人は身構え、後ずさりした。すぐ側で水音がする。地盤の端まで来た。
あの人の声が高らかに響いた。
「空はこの世に生きるもの全てのためにある。君は正しい」
あっと思った瞬間、青人は突き飛ばされていた。背中からプールに落ち、霧絵の具に飲まれた。墨色の中でもがき、やっと這い上がる。
「君のような若者がいれば、空は必ず美しくなる。最後に会えて良かった」
日暗は笑っていた。それは決して邪悪なものではなかった。
「死ぬな!」
結晶のケースに手が掛かった瞬間、最上層を鋭い破裂音がつんざく。
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