第36話 メッセージ
空を描く灰谷の背中はいつも大きかった。
2年前、青人は初めての課題を前にどうやって空を描くか、ヒントを求めて歩き回った。その時、出会ったのが、灰谷だった。あの人は川で空を描いていた。
灰谷は流れる川の水のように、滑らかに刷毛を動かしていた。描かれていた曇り空に、青空が好きな青人も魅きつけられた。
なんて言うか、鮮やかなモノトーンだった。
青人は背後で見ていたというのに、灰谷が先に振り返った。
「新入生か?」
驚いた。集中してるはずの人が、周りの気配を敏感に感じ取っていた。青人はろくに返事もせず、灰谷に頼んだ。
「空の描き方を教えてください!」
灰谷は腕を組んでみせた。
「挨拶くらいちゃんとしろよ。じゃなきゃ、これから苦労するぞ?」
本当だ。青人は素直に謝った。灰谷は明るく笑い、刷毛を投げてよこした。
「一緒に描こう」
青人は受け取ると、並んで描き始めた。灰谷の真似をしているのに、刷毛は思うように動かない。それどころか、まだ背の低かった青人は刷毛に振り回されてしまった。
手を止めて、先輩の動きを観察する。よく見ると、腰を据えて上体を大きく使っていた。そうか! めちゃくちゃに動き回っちゃいけないんだ。
腰を落として描き始めると、ふらふらしていた視界が定まり、腕が自由になった。刷毛も言うことを聞いてくれた。目の前に澄んだ空色が重なった。
「慣れてきたようだね」
気付くと、灰谷が後ろに立っていた。
「さ、今日はここまでにしよう」
「もう終わりですか?」
片付け始めた灰谷は驚いていた。
「もうって、君が来てからずいぶん経つよ」
先輩が指し示す先に夕日が見えた。橙の燃えるような陽光が川を同じ色に染めていた。夢中になって時間を忘れていた。
「初めて描いたのに、すごい集中力だな」
そう言って灰谷は右手を差し出した。
「おれは灰谷だ。よろしく」
その時、握った手から、全てを分けてもらった気がした。空を描く気概も、美しさを求める心も、それから相手を受け入れる優しさも。
次の日、すぐに山吹と紅を連れて、灰谷に会いにいった。灰谷はいきなり後輩が3人にも増え、さすがに驚いていたが、まとめて面倒を見てくれた。それからずっとお世話になったな。
学校を卒業した時、灰谷はアトリエとともに、白衣をくれた。
「お前にやるよ」
って、かっこ良かったなあ。
大事な人なんだ。おれに空を教えてくれた人。空をよく見たいって地上に旅立ったのに、どうして帰ってきたんだろう? どうして、灰谷さんが捕まったんだ?
青人は警察署内の椅子に座っていた。面会の手続きを終えて、廊下で待機するように言われたのだ。警察の話だと、灰谷は黙秘を続けているという。
「青人くん」
声を掛けてきたのはあの若い警察官だった。
「どうぞ中へ」
緊張して立ち上がる。
部屋の中に入ると、ガラス越しに灰谷がいた。髪も服も汚れ、やつれていた。ぐっと何かが込み上げてくるのを何とか抑えた。
「灰谷さんは犯人じゃありませんよね?」
灰谷は黙って青人を見る。その目の光は何も変わっていなかった。だけど。
「何でも良いです。話してください」
それでも返事はなかった。分からなかった。メモまで残してくれたのに、どうして何も話してくれないんだ? 何でも良かった。弁明してほしい。いや、頷いてくれさえすれば良い。
青人は灰谷から目を離さなかった。
「青人」
その後、灰谷の口元が動いた。聞き取れず、ガラスに顔を近付けた。今、何て言った?
突然、灰谷が立ち上がった。椅子がガンと派手な音を立てて倒れた。
「行け!」
灰谷の叫び声が狭い部屋に響いた。後ろに控えていた警官が灰谷を取り押さえ、ドアの向こうへ消えていった。
呆然と立ち尽くす青人の肩を、背後の警官が叩いた。
「彼は捕ったばかりで気が立っている。気にしなくて良い」
青人は警官の慰めに、上の空で頷いた。
だけど、決してショックを受けていた訳ではなかった。
青人は警察署を出ると、立ち止まって考えた。
灰谷さんはさっき、何て言ったんだ?
真似をして口を動かす。
カイ、ダン?
灰谷の叫びが蘇った。
――行け!
そうだ。空の階段に行け、だ。
青人は新しいメッセージを胸に、走り出した。
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