第33話 走り抜けよ

 小夜は時計を見つめ、約束の時が来るのを待っていた。室内は山積みの本と書類で埋まり、狭い。壁いっぱいの大きな本棚や机の上はもちろん、床にまで積み上げられている。

 時計はカチカチと秒針を鳴らすわりに、いつまでも進まない。待つだけの時間は永遠に続く。

 早くても遅くてもいけない。あの人はそう言った。だけど、このままで良いの?

 小夜の脳裏に、優しかった姉の顔が浮かんだ。


「小夜、雪だわ」

 小夜の故郷に雪が降ることは滅多になかった。その日、姉は窓の外に舞い降りてくる白い光の粒を見つけ、外へ踊り出た。

「お姉さん?」

 小夜は後を追いかけ、外に出した足を引っ込めた。つま先が凍るように冷たい。雪に触れた瞬間、靴の一部が溶けたようになくなった。露になった足の指に白い粉が積もっていた。

 雪なんかじゃない。これはきっと、恐ろしいものだ。

 姉はそのまま姿を消した。


 その雪は、家も街も家族も何もかも、小夜の大切なものを全て奪い去った。当てもなくさまよう中、白爆という名の爆弾の破片が、遠い小夜の街まで飛んで来たのだと、耳にした。

 あの雪を許せない。太陽の眩しい光を目にする度、目に焼き付いた白い景色を思い出し、激しい動悸が襲った。もう光の中では暮らせない。


 小夜は辿り着いた洞窟に身を隠した。全てを包み込む、真っ暗な闇。夜にだけ食料と水を調達しに外へ出た。周囲に同じ境遇の何人かが住んでいたが、みんな他人を見つけると、隠れるように消えてしまった。

 あれからどれくらい経ったんだろう? 何に希望も絶望もすることなく、時を忘れ、ただ、生きていた。そんなある日、灰谷と出会った。


 その日、小夜が水を汲みに出ると、見知らぬ青年が川の側に立っていた。この辺りに潜む人と違って、着ている服に汚れはなく、きれいだった。灰谷は小夜の気配に気付いて振り向くと、微笑んだ。その笑みはどこか寂しげだった。

「星がきれいだね」

 空に浮かぶたくさんの星が語りかけるように瞬いた。小夜は白爆に遭ってから初めて、空の美しさを思い出した。それに、優しく声を掛けられたのも、初めてだった。


 それから灰谷は毎晩少しずつ話を聞いてくれた。恐ろしい記憶を忘れようと、心の奥底に隠してきた。しかし本当は、辛い過去を誰かに打ち明けたかった。話す度、恐怖は消えずとも、不思議と和らいでいった。

 灰谷は全ての話を聞くと、天上のことを語った。この世に空の上に街があるとは、まるで物語のようだ。戦争のない場所で、灰谷は空を描く職人なのだと言った。空を誰かが描いているなんて、信じられなかった。


 行ってみたい。できることなら、黒い空に包まれて生きたい。

 それを聞いた灰谷は悲しい顔をした。黒い空は禁止されていると言う。

「君の望み通りにはならないかもしれない。だけど、一緒に天上に行こう」

 次の日の夜、灰谷と小夜は空の階段を上り始めた。恐ろしく高い、透明な階段に足がすくんだ。同じく透けている壁に守られているものの、視覚的には空中に放り出されているのと変わらなかった。気付くと、小夜は灰谷に背負われていた。その背中はとても温かかった。


 これ以上、白爆で人を失いたくない。 

 小夜は立ち上がり、部屋を出た。廊下に築かれた本の山の間をすり抜け、玄関の扉を開けた。

 夜の森を吹き抜ける風は冷たく、木の葉をざらざらと揺らした。見上げた黒い空に混ざる白色が目につき、思わずたじろぐ。目をぎゅっとつぶり、深呼吸をする。


 行こう。

 小夜は森の中に飛び出した。

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