空色の授業

第20話 灰と黒

　その人は筆をいっぱいに振るい、灰色の空を描いていた。ほとんど黒のような墨色から白に近いライトグレーまで、どれも全て灰色だった。

「どうしていつも曇りばっかり描いているの？」

　紅はその背中に問いかけた。振り返った彼は微笑んだ。

「曇り空は嫌いか？」

　紅はそうねえ、と厚く漂う灰色を見つめる。

「どんよりして落ち込んだ気分になるから」

「なんで？」

「なんでって......不安になる色だし、天気が悪くなるから」

「そう！」

　彼はパチンと指を鳴らし、輝く目を紅に向けた。

「雨や嵐が来ることを知らせるのが、曇り空なんだ。危険が迫る『嫌な感じ』を大切な人に伝えるんだよ。強過ぎる日差しから守ることだってできる。だからおれは曇り空を描く」

　紅にはその目の輝きが眩しかった。鈍い雲に隠された光が射したようだった。

「その『大切な人』の中にわたしは入っているの？」

　若き空色職人はおっ、と不意を突かれた顔をした。その顔が妙におかしくて笑っていると、彼の目はまた光りを帯び、輝いた。

「もちろん」

　彼は筆を握り、再び空を描き始めた。

　紅は目を覚ますと、茜の鉢を抱いていた。灰色の空は消え、アトリエの白壁に変わっている。畑の茜を鉢に移せるだけ移し、居眠りしてしまった。

　灰谷さんはどうしてるんだろう？

　夢の覚めやらぬまま、抱えた茜の葉を見つめる。研修で地上に行ったまま、帰れないでいるだろうか。寒さに震えているかしら？　側にいる誰かを助けてる？　暗い空の下の灰谷が、泣いている子どもの手を取り、励ましている姿が思い浮かんだ。

　大丈夫、大丈夫。

　紅が１年生の頃、空を描けないと泣いた時、灰谷は笑って励ましてくれた。あの日と同じく、地上の子に語りかけているに違いない。

　大丈夫って言った人は大丈夫。

　紅は膝を叩いて立ち上がり、隣りの部屋の扉をそっと開けた。夕日色の天蓋の中を覗くと、今日出会った少女は眠っていた。紅はほっと息をつき、部屋を出た。そのまま扉に背を預ける。

　わたしだってもう、泣いてばかりじゃないわ。

　天井を見上げると、柔らかな薄灰色の雲が脳裏に浮かんだ。視線を落せば、玄関に紅の靴と黒い靴が並んでいる。あの子、小夜は一体どこから来たのか、小夜のお姉さんはどこにいるのか。紅の心に次から次へと疑問が押し寄せた。

　トントントン。

　玄関の扉が音を立てた。紅の心臓がドクッと鳴った。

　トントントン。

　誰？　人が訪ねてくるには遅い時間だ。紅はその場を動けずにいた。

「紅、いるか？」

　あの声。彼女は目を見開いた。走るように玄関に向かい、扉を開く。

　そこに灰谷が立っていた。

「灰谷さん、どうして？」

　髪も服も黒く煤けていた。灰谷は何か言い欠けたが、足下を見て、息を飲んだ。

「この靴……」

「あの子を知っているの？」

「黒い服の女の子か？！」

　灰谷は紅の両肩をぐっと掴んだ。紅は驚きのあまり声が出なかった。灰谷の目には闇が映っていた。紅は辛うじて頷き、隣りの部屋を指差した。灰谷は瞬時にその扉に飛びついた。

「小夜！」

　灰谷は部屋を見回し、天蓋に駆寄った。ベッドの中はカラだった。冷たい風に天蓋が揺れた。窓が開け放たれていた。窓の外には黒い森が続いている。

　灰谷は窓枠を越え、深い闇の中へ飛び出した。

「小夜おー！」

　灰谷は暗闇の向こうへ走り去っていった。紅が呼びかける前に灰谷は姿を消してしまった。

　何が起きているの？

　呆然と立ち尽くす紅の耳に、少女の名前を呼ぶ声が何度も響いた。