第18話 白い部屋

 山吹は仕事を終え、緊張して階段を下りた。入り口で白陽と待ち合わせている。中層の門で霧絵の具の職人たちと出くわした。帰っていく職人たちは全身真っ白だ。気付けば、山吹の手もやはり白くなっていた。

 山吹は上層を振り返り、ため息をついた。一緒に仕事を始めた師匠たちはまだあの渦中にいるというのに、ひとり先に返されてしまった。


 作業中、師匠の乾爺が言っていたことを思い出す。

「こんな日がいつか来てしまうだろうと思っていた。人間は学ばない生きものだ。身を持って体感しなければ、悲惨な歴史を繰り返す。数十年後が心配だ」

「おれたちが伝えていきますよ、乾爺」

 弟子の潤次が即座に答えた。山吹は前を向き、ひとつひとつ階段を踏みしめて下りた。


 研究層に出ると、白陽が待っていた。

「お疲れですね」

「いえ」

 講師は、行きましょう、と歩き出した。山吹は慌てて尋ねた。

「どこへ行くんですか?」

「ついて来てください」

 山吹は本当は疲れ切っていたので、淡白な会話はありがたかった。しかし、淡白な講師が朝と違ってゆっくり歩いているのは、自分を気遣っているのかもしれない。山吹は心の中で感謝しながら、黙ってついて歩いた。


 行き先に、ガラス張りの建物が見えた。2年生の実習棟だ。いつもなら2年生たちが必死に空を描いているはずだが、人気はなく静まり返っている。

 山吹はここで脱落していった何人もの友人を思い出した。2年生は空の原画を1日1つ描き、数をこなす修行の1年間だ。慣れないうちには相当辛い。山吹もこれで終わりか、と思ったことは幾度もあった。データ描写は体で描くより変化を付けるのが難しい。この時ひねり出した技術は今でも役に立っている。

 少なくとも、昨日までは。今日は、次々運ばれてくる散霧機の設置と白色絵の具に対応しているうちに、終わってしまった。それだけで手一杯だったことが歯がゆかい。 


 白陽は白壁の部屋の前に立つと、山吹を振り返った。

「君はこの部屋のことを知っていますか?」

「先生方の会議室ですよね」

「ではあの部屋は?」

 先生はガラスの向こうに位置する黒い部屋を指差した。

「日の光に弱い淡色の倉庫だと聞いています」

 山吹は改めて考えると、白と黒の部屋についてよく知らなかった。常に鍵か掛かっていたし、毎日、空を描くことで忙しく、それどころではなかった。


 白陽は頷き、白い部屋の鍵を取り出して開けた。山吹を中に入れて内鍵を閉めると、部屋の灯りを点けた。

 部屋全体が眩しく、真っ白に輝いていた。床も壁も全面が上質な白鳥石で覆われている。広い部屋の真ん中に見事な木目の円卓がある。美しい白鳥石の中では、平凡に見えた。


「君に新しい仕事を頼みます」

 山吹の胸の中が冷たくなった。あの忙しさで切られることはないと踏んだのが甘かったのか。

「現場から外される、ということですか?」

「修復より重要な仕事です」

「修復より? そんなに重要な仕事を、なぜ生徒に頼むのですか?」

「今は大人より生徒の方が信頼できるのが現実です」


 白陽の目の奥に静かな怒りが宿っていた。この黒い空の中で、何が変わったというだろうか。山吹は返事ができなかった。

「山吹くんにはわたしの代わりにこの部屋を管理してもらいます」

「どういうことですか?」

 管理も何も、部屋には円卓以外、何もない。


「君は白色絵の具の在庫のことを知っていますか?」

 山吹のいた間だけで、高空機が大量の白色絵の具を補充しに何度となくやって来た。どれだけ白色を消費したか、計り知れなかった。

「いいえ。もしかして、もうなくなりそうなんですか」

 白陽は重く頷いた。


「本来なら、保存されていた絵の具で十分足りるはずでした。しかし、6カ所中2カ所の白色タンクに大きな亀裂が入れられていたのです」

「そんな……」

「それも、黒い空になる前に傷つけられていたようです。計画的に仕組まれたことでしょう」

 白色絵の具がないと、黒い空を修復できない。山吹は身震いした。

「もしかして、この部屋に白色絵の具があるんですか?」

「ええ。正確には絵の具ではありませんが」

「じゃあ、何が……?」


 その時、扉があるリズムでノックされた。音は白鳥石の天井と床に響き、こだました。山吹は身構えたが、白陽が扉に歩み寄り、扉を開けた。

「いつまで追い出す気ですか、白さん」

 不機嫌に腕を組んだ梨木が立っていた。梨木はすぐに部屋に入り、扉を閉めた。

「彼が本当に何も知らないか、確かめていたところですよ。木先生」

「もう良いでしょう? 説明はおれがするんで、早く行ってください」

 白陽は薄く笑った。山吹は、梨木をわざと待たせていたんじゃないかと思った。


「ではよろしくお願いします」

 白陽は部屋の鍵を梨木に渡し、そのまま出て行こうとした。山吹はその背中を慌てて呼び止めた。

「待ってください。どうしておれが任されるのか、まだ聞いていません」

 白陽はまたも薄く笑ってみせた。

「君は何も知らないから信用できるのです。それから、口は堅い。冷静にものを考え、回転が速い」


 山吹は驚いた。いつの間に分析されていたのだろうか。職人学校にいて3年目だが、白陽と関わったのは入学試験と1年生の講義くらいだ。データ描写を選んでから、2年生の演習は指導を受けていない。

「木先生と一緒ですから、安心してください。それから、危険になったら逃げてください。以上です」

 山吹が何の返事もできないまま、白陽は暗い空の下へ出ていった。

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