第15話 空の修復
山吹は青人が出発したあと、1人、森の中を早足に抜けていった。ほとんど走っているも同然だった。しばらく行くと、丸い葉の桂林に辿り着いた。荒い呼吸を整える暇もなく、白い扉をノックする。はい、という返事のあと、紅が顔を出した。
「山吹、どうしたの? そんなに急いできて」
「紅を心配して来たに決まってんでしょ」
「バカね」
紅は笑いながら、山吹を招き入れた。どうしてこう、軽くしちゃうんだか。山吹は心の中でぼやいた。でもま、紅の言うバカね、は悪くない。
「これから忙しくなるから、顔を出しに来たんだ」
「忙しくなるって?」
「空を修復するんだ」
「修復って......生徒は危険だからって、参加できないはずじゃない」
「それが、データ描写の技術者が欲しいんだと。大事な白い絵の具を節約したいんだって」
データ描写の散霧機は空気中の色を集めて使う。直接描き込むより少ない霧絵の具で済む。
「その手の職人が少ないから、山吹にも声が掛かったってことか」
「そゆこと」
山吹はチラッと時計を見た。せっかく来たが、話ができる時間は限られている。
「紅は街に帰る?」
「ううん。草花の世話をするわ。これから寒くなるだろうから、できる限り生かしてあげたいの」
紅は染料の茜や紅花を育てている。部屋の中にはすでに植物が移された鉢と、カラの鉢がいくつも並んでいた。
「今は灯りと暖房があって良かったわ。だけど、もし電気が使えなくなったら、わたしも街へ帰るしかない」
紅が深くため息をつくと、山吹はその肩に手を置いた。
「大丈夫、空の技術も進歩したんだ。おれが空を直す!」
意気込んだ山吹に、紅は2、3度瞬きをした。彼女は明るく笑うと、そうね、本当にそう、と何度も繰り返した。山吹もほっと手を解いた。もう行かなくてはいけない時間だ。
「ありがと。それから、気を付けて」
「うん。紅もな」
山吹はまた来る、と紅のアトリエを後にした。結局、地上から帰った灰谷を警察が追い回していることも、青人が灰谷のメッセージを受け取り、真相を探りにことも言わなかった。
今話したら、紅の心配事を増やすだけだ。また今度で良い。山吹は自分に言い聞かせ、桂の林を駆け抜けた。
紅は山吹を見送ると、鉢を抱えて外へ出た。ろうそくで照らされた畑は怪し気だ。室内に引き返してしまいたくなる。だけど、愛しい植物を放っておけない。自らを奮い立たせ、土を掘った。
紅の視界の隅で、炎と異なる影が動いた。
「山吹?」
紅は手を止め、ろうそくをかざした。
山吹は息を切らして走った。紅のアトリエに寄ったことで、集合に間に合うかギリギリだ。森の終わりまで来ると、空の階段の入り口が見えてきた。灯りの下に人影がぼうっと照らされている。間に合ったか。
だが、そこにいたのは見知らぬ警備員だった。先輩職人たちは先に行ってしまったらしい。警備員が山吹をにらみつけた。
「何用だ?」
威圧的なのは当たり前だ。黒い空になってから警戒は高まっている。
「空の修復に来ました」
「生徒だろう?」
警備員は疑わしげに目を細めた。山吹以外、ほかの生徒は来るはずもないのだから、疑われても仕方ない。
「おれはデータ描写の勉強をしていて、数合わせで呼ばれたんです」
警備員たちは不審な学生をじっと見据えた。普段この門に就いている顔見知りの警備員は、紺藤や葵と同じく、病院にいるんだろう。山吹は嫌な汗をかいた。本当のことではあるが、証明するものは何もない。先輩たちと合流すれば何の問題もなかったのに。
警備員の背後で門が開いた。
「彼の言っていることは本当です」
毅然と現れたその人は、警備員以上の威圧感があった。
「白先生……」
山吹はほっとしたと同時に、深く後悔した。警備員を切り抜け、白陽の後ろをついて行った。
「あの、ありがとうございました」
「いえ、君の主張は正しいのですから」
白陽は振り返りもせず、淡々と歩き進めた。どうも白先生は苦手だ。いや、苦手じゃない人はいるのか? 山吹が密かにため息をついたところで白陽はただし、と付け加えた。
「時間厳守でなくては職人は勤まりません」
講師の言葉は山吹の胸に突き刺さった。上層の門まで来ると、白陽は振り向いた。
「仕事が終わったら話があります。階段の入り口で待っていてください」
「……分かりました」
山吹は逃げるように現場へ走った。自分の足音が妙に響く。上層の投影室に入ると、20人あまりの職人たちが忙しなく走り回っていた。
「遅くなりました」
山吹が声を掛けても誰も気に留める者はいない。遅れてきたことを心から反省した。
「山吹、繋げ!」
師匠の乾爺はパソコンの画面を食い入るように見つめたまま、指し示した。その先に1メートル四方の散霧機が設置されていた。4台目は到着したばかりらしく、まだ電源を繋いでいる最中だ。山吹は走ってそこに加わった。
「今頃になって、わしらの仕事が認められるとはなあ! これだからバカでかいマシンの費用を出せと言っとったのに」
乾爺のキーを叩く速度は、悪態をついても緩まることを知らず、カチカチカチと響いた。負けじと打ち込む1番弟子の潤次が乾爺に叫ぶ。
「師匠、これで白色濃度は7.005%です」
それぞれの持ち場で嘆く声もあり、喜ぶ声も上がった。その数値が広い大気でどれほど大きいことか。しかし、これだけ時間を掛けてまだこれほど、と落胆するのも仕方なかった。
「大丈夫だ。目視できなくとも、確実に上昇している。この6時間で0.005%上昇。白色の回収率が徐々に上がっていくから、計算上、次は0.007%上昇で濃度7.012%だ。段々楽になる」
「2週間で元通りになる訳ですね」
ほかの者たちは乾爺と潤次の計算についていけなかった。2週間ということは、80年前の半分の時間で修復することができる。ただ、誰もその間にどれほど寒冷化するのか、予測できなかった。黒い空になって3日目、気候は春から初秋に変わっていた。
放っておけば、世界は凍りつく。山吹の脳裏に、紅の顔が浮んだ。
「させるかっ!」
突如、若造の上げた叫びに、冷静沈着なデータ技師たちは熱く燃えた。
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