第11話 未解決の色

 実習棟で転んだみどりの側に、黄金色の霧が漂っていた。霧絵の具のバケツを蹴飛ばしたんだ。桃枝は追いかけてきた人物を振り返った。

「梨木先生!」

「お前たち、1年の桃枝とみどりか」

 梨木は入学試験の面接官だったから、よく覚えている。もう1人は実技試験の試験官をしていた講師、白陽だった。

 

 梨木は目を怒らせた。

「こんな時分に何しに来た?」

「何だかじっとしてられなくて」

「バカッ!」

 素直に答えた桃枝は梨木に即刻叱られ、しおれてしまった。

 

 みどりが慌てて頭を下げた。

「すみません。こんな空になってしまった理由を、少しでも探りたかったんです」

 みどりの言葉に、白陽は、ほう、と低くうなった。

「それでここまで来たと言うのなら、悪くないですね」

「白さん、何感心してんですか! とにかく帰った帰った!」


 梨木が追い払おうとすると、桃枝が反撃に出た。

「このまま帰して良いんですか? わたしたち、聞いちゃったんですよ」

 ね、と桃枝が振るので、みどりは仕方なく答える。

「ええっと、黒い絵の具がどうとか」

 梨木は、なっ、と短く声を上げ、白陽は眉間にしわを寄せた。桃枝はその反応に調子づいた。

「どこの誰に話すか、分かりませんよ」

「講師を脅迫してどうする!」

 みどりも驚きを通り越して呆れた。


「聞いてしまったなら仕方ありません」

 またしても白陽は意外なことを言った。梨木が何か言おうとするのを、白陽は制した。

「木先生、こんなことが起きたんです。この際しっかり教えてあげましょう。ただし、他言無用だ。話が広がれば、君たちには出ていってもらう」

 白陽の鋭く光る目に、みどりも桃枝も黙って頷くしかなかった。誰かに話したら退学させるという意味だろう。


 一行は白陽を先頭に、黒い部屋に戻った。室内には、ガラスの欠片が床いっぱいに散らばっていた。みどりはガラスの間を縫って中に進み出た。

「これ、何が割れたんですか?」

「黒い絵の具の瓶です」

「この瓶、かなり大きいよね?」

 桃枝が言うように、大きい容れ物だったんだろう。分厚いガラス片が大量に散乱していた。

「簡単に盗めないようにな。まさかこれを持ち出すなんて」

 梨木はいまいましげに床をにらみつけた。

 

 桃枝が首を傾げる。

「黒い空は禁止されているんでしょう? 学校にあったら、危険じゃない?」

「人の目についた方が安全だ。森の中に謎の倉庫があったら、逆に目立つだろ?」

「それにこの部屋は二重にロックされ、勝手に入れないようになっています」

「でも、ここを通らないと次の部屋に行けないでしょ?」

「研究室の脇に廊下がある」

 梨木について部屋から出ると、確かにガラスの廊下が続いていた。


「誰がこの部屋の鍵を持っているんですか?」

「その質問には答えられません」

 みどりの質問を白陽がピシャリと切り捨てた。桃枝がすかさず抗議した。

「教えてくれるんじゃなかったの?」

「何でも教えるとは言ってません。君たちが知るべきなのは、黒い絵の具のことです」

「だったら、絵の具について教えてください。この黒はどこから来たんですか?」

 白陽は相変わらず鋭い目を向けてくるが、構わず続ける。

「『今回の黒は』って言ってましたよね? だったら、前にも同じことが起きたんですか?」


 長い沈黙が続いた。白陽はうつむいたかと思うと、急に声を立てて笑い出した。みどりたちも驚いたが、梨木が1番ぎょっとしていた。

「みどりさんはなかなかですね。君のような生徒が来るとは、嬉しいですよ」

 喜んで良いものか分からない。聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。


「過去の黒い空は、歴史上の物語のように思われいます。もう80年も前のことで、当時生きていた人はほとんどいないのですから。しかし、君たちには覚えていてほしいことです」

 白陽はそう前置きし、話し始めた。


 80年前の焼月、真昼の空が突如、黒く染まりました。星の光さえ失った人々は闇の中でさまよい、行方知れずになったり、川や崖に落ちて亡くなりました。太陽が出ないため、季節は真夏から真冬に変わり、水も大地も凍りついたのです。あらゆる動植物が急激な環境の変化に適応できませんでした。凍え、飢え、多くの命が犠牲になったという記録が残っています。

 空色職人はありったけの白を使い、何とか塗り替えましたが、それには1ヶ月も掛かったのです。今の話からそれがどれだけ長い時間か、お分かりでしょう。

 職人は2度と同じ過ちが繰り返されないよう、空の禁止事項に『黒い空』を明記しました。黒は全て回収、処分されたのです。


 みどりは思わず、えっ、と声を漏らした。

「待ってください。じゃあどうして、ここに黒い絵の具があったんですか?」

 白陽は細い目をさらに細めた。答えはなかなか返ってこない。腕組みしながら聞いていた梨木が、はあーと大きなため息をついた。壁もたれていた背をだるそうに起こした。 

「空色職人学校のもう1つの顔は、空色研究所だ。つまり、この世に存在する、あらゆる空色の限りない研究機関だ。黒色も研究対象に入る」

「だからって持っていたら危険ですよね?」

 外に広がる黒い空がそれを物語っている。誰かに悪用されたのだ。

「故に学校が黒色を保管していることは重要機密です」

「おまえらも職人を目指す身だ。誰にも言うな」


 とんでもないことを聞いてしまった。梨木は黙って帰ってりゃ良かったのに、とぼやいた。だけど、みどりにはまだ確かめたいことがあった。

「黒を処分したって、どこに捨てたんですか?」

「捨てたってより、元に戻したらしい」

「元に……?」

「黒色は本来、天上には存在しない色だったのです」


 みどりは『天上には』という言葉にドキッとした。つまりは……。

「地上へ赴いた研究者が黒を発見したのです。真相は未だ解明されていませんが、地上の人間が天上に黒色を持ち込み、空を黒くしたという見方もできます」

 みどりの全身の血が凍った。まさか、いや、でも、憶測に過ぎない。だって、未解決なんだから。

「黒色は地上の洞窟や奥深い地下を漂っている、と報告されています。先人は地上のそのような場所に返したそうです」


 何だか寒くて仕方ない。みどりは身震いした。気付いた桃枝が寄り添った。

「少し話し過ぎましたね。後は我々に任せて帰りなさい」

 今まで鋭かった白陽の目が、わずかに和らいだ。なんだかんだ言って先生なんだ、とぼんやり思った。


 実習灯を後にし、桃枝と川伝いに歩いた。みどりは懐中電灯の光を受けて煌めく水面を、ずっと見つめた。闇の中でも水はきれいだ。

 でも、人の心はきれいなの?

 目の前に広がる黒い空が、おまえはどうだ、と問いかけてきた。

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