Ⅱ.異端の空
第8話 黒い空
夜、青人がアトリエに戻ると、ランタンが灯っていた。階段を上がると、寝転がっていた山吹が、よっ、と手を挙げて迎えた。
「夜まで出掛けるなんて珍しいな、青人」
「うん……」
山吹は身を起こし、考え込む青人を覗き込んだ。
「何かあった?」
「気になることがあってさ」
青人は最下層の門の側にいた、『影』の女の子のことを話した。その暗い瞳に嫌なものを感じたことも。
「森の中を見て回ったけど、何もなかった。思い過ごしだよな」
「そうかなあ」
山吹の言葉にドキッとした。
「何か起こるなら、これからなんじゃないか」
ランタンの炎があちこちに影を作っている。夜のアトリエに、山吹のネオングリーンの眼鏡が浮き立って見えた。
「青人は感性って鋭いっていうか、感度が高いからさ」
幼馴染みに言われると、思い過ごしでもない気がしてきた。
「今日は寮に帰るのか?」
「いや」
青人は山吹と同じ寮だ。制作が盛り上がった時は、そのまま帰らずアトリエに泊まる。
「そうとなったら、今夜はおれも帰らないよ」
「え?」
「言ったろ? 青人のヤな予感は当たるんだよな」
山吹が言っているのは、職人学校に来る前のことだ。背を丸め、周囲をきょろきょろ警戒している男を見つけた。山吹と一緒につけたら、その男は放火犯だった。
灯りが揺れる度に、ものの影が生き物のように動く。青人は急き立てられたように立ち上がった。
「行こう」
2人はアトリエを降り、影の少女がいた空の階段の入り口に向かった。
ランタンに照らされた森は秘密めいている。木々の広場に出た時、空を広く見渡せた。空に浮かぶ星がひとつ、ふたつ、光を失った。
「あ」
「どうした、青人?」
瞬きにしては、星の輝きは元に戻らない。流れ星でもなかった。
「星が消えた」
空のある方角から、星がひとつ、またひとつと、目の前から消えていった。いや、消えていくのは星だけじゃない。雲もないのに、夜空全体が暗くなっていく。月までが姿を消した。
「青人!」
山吹に指差されて森を見ると、ランプの火が届かない先は、完全な黒に包まれていった。まるで木々がなくなったみたいだ。これは……。
「黒い空だ!」
青人が叫んだ瞬間、周囲は黒い闇に覆い尽くされた。
みどりは量の廊下で窓辺に頬杖をつき、夜空を見上げていた。その日、結局、青人には会えなかった。紅のアトリエを出た後、青人を待ったが、夕方になっても帰って来なかった。
桃枝に茶化されなくてほっとしたけど。山吹さんと紅さんに出会って、いろんな描き方を教わったのは面白かったけど…...。本当に会えないと、空を掴むようで。
「苦労するわよ」
紅の言葉が蘇った。紅と山吹は青人の幼馴染みだそうで、自然、青人の話にもなった。
「青人って描くのに夢中になって約束とか忘れちゃうのよ。青人が1番好きなのは空だから」
そういう紅は、とっても楽しそうだった。無意識にため息が出た。
「どうしたの? 悩める乙女のみどりちゃん」
現れたのは、言うまでもなく、桃枝だった。
「何よ。冷やかし乙女の桃枝さん」
おほほ、と桃枝はマダムのように頬に手を添えた。
「そんなに青人さんに会いたかったのね。それとも美人な幼馴染みがいて気落ちしちゃったのかしら?」
「モモ!」
「良いわねえ、青春。若いわあ」
いつの間に老けたのよ。
そう。それがやって来たのは、そんな他愛もない時間だった。笑っていた桃枝が急に真面目な顔をした。
「空のあの辺、何か黒い?」
「え?」
振り返ると、空の一辺が確かに黒い。黒はじわじわとその範囲を広げている。部屋から明かりが漏れる先は、何も見えなくなった。
「何これ……」
研究層で起こる現象なのだろうか。外はまるごと、闇に包まれてしまった。夜の光が射していたことを、今になって思い知った。
「空、黒いね」
桃枝とみどりは窓辺に寄り添い、空を見上げていた。空が消滅したみたいだ。完全な闇を前に、ただただ、不安が募っていった。
青人は広がる闇をにらみつけた。
許せない。
この空から、光を消すなど。決して。
見えない相手が青人を嘲笑う様が浮かんだ。打ち消すように激しく首を振る。山吹も頭上の闇を見据えている。青人と山吹は空の階段へ急いだ。
空には決まりがある。青人は、1年の最初の課題が終わった後、すぐに教わる条文を思い出した。
「空における異端行為」
一、この世のものを傷つけること
一、特定の物体、動植物、紋様、文字等を描くこと
一、化学色素、人工物質を使用すること
一、黒い空で光を遮ること
これらを守らない者は、天上より追放す。
当たり前じゃん。青人はあの時、そう思った。森羅万象、世界を包む空が、何者をも傷つけて良いはずない。
それが空の信頼だろ。
だけど世の中は、善い人間と、悪い人間がいる。それは、誰にも変えられない事実だ。それでも、空色職人は善い人間じゃなきゃいけない。
森の端、空の階段の前まで近づいた。指示を出す叫び声が聞こえた。青人と山吹は木の陰から様子を窺う。門では赤いランプが点滅し、警官が門を封鎖していた。階段から下りてきた救急隊員が走空車に担架を運び込んでいた。
「あっ」
運ばれていたのは紺藤だった。思わず飛び出そうになった青人を、山吹が止めた。
「今行くと面倒だぞ」
続いて運ばれた中に、葵もいた。あの2人が倒れるなんて信じられない。しかもそれは、最上層に何か起こったことを指している。青人は拳を握り締め、走空車の病院の名前を覚えた。
必ず、捕まえてやる。
どこまでも広がる黒の空は、ちっぽけな青人を見下ろしていた。
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