第6話 ある影

 青人は視界いっぱいに広がる青空を誇らしく見た。ここ、空の中層でほかの3年生と一緒に実習をしている。まだ実習とは言え、本当の空を描いてるんだ。


 空を映す投影室のドームの上を、白い鳥の群れが飛んでいった。職人たちは、ドーム内に沿った長く緩やかな螺旋階段に散らばり、空を描いている。青人は実習生の中で1番高い地点を任されている。高いほど影響が大きいから、嬉しいポジションだ。

 原画は拡大投影される分、細かな描写を加筆する必要がある。青人は緻密に描くのが好きだから、結構この作業が楽しい。筆を入れては、時々離れて仕上がりを確かめる。


 でもやっぱり、原画を描きたい。終わったら、すぐ卒業制作に手をつけよう。長い時間を掛けて1つの空を描けるのは、後にも先にも卒制だけだ。

思いのまま描きたい。全てを、空っぽになるくらいエネルギーを込めて。

 青人は昨日のみどりの筆裁きを思い出した。小さな身体をいっぱいに使って描いていた。まだ固いけど、慣れれば気持ち良くいくはずだ。ああいう風に、持っている力を投げつけて描きたい。


 そこで、先輩の職人から背中を叩かれた。

「青人! なあにぼーっとしてんだ」

 いけね。目の前の空に同じ手跡が重なっていた。

 遠くから鐘の音が響き渡る。この鐘が終了の合図だ。みんな片付け始めた。後に控えている投影技師たちのために全員、素早く出ていかなくてはならない。高い方が下りるまで時間が掛かるから、自覚しなくてはだめだ。


 空は時間厳守。締切りまでにどこまで詰められるか、空の完成度は職人たちの手腕にかかっている。上手い人ほど、仕事も片付けも速く、きれいだ。青人が見た限りでは、使いながら片付けたり、最小限の道具でこなしたりするのがコツらしい。全員が外に出ると、投影技師の作業が始まる。


「青人、帰ろう」

 声を掛けて来たのは、紅だった。よく「ベに」と間違われるけど、彼女の名前は「くれない」と言う。青人はほかの3年の男たちが向ける白い目に知らないふりをした。

 分かるけどさ、紅は美人だから。おれはそういうんじゃないのになあ。

紅とは山吹と同じく、小さい頃からの付き合いだ。だからと言って周りの連中は納得する訳じゃないから、挨拶して団体から離れて歩き出した。


「紅は実習、ここで良かったの?」

「だって染めは実習先がないんだもの」

 紅は染織を専門にしている。霧絵の具や草木を染料に布を染め上げる。思い通りに制作するには経験を積むしかない。地道に積み重ねるところが、紅に合ったんだろう。全部が思い通りにいかないから面白い、らしい。


「あれ、青人。白衣どうしたの?」

 青人は身辺全てを探った。ない。

「やっちまった……」

 紅は呆れてたように笑った。

「相変わらず、忘れっぽいんだから」

「先帰ってて」


 紅に片手を振り、たった今下りたばかりの空の階段を駆け上がった。毎度のことながら、階段を上るのは速いと自負はある。ただ下層の門まで来ていたから、結構遠い。早くしないと、白衣まで空に映ってしまうかもしれない。それはそれで見てみたいけど、きっと怒られるだけじゃ済まない。


 階段から透けて見える青空は、青人にお構いなしで、のんびりと白雲を浮かべている。中層の門まで戻ると、見覚えのある、長身の警備員が下りてきた。

「紺藤さん! お久しぶりです」

「青人じゃないか」

 警備員の紺藤には2年生の頃、よく空の現場を見学に来た際、世話になっていた。青人がアポなしで初めて空の階段に飛びんだ時、迷惑を掛けた。情けない出会いだったが、熱意を買われ、それ以降よく話をしていた。


「最上層の担当になったんですよね?」

「そうだよ。昼番と交替して下りてきたんだ」

 そっか、警備員も交替してるんだ。

「青人は実習はどうだい?」

「楽しいです。やっぱり本当の空を描くのは」

「それは良かったな。ところで急いでどうかした?」

「あ」

 忘れものを取りに来たんだった。紺藤はいたずらっぽく笑った。

「忘れものしたのを忘れた?」

 青人は去年もしょっちゅうものを忘れ、紺藤に取りに行ってもらったり、預かってもらったりしていた。

 中層の門が開き、投影技師が顔を出した。

「これ忘れたの、お前か?」

 差し出された「これ」は思った通り、白衣だった。


 紺藤と青人は研究層まで階段を下りながら、お互いに近況を話し合った。

「じゃあ、せっかく葵さんと一緒なのに、あんまり話せないんですね」

「そうそう、なかなか話す時間もなくて……。っていや、何言ってんだ、青人!」

 一言でこんなに慌てるとは思わなかった。紺藤さん、バレバレですよ。


 研究層を出た、その時だ。

 視線を感じて辺りを見渡した。門から離れた森の入り口、暗い陰に、視線の主はいた。全身黒い服に身を包んだ女の子だ。その目は、青人たちが映っているのかいないのか、焦点が合わず、宙をさまよっている。その瞳は陰の中にいるせいか、光が射さず、暗い。

 まるで、影が立っているみたいだ。

「あの子......」

 紺藤さんも同じように感じたのか、じっと女の子を見つめている。辺りは春の暖かい空気で満ちているのに、ただ1点だけ、深い闇を抱えている。少女と青人の視線が交わった。


 と、青人と紺藤は背後からドンッと押された。

「わっ!」

「なあに突っ立ってんだよ」

 葵がしてやったりと笑っていた。青人の心臓は不意打ちでバクバク脈打った。紺藤も胸に手を当てている。変わらず、いや、青人以上に驚いている。

「先に出たくせに、まだこんなとこにいたのか。紺藤」

 葵の口調は荒っぽいが、明るくて嫌みがない。

「久しぶりだな、青人。さては君の忘れもんのせいか」

 葵は去年、紺藤と交替で同じ持ち場を担当していたため、青人のことをよく知っていた。


 青人がさっきの木陰を見やると、少女はどこにもいなかった。平然とした春の一風景に戻っていた。森の中へ消えたのだろうか? 短い間ことだったが、なんだか引っ掛かるものがあった。

 見上げた空は相変わらず、平和な青色を腕いっぱい広げていた。

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