第5話 山吹
「なあに、それ」
みどりの脇から、隣室に住む桃枝が覗き込んできた。翌朝、みどりは1年生女子のけやき寮で、フリースペースにあるソファに身を沈めていたところだった。みどりと桃枝は入寮して数日で、ずいぶん馴れ親しんだ。人見知りのみどりは、人懐っこい桃枝がいて、とても助かった。
手に持っていたフィルターを桃枝に渡す。フィルターは窓1枚分の大きさがあり、みどりより背の低い桃枝は苦労して広げた。鮮やかな青空が写っている。
「すごいじゃん! みどり、もう空描いちゃったの?」
「1人で描いたんじゃないの」
それは昨日、青人と2人で描いた空だった。ひとしきり描いた後、青人がフィルターをさっと潜らせ、転写したのだ。共同製作とは言え、誇らしい青空だ。もっとも、みどりの粗い筆跡をきれいにまとめた、青人の力ありきだ。
「えーっ! じゃあ誰と描いたの?」
まあ、ちょっとね、と曖昧に返事をしたのが悪かった。桃枝の好奇心にいっそう火を点けてしまい、誰だれ? とかん高い声が寮に響いた。
「もう、モモったら!」
しつこい桃枝に観念して、青人と会ったことや木の上のアトリエのこと、霧絵の具のことを話した。両親が地上出身だってことは秘密だ。
桃枝はふん、ふん、と頷き、目を輝かせた。
「その空は青人さんと一緒に描いたのね?」
「そう」
「それで、今思い出してた?」
「そう」
「つまり、好きになっちゃったんでしょ」
「そ…ってモモ!」
流れでつい肯定しそうになっちゃったじゃないの! 噛みつかんばかりに立ち上がったみどりを、桃枝はあははっと朗らかに笑い、軽快に避けた。
「わーっみどりが真っ赤になった!」
桃枝の言う通り、頭に血が上っていた。
追いかけっこをしているうちに、騒ぎを聞きつけた寮の子たちが集まって来た。
「どうしちゃったの? みどりが怒ってるなんて」
「あのね、みどりったら......ふぐっ」
みどりは嬉々として答えようとした桃枝の口を、すかさず塞いだ。セーフ! ところが、必死に桃枝を捕まえた結果、余計に盛り上がってしまった。
どーしちゃったの? けんか? えーっけんか? と、みんなが口々にいろんなことを言い始めた。何でもないってば! と叫びたくなったが、返って好奇心をあおってしまうだろうと、みどりは我慢した。全く、女子侮ることなかれ。
隙を狙っていた桃枝がみどりの手から逃れた。
「あのね……」
そこへ、寮母がどたどたと足音を鳴らし、駆けつけた。
「こらあ―! あんたたち朝からうるさい!」
幸か不幸か、その一喝が騒動を止めた。かくして、本日の朝食が至極静かだったのは、言うまでもない。
ところが、みんな三々五々に散った後も、やはりお隣さんはしぶとかった。桃枝曰く、
「みどりが素直に違うよってみんなに言えば良かったのよ」
と。否定したところで、「みどり照れてる」とかなんとかって、盛り上がっちゃうでしょ! と、そのまま言ってやると、桃枝様は目をぱちくりさせておっしゃった。
「そんなに意地になって、本当に好きなのね」
名前の通り、桃色思考のロマンチストだったか。
頭を抱えていると、桃枝はなぜか威張った。
「そもそも人目につく所で眺めてたら、誰だって気になるでしょ」
気になる種は最初から隠すべし、ということらしい。
「だから、例の青人さんに会わせなさい」
何がどうなって「だから」という言葉にたどり着くのやら。
道理があろうとなかろうと、最後は押しの強さがものを言う。結局、桃枝に負けて青人のアトリエに案内することになった。ただし、桃枝のおかげで騒動が起きたのだから、ただではない。
「約束通り、後で実習棟に連れてってよね」
「もちろんよ」
桃枝は桃枝で昨日、収穫を得ていた。2年生の実習棟を見つけていたのだ。
朝の森には透明な陽光が差し込んでいる。清々しい空気に包まれた木々の間を歩き、青人のアトリエに辿り着いた。みどりが木の上のアトリエを指差すと、桃枝は手を叩いた。
「ほんとに木の上にあるのね!」
下からでは青人がいるかは分からない。登るよと促すと、案の定、桃枝は渋った。昨日のみどりと同じで、階段が怖いのだろう。
「ねえ、青人さんがいたら、一緒に下りてきて」
「わたしは空を描きにきたのよ。登ったらわざわざ下りないわ」
「えーみどりのケチ!」
桃枝の甲高い声を聞きつけたのか、アトリエからひょいっと顔が覗いた。すかさず桃枝は伸び上がった。
「あれが青人さん?」
いや、同じ年頃の少年だが、青人ではなかった。彼は金の短髪で、ネオングリーンの派手な眼鏡を掛けていた。
「君たち、青人に会いにきたの?」
「そうです」
即答したのは桃枝だ。
「もしかして、どっちかがみどりって子?」
「みどりはこの子です!」
桃枝は答えてから、みどりに耳打ちした。
「すごいじゃん! 話に聞いてるんだね」
本人はこっそり話しているつもりらしいが、桃枝の声はよく通り、上まで聞こえた。
「そうそう。力が強い女の子だって」
何を話したのよ。青人さん。
「青人だったら朝番だから、まだ帰って来ないよ」
「朝番ってなんですかー?」
「教えるから、まず上がっておいで」
アトリエから地面までは距離があるから、桃枝を覗いた2人は軽く叫ぶ形になっていた。話を続けるなら登った方が楽だ。
「ありがとうございます!」
元気良く返事をした桃枝は、みどりを見た。先に登れということらしい。みどりも相変わらず怖かったが、先輩が待っているのだから、登りたい。みどりは昨日ほど怖くなかった。桃枝も恐るおそる後をついてきた。
アトリエに辿り着くと、先輩がお疲れさんと労った。
「おれたち3年生は朝、昼、晩の時間に分けて職人実習に入んのね。青人は朝番の実習に行ってるんだ」
青人って3年生なんだ。桃枝は好奇心のまま、会話を進めた。
「青人さんのお友達ですか?」
「あ、ごめん。おれは山吹。そうだな、青人とは小さい頃からの付き合いだよ」
「わたしはみどりの友達の桃枝です。わたしたちは4月に知り合ったばっかりです」
会話に取り残されたみどりは、パソコンと銀色の箱型の機械を見つけた。
「あの、その機械は何ですか?」
「やっと話したね、みどり。聞いてたより大人しい子だね」
みどりは今更ながら恥じた。青人には奔放な課題の八つ当たりをし、ありのままに感情をぶつけていた。
「これは散霧機。データを元に空を描いてくれるんだ」
「え、パソコンで空を描けるんですか?」
「今の技術はすごいよ」
山吹はふっと笑って、キーを叩いた。散霧機から霧が出ると、アトリエに黄緑色の見事なオーロラが広がった。みどりと桃枝は感嘆の声を上げた。山吹は何か打ち込むと、オーロラは青みを帯びた緑に変化した。
「まだ霧絵の具を使う職人が多いけどね。空は最終的に投影されたものから、パソコンで描いても良いでしょ」
「え? どういうことですか?」
2人で首を傾げると、山吹は楽しげに微笑んだ。
「プラネタリウムって行ったことある?」
「あります。穴の空いた機械で天井に星空を映すんですよね?」
「用はあれと似たようなもんだよ。空はとてつもなく広くて、人の手じゃ描ききれない。だから原画をドームに映し出して、ちょこちょこ手直しすんのね」
みどりたちは小さな子どものように、こくこくと山吹の話に頷く。
「その手直ししたドームを更に空に映し出す。そうやって空が完成するってこと」
「あ、だからフィルムなのね」
みどりは昨日、青人と描いた空を、フィルムに写し取って貰った。
「そゆこと。それが原画になるってわけ」
空が投影されたものだなんて、話を聞いてもまだ信じられない。桃枝も同じ感想らしく、大きな目をぱちぱちと瞬きさせた。
「だから原画に当たる部分はデータでも何でも良いの」
「じゃあ、空は大きく映し出された映像ってこと?」
山吹は目を細めて微笑んだ。
「このオーロラを見てごらん」
オーロラを見つめると、小さな粒子が煌めいている。
「霧だ」
「そ。映すっていっても、霧を描いた通りに集めるってことだよ」
学校長が最初に言った通り、描き方は自由なのだ。知らないことがたくさんある。
「山吹さん、ほかにどんな描き方があるんでしょうか? 知っている限り教えてもらえませんか?」
山吹はにやりと笑った。
「珍しい描き方するやつん所に案内するよ。その後なら青人も帰ってるだろうな」
思い出したように、桃枝が口を挟む。
「青人さんはみどりのこと、ほかに何て言ってました?」
これ以上、人伝てで自分のことを聞きたくない。みどりは慌てて口を挟んだ。
「山吹さん、早く行きましょ。わたしたち締切りがあるんで」
みどりは先に階段に向かった。背後で山吹がそうだなあ、とつぶやいた。
「そうそう。大胆だって言ってた」
みどりは何もないのに転びそうになった。もしかして、面倒な人が増えちゃった? やっぱり青人がいたら良かったのにな、とこっそり思った。
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