第3話 青人とみどりの空
青人は意外だった。今まで威勢の良かったみどりが口ごもった。空が描きたくて入学したんだから、どんな空が描きたいかなんて、すぐ答えられるはずだ。言葉に詰まる後輩に苦言を言おうとしたが、待つことにした。上の人に口を挟まれると、何も話したくなくなるから。
灰谷もそうだった。いつも青人の話を先に聞いてくれた。何か言うのはその後だ。先輩のしてくれた通り、後輩に接したい。待っていると、とうとう、みどりは口を開いた。
「わたし、誰でも空を描ける技術を創りたいの」
「技術開発が夢だって? どうして?」
青人は思わず疑問をぶつけた。みどりは明らかに困っていた。さっきまで喰って掛かってきたことは思えないほどだ。
おっと、このままじゃ話しずらいよな。
「みんな、自分だけの空を描くんだって躍起になってるから、ビックリしたよ。誰にでも描ける技術を創りたいって、すごいじゃん」
うぐいす色の目は、あちこち動き回っている。話すべきか迷っているようだ。2人の間を春の暖かい風が通り抜け、木々の葉がさらさらと音を立てて揺れた。隣りの木のセキレイたちが白と黒の身体を寄せて遊んでいる。
みどりは黙ったままだ。長い沈黙を思えば、本人にとっては深刻なことなのかもしれない。
そうとなれば。
「じゃあ、おれの話聞いて」
相手が言いたくないことを無理に聞かない。聞きたければ、まず自分から話す。これも灰谷から教わったことだ。
「おれは晴れ渡った青空が描きたい。人が元気になるようなね」
おれが空職人になりたいのは、両親のおかげなんだ。おれの父さんは、あちこち旅をする写真家で、いつも家には母さんとおれしかいなかった。代わりに、父さんは毎週手紙と一緒に、写真を送ってくれた。
写真の中のあちこちの青空がとってもきれいでさ。淡い水色から鮮やかな群青まで、いろんな青空が送られてきてね。その空の下にある川も街も人も、すっげえ鮮やかできれいなんだ。
母さんは父さんの写真から想像を膨らまして、絵本を描く。おれも隣りで絵を描いた。父さんの撮った青空をね。母さんはにこにこして一緒に描いてくれるし、久しぶりに帰った父さんは上手いもんだなって褒めてくれた。そのうち、目の前の空を描くようになった。夕焼けも夜空も描いたけどさ、やっぱり青空描いてる時が楽しいんだよな。その下の人たちの笑顔が見える気がしてさ。おれ自身、けんかしたり、叱られたりした日も、青空に励まされた。
だからおれは父さんみたいに、人を励ます青空を描きたい。
青人が話し終わると、2人はしばらく空を見上げた。木の葉はなおもさらさらと揺れている。セキレイたちはいつの間にか遠くへ行ってしまった。木々の話し声の中で、みどりの声が微かに聞こえた。
「わたしは、地上の人間なの」
「……そっか」
地上の子。みどりが誰でも空色職人になれるようにしたいというのも、青人には分かる気がした。
地上と天上は分離された世界である。天上は、他者の命を奪う戦争をする地上を軽蔑し、自分たちの存在を隠している。しかし、稀に事故で天上に落ちた地上の人を救助することがある。ただし、地上に帰すことはない。助けられた地上の人間は出生を隠して暮らしている。
地上出身と知られたら、自由に生きられないからだ。
みどりはじっと青人の目を見つめた。
「これから話すことは秘密だから、誰にも言わないで」
強い風が吹き、森はざわざわと密めき合った。風が止むと、森はしんと静まった。周りの木たちが耳を澄ましているようだ。みどりは森の静けさに落ち着かない様子だったが、やがて話し始めた。
わたしの両親は地上の人間なの。2人とも航空事故に遭って、天上に助けられた。地上から来たことを隠しても、ふとした瞬間に、相手にばれちゃったんだって。上空電鉄の切符の買い方を知らなかったり、天草のサラダを珍しがったりしてね。分かった瞬間から、友達もさーっと引いていったんだって。ものを売ってくれなかったり、「出て行け!」って叫ばれたり......。
だから2人は天上の生活を覚えてから遠くに引っ越して、周囲の人に隠して生きてきた。天上で生まれたわたしにも。10歳になって、やっと教えられた時、言葉も出なかった。わたしだって軽蔑してたもの。命と街を破壊する地上をね。
その日はずっと親と口を聞かずに一晩中、考え込んだ。
その時よ。空色職人になろうと決めたのは。わたしは地上の人間でも、美しい世界を創ろうって。
一陣の風が吹き抜け、ざあっと木々の葉を大きく揺らした。みどりは風に乗って立ち上がった。
「今まで地上の人間が空色職人になったことはない。だからわたしが1人目になる。それで同じ夢を持った地上の人たちが、誰でも空を描けるように技術を教えるの!」
なんだ、同じだ。青人も立ち上がった。
「おれは地上も天上も同じ人間どうし、美しい空を分かち合えると思ってるよ」
みどりは泣き出しそうな顔で頷いた。
せっかく夢を語り合ったのに、泣かせたくない。
青人はバケツを拾い上げ、思い切りぶちまけた。みどりは反射的に自分をかばったが、絵の具が掛かることはなかった。青い絵の具は空中に散らばり、きらきらと輝く霧になった。
「あっはは! 驚いた? バケツに溜まってると液体だけど、空気中ではすぐ霧になるんだ」
青人は刷毛とバケツをみどりに差し出した。
「やる気になったとこで、すぐ描き始めよう!」
みどりが受け取ると、青人は幹に掛かった白衣を羽織った。この白衣も、灰谷にもらったものだった。刷毛でさっと弧を描く。その一筆で、粗く散らばった青い霧が滑らかな表情に変わった。アトリエが広くなったように感じる。二、三手振るい、みどりに刷毛を渡す。
みどりは小さな身体をいっぱいに動かし、大きく弧を描いた。青人はおっ、と驚いた。線がぶれて波打ってはいるが、面白い。
「豪快だな。1番大きい刷毛を渡せば良かった」
「じゃあ貸して」
みどりは不敵に笑った。良い顔だ。青人とみどりは日が暮れるまで、夢中で空を描き続けた。
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