第2話 嵐の桜の森の中

次の日は、風の音で目が覚めた。

窓に、雨と風が激しく打ち付けていた。私は手早く身なりを整えると、階下に降りた。台所でコーヒーを淹れ、冷凍してあった食パンをトーストした。

 リビングでは、二人の刑事たちも身支度を済ませていた。

 「おはようございます。」

 私はそう言うと、二人に簡単な朝食のお盆を手渡した。

 「やあ、すみませんね。」

 二人はそう言うと、お盆を受け取って、食べ始めた。

 私はコーヒーを飲みながら、雨具がどこにしまってあったのか、思い出そうとしていた。外は暴風雨だ。雨具は絶対に必要だった。昔、家にはたくさんの雨具があった。天気が変わりやすい山の暮らしに、雨具は必需品だったからだ。

トーストを齧っていた時、いきなり思い出した。

 「そうだ、玄関の収納の中だわ。」

 私は玄関まで走ると、大きな収納扉を開けた。思った通り、その中に、古いけれどまだ使えそうな合羽と長靴がたくさんあった。

 「助かります。」

 「ほんとうに、何から何まで、お世話になって。」

 三瓶と近藤が言った。

 「いいんですよ。田舎には、コンビニもないし。」

 私は言った。

朝食を済ませると、私たちは合羽を着て、門の前に停めてあったパトカーに乗り込み、坂を下った。

嵐にもかかわらず、坂の下には、多くの村人たちが集まっていた。誰もが興味津々で、私たちを見ていた。

「風が吹くと、桜の森で人が死ぬ。」

「どうぞ、今回だけは、ご勘弁を。」

「どうか、ご無事で。」

「なんまいだぶ、なんまいだぶ。」

誰かが念仏を唱え始めた。すると、あちこちで念仏を唱える声が聞こえてきた。はじめはバラバラに始まった念仏が、あっという間に唱和になった。唱えている人たちは、きっと、私たちを心配してくれているのだろう。だが、ありがた迷惑だった。私はますます気分が落ち込んだ。


集まっている人の殆どは老人だった。

その中に一人、黒い合羽を着ている、三十代くらいの男がいた。

 その人物に、見覚えがあるような気がした。

誰だろう。


そう思っていたら、

「行きましょう。」

近藤に促された。

私は黒い鉄格子のドアの前に立った。立ち入り禁止の看板が、風に煽られるたびに、柵にぶつかって音を立てていた。私は重い扉を開けた。目の前に雑木林が広がっていた。私たちは、その雑木林の中に続いている、細い踏み分け道に入った。その道を十分程歩き、雑木林を過ぎると、雑草の生い茂った狭い空き地があった。

人間の背丈ほどに伸び切った雑草の海の向こうに、桜の森が広がっていた。様々な種類の桜が、等間隔で植えられていた。整然としたピンクの森がどこまでも続いていた。

「これはすごい。」

近藤が言った。

「本当に、千本はありそうですね。」

三瓶も言った。

どの木の桜も満開だった。その満開の桜の森が、荒波のように、上下に揺れていた。

 私たちは桜の森の中を進んだ。風にあおられた枝が行く手を阻む。突風が吹くと、小枝が折れて飛んできた。濡れた花びらが落ちてきて、合羽に張り付いた。

一列の桜並木を通り過ぎると、また一列の桜並木が現れる。何列も何列も、桜並木が果てしなく続いている。どの列も同じようでいて、少しずつ違う。既視感のような奇妙な感覚が、船酔いのように押し寄せてきた。

「方向感覚がなくなりそうですね。」

三瓶が言った。

「これ、迷ったら、出られなくなりそうだな。」

近藤が言った。それを聞いていた私は、

大丈夫。だって、まっすぐ歩いて行けばいいんだから。

と、思った。

 それに、目印もある。ほら、もうすぐ、桜並木の端に、赤い小さな鳥居が現れる。

何だか、そんな気がした。ふと左端を見てみると、人が這ってやっとくぐれる程の、赤い小さな鳥居があった。

あれ?

私はあの鳥居を知っていた。

どうして?

それは奇妙な感覚だった。

もうすぐ、小さな物置小屋がある。

また、そんな気がした。程なく、すぐに右端に、小さな古い小屋が現れた。

 「思い出したわ。私、この森に来たことがあります。ずっと幼い頃に。」

 私はつぶやいた。

 いつ?

いったい、いつ、私はこの森に入ったのだろう?

どうして私はそのことを覚えていなかったのだろう?

 そんなことを思いながら、なおも桜の森の中を進むうちに、

 「もうすぐ、正面に研究所の建物が見えてくるはずです。」

 私は二人の刑事にそう説明していた。

森の中を歩くうちに、忘れていた記憶がどんどん蘇ってくる。そんな自分の感覚がとても不気味だった。

 間もなく桜の森の中に、平屋建ての大きな建物が現れた。東西に細長い、古い木造建築で、『桃山 青い桜の花 研究所』という看板がかかっていた。

見覚えのある建物だった。

研究所の玄関に続く道の両脇には、まだ若い桜の苗木がたくさん植えてあった。おそらく青い桜の花が咲くように、品種改良された苗なのだろう。整然と植えられ、『青桜』という名札がついていた。

森の入り口から真っ直ぐに続いていた道は、この建物の玄関を左に回り込んで、さらに森の奥へと続いていた。

私はこの森の奥にも、行ったことがあるのだろうか。

そんなことを思っていたら、

「ずいぶん立派な研究所ですね。」

三瓶が言った。

「入ってみよう。」

近藤が言った。

研究所の玄関のドアは開いていた。私たちは中に入った。

玄関の左側には研究室が、右側には休憩室があった。どちらの部屋のドアも開いていて、室内が見渡せる。

休憩室の真ん中に、大きなソファがあった。ソファの上にはひざ掛けとクッションがあり、まるでつい先ほどまで、誰かが眠っていたようだ。ソファの脇にあるテーブルの上には、冷凍ピザの空袋と、コーヒーカップがのっていた。窓際の棚の上にはレンジや電気ポットが、棚の下には、雑誌やゲーム機が置いてあった。だが、冷蔵庫はなかった。

驚いたことに、この休憩室の壁にも、等身大の翁の肖像画が飾ってあった。肖像画の翁は、いかつい顔をして、大きな椅子に座っていた。金メッキの額縁の左には、こすれたような跡があった。

続いて私たちは研究室に入った。部屋の両側にある作り付けの棚には、本やノート、薬品がぎっしりと並んでいた。細長いテーブルの上には、パソコンが二台、プリンターが一台、置いてあった。

研究所の中には、不思議な花の匂いが充満していた。

「いったい、なんの匂いだろう。」

近藤が言った。

「あそこだ。」

三瓶が指さした。

彼の指先にあったのは、温室だった。温室は、研究室に隣接して建てられていて、研究室から出入りするようになっていた。

花の匂いはその温室からもれ漂ってきていた。

温室のドアを開けると、甘い匂いは一層強くなった。不気味な形をした大きな青い花が、温室いっぱいに咲いていた。冷たく深い青い色。むせかえるような濃厚な香り。眩暈がして、気分が悪くなった。私はハンカチを取り出すと、慌てて口と鼻を覆った。

「何の花だ、これ。」

近藤もハンカチで口を覆いながらつぶやいた。

「ここに名札があります。トリカブト『四季咲き大魔王』花粉に注意、と書いてあります。」

三瓶が言った。彼もハンカチで口を覆っていた。

「四季咲きなんて、聞いたことがない。確か、トリカブトの花は秋に咲くはずだ。」

「品種改良したんでしょう、きっと。受粉しやすいように。」

「なるほど。」

それから近藤が言った。

「もう、ここを出よう。これ以上は、我慢ができない。」

「強烈ですね、この匂い。何だか、ものすごい攻撃を受けたような気分ですよ。」

三瓶が言った。

二人の会話を聞きながら、私は青い花を見ていた。何か、また、記憶が蘇ってきそうだった。

温室のガラス窓には、飛んできた桜の花びらがあちこちに張り付いていた。それを、雨粒が洗い落としていく。一枚の花弁が、すうっと流れて消えた時だった。

突然、頭の中に、大きな穴の光景が浮かんだ。大地が陥没してできたような、巨大な穴。この研究所の、すぐ近くにあるはずだ。穴のことを思い出したら、足が震えてきた。

 「どうしたんですか。」

 近藤が尋ねた。

「震えていますよ。大丈夫ですか。」

三瓶も言った。

「人が倒れている。」

私はそう口走っていた。

「何ですって。」

 「この近くの穴に、人が倒れているんです。」

私はそう言うと、研究所の外に駆け出した。近藤も三瓶もついてきた。

「どこに行くんですか。」

近藤が叫んだ。風雨が強く、大声でなければ、会話ができない。

「森の奥です。」

私はそう言うと、研究所の左に続く道を指さした。

 風雨はますます強くなっていた。森全体が、ごうごうと音を立てて鳴っていた。

研究所を過ぎると、森の様子が一変した。

ここら一帯は、今まで見てきた桜の森とは、趣が全く違っていた。桜の木は大樹が多く、幹も枝もごつごつとしていて、太かった。その太い桜の木が風に揺れていた。ピンクの花の荒波が行く手を阻むように波打って押し寄せてくる。

そんな桜の木の下には、青い花がたくさん咲いていた。冷たい青い色。温室と同じ花だ。トリカブトの『四季咲き大魔王』。風が吹くと、青い花弁がちぎれて舞い上がった。舞い上がった花弁は、ひらひらと飛んで、桜の枝に張り付いた。一瞬、青い桜の花が咲いているのかと、見違えそうになる。

 間もなく、ひときわ大きな桜の古木が見えてきた。その古木の下には、屋根の抜けた粗末な小屋があった。おそらく、これが翁の妻と妻の両親が、終の棲家にしていた小屋なのだろう。そして、その古木のそばに、大きな穴が開いているのが見えた。

 「人工的な穴ではなさそうですね。」

 三瓶が言った。

 「突然、陥没してできた穴のようだな。そうとう深いぞ。」

 近藤が言った。

私たちは穴に近づいた。

そして、穴の淵に立ち、穴の底を覗き込んだ。

幅も深さも10メートル程ある、大きな穴の底に、男が仰向けに倒れていた。男の体の周囲は血で真っ赤に染まっていた。その血の海の中に、散り落ちた桜の花びらが浮いていた。死後かなりの時間が経っていることは、素人目にも明らかだった。

「弟さんですか。」

近藤が私に尋ねた。

私はうなずいた。不思議なものだ。10年も会っていないのに、一瞬見ただけで、弟だと確信していた。

 三瓶が携帯を取り出した。

 「ちっ。繋がらない。」

 三瓶は研究所に走って戻って行った。

 「あなたは、どうしてここに弟さんの遺体があることを知っていたのですか。」

 近藤が私に尋ねた。彼は鋭い眼をしていた。

 「いいえ。知りませんでした。」

 私の声は震えていた。


  私は思い出しただけだった。

幼い日の記憶を。

あの日も、ここに誰かが倒れていた。


その記憶と、今、実際に見ている光景が、ごちゃごちゃになっている。

「知らなかった?とてもそうは思えませんね。」

なおも近藤が言った。

「ここに人が倒れている、と言ったのは、あなただ。そして、私たちをここに誘導したのも、あなただ。あなたはここに弟さんが倒れて死んでいることを知っていたんですね。」

「いいえ。いいえ。私は本当に、知りませんでした。弟がここで倒れて死んでいたなんて。」


私は弟を殺していない。

本当に、私ではない。


でも、私はかつて見たことがある。

ここに人が倒れているのを。

いつ?

それは誰?


私は混乱していた。

 「これは秘密の暴露ですか。つまり、犯人しか知らない遺体の遺棄現場をあなたは知っていた。」

 近藤が言った。

 「違います。」

 私は叫んだ。

 着ているビニールの合羽はびしょぬれになって、肌にはりついていた。濡れた前髪から、滴が垂れていた。風が刺すように冷たかった。強風に煽られると体が揺れた。今にも倒れそうだった。

 「青子さん、自白だと認めた方がいい。罪が軽くなります。あなたの状況証拠は真っ黒だ。しかもあなたは遺体の遺棄現場を知っていた。自首すれば、少しは罪が軽くなります。」

 「私は殺していません。」

 信じてもらえるとは思わなかった。だが、私はこう言った。

 「私は、幼い頃に、この穴の中で人が倒れているのを見たことがあります。さっきはそれを思い出したんです。それで、ここに来たら、弟が倒れて死んでいたんです。」

 すると、

 「そうですか。」

 近藤がうなずいた。それから彼はこう言った。

 「研究所に戻りましょう。少し体を温めた方がいい。」


 研究所に戻り、合羽を脱いだ。休息室に入ると、私はポットでお湯を沸かして、お茶を入れた。近藤と三瓶はそそくさとお茶を飲むと、休息室を飛び出して、スマホであちこちに連絡を取り始めた。

私は休息室のソファに座って熱いお茶を飲んだ。雨の伝わる窓ガラスを見ながら、私は弟のことを思い出していた。

 記憶の中の弟は、いつも私を指さして笑っている。


私は二つ違いの弟と話をしたことがない。話をすることも、仲良くすることも、母に禁じられていたからだ。

母はいつも私を弟の僕として扱った。弟が皿を割ると、私は母に殴られた。弟が失敗しないように、気を配っていなかった私が悪いというのが、その理由だった。弟が風邪を引くと、私は外に立たされた。その理由は忘れてしまった。どうせ母の理由には、何の根拠もない。ただその時の気まぐれやいらだちから、私を叱責していただけなのだから。

母は、弟に世界を征服させたいと、本気で考えていた。弟を偉大なる帝王に育て、自分はその母として君臨し、桃山家を復活させることを切望していた。

弟は、この歪んだ水槽をどう思っていたのだろう。彼は幸せだったのだろうか。母の溺愛を受け、この家の跡取りとして育てられた弟にとって、歪んだ水槽の居心地は、私とは違っていなのかもしれない。この十年、どんな暮らしをしてきたのだろう。

弟が何を思っていたのかは、もうわからない。

もう二度と、弟と話をすることはできない。

窓の外、激しく揺れる桜の森は、母の歪んだ価値観の作り出した、巨大な水槽のように見えた。

その森の中に、母の顔が浮かんだ。母は弟が死んだ時、きっと私を憎んだに違いない。

「なぜ、弟が死んで、おまえが生きている。なぜ、お前が代わりに死ななかったんだ」

そんな母の罵声が森から聞こえてくるような気がした。


母にとって、私は弟とは正反対の存在だった。私は母の最大の敵だった。この家に、自分の娘として生まれながら、この家を崇拝しない娘が、母には許せなかった。

母はいつも私にこう言っていた。

「早くこの家から出て行きなさい。あんたみたいに、桃山家を崇拝しない娘が居ると、この家に禍が起きる。」 

だが、母は同時に、私にこんなことも言い続けていた。

「おまえなんか、役立たずのできそこないだ。この家に生まれたからこそ、やっと生きていけるのだ。おまえには、何もできない。何の価値もない。だからおまえなんか、この家を離れたら、すぐに野垂れ死にだ。」


早くこの家を出ていけ。

おまえはこの家を出ては生きていけない。

 

 この二律背反することを、母はいつも、私に同時に言い続けていた。


歪んだ水槽の中で育った金魚が、外の世界に飛び出すことは容易ではない。「出ていけ」や「ひとりで生きていけ」は、「死ね」と同義語として刷り込まれているからだ。

毎日、そう言われて生きているうちに、自分はこの家を離れて生きていくはできないと信じ込んでしまう。水槽の歪みに押し潰されそうになりながらも、外の世界に飛び出せない。支配や虐待に苦しみながらも、それに耐えるしか生きる道はないと諦めてしまう。そんな無力さを刷り込まれてしまうのだ。

それでも私がこの家から逃げ出すことができたのは、悟君のおかげだった。

二十歳の時、私は短大卒業と同時に、ある企業に就職が内定した。ところが、母は保証人になってくれなかった。幼い頃から、早くこの家を出ていけと言いながら、母は私が就職することを許さなかった。退路を断っておいて、出ていけと言う。それが母の常とう手段だった。

「おまえに仕事ができるわけがない。おまえに自立はできない。」

母にそう言われた日、私はこの家を出る決心をした。そこでこっそり家の金を五十万円持ち出して、私はこの村を出た。

一人で生きていくのは、もちろん、怖かった。

けれど、こう思った。


悟君は十五歳でこの村を出て行った。この外の世界のどこかに、悟君がいる。


それだけが私の支えだった。それから十年。どうにか今まで一人で生きてきた。


 悟君は、今、どうしているのだろう。

会いたいな。

そんなことを考えていたら、携帯で話をしていた近藤が、私に近づいて来て、こう言った。

 「あなたの車の走行距離、および、Nシステムを調べました。あなたが自分の車でここに来たことを証明することはできませんでした。」

「私の車を調べたのですか。」

私が尋ねると、近藤はうなずき、さらにこう言った。

「タクシー会社にも照会しました。あなたを乗せて銀狐村に行ったタクシーは見つかりませんでした。」

それを聞きながら、タクシーで往復したら、いったい、いくらかかるのだろうと思った。私にそんなことをする財力はない。そんなこと、最初からわかっているはずなのに。

 「それから、あなたのアパートの部屋も捜索しました。」

 「何ですって。」

 「大家さんの了解を得て、大家さん立会いのもとで行いました。あなたが弟さんの死に関与したという証拠は何もありませんでした。」

これでもう、あの部屋に住み続けることもできなくなった。

 「家出してから十年、実家とは連絡を取っていないというのも、事実のようですね。」

 「ええ。」

「今のところ、あなたの共犯者と見られる人物も、浮かんでいません。」

「私の人間関係も調べたのですね。」

怒りが止まらなかった。

 彼らは、証拠が出てくるまで、私のすべてを洗うつもりだ。だが、証拠なんか、出るはずがない。それなのに、私はもう一昨日までの生活には戻れない。歪んだ家を飛び出して、十年かけて築き上げた生活のすべてを、私はわずか二日で失ってしまった。

 その時、三瓶の携帯が鳴った。

「鑑識が森の入り口に到着しました。案内してきます。」

三瓶は近藤に言うと、嵐の中に飛び出して行った。

  

 程なくして鑑識が到着した。鑑識だけではない。何十人もの警官が森の中に入って来た。彼らの陣頭指揮を執るのは、香川という五十代の警官だった。

嵐の森の中を、彼らは動きまわり、大声で話をしていた。

 研究所の中でそれを聞きながら、私は、弟が早くあの穴の底から助け出されることを願っていた。いったい、どれほどの時間、弟はあそこに倒れていたのだろう。

苦しんだのだろうか。かわいそうに。

 私は、自分が弟に対して、情を持っていたことに、驚いていた。

そんなもの、ないと思っていた。だが、弟の死は、今、確実に私をうちのめしていた。


弟は、どうして亡くなったのだろう?

母は、『青子が勝太郎を殺した』と、便箋に書いていた。

つまり、母は、弟が青い森で死んでいることを知っていた。


知っていて、母はどうして弟をあそこに放置していたのだろう。

母は今、どこにいるのだろう。

 

 そして、私の記憶の中で、あの穴に倒れていた人は誰だったのだろう。

 

 ふと、再び、何かを思い出しそうになった。

 でも、思い出せなかった。

 

ああ、気持ちが悪い。

どうしても、思い出せない。


私はソファから立ち上がると、研究室に入った。本棚には、たくさんの本やノートが並んでいた。私はその中の一冊を手に取った。それは古いノートだった。

ノートの表紙には、こう書いてあった。

   

  青い桜の研究   佐々木朔


佐々木朔ですって。彼は翁に雇われて、青い桜の研究を始めた人だ。私は彼のノートをめくった。このノートは、彼の研究日誌だった。そこには、青い桜の研究の成果とともに、この桃山家の歴史が刻まれていた。私はそのノートを持って、休息室に戻ると、ソファに座って、読み始めた。


この研究所を建てたのは、私の曽祖父の翁だ。当時、ここは雑木林だった。その雑木林を開墾して、桜を植えた翁は、今度は研究所を建て、佐々木朔に青い桜の研究をするように命じた。

佐々木は1954年4月から研究を始めた。当時は遺伝子操作ができなかったので、彼は受粉による品種改良を試みていた。青い桜の花を咲かせるためには、青い色素が必要だった。その青い色素を、彼はトリカブトから抽出することにした。この雑木林には、もともとたくさんのトリカブトが自生していた。彼はそのトリカブトを採取して、花粉の品種改良に励んだ。

桜の花に受粉させるためには、春にトリカブトの花を咲かせる必要がある。彼はまず、四季咲きトリカブトの品種改良を行った。春に咲き、しかもできるだけたくさん、良質な花粉をつけるトリカブトの花が欲しい。佐々木はそのために毎日熱心に研究を続けていた。

五年後、1959年の4月、品種改良の途中で、彼は偶然、著しく花粉の毒性の強い品種を作りだした。

「このトリカブトは実に危険です。この花に近づく時は、必ずマスクをしなければなりません。」

佐々木はそう言うと、翁にマスクを差し出した。そして、自分もマスクをつけた。

「なぜかと言うと、花粉の毒性が強く、わずかに吸い込んだだけでも、人を殺傷できるほどの猛毒だからです。四季咲きで、繁殖力も強くて、青い桜の研究には都合がいいのですが、」

説明を続けている佐々木を遮って、翁は目をギラギラと光らせながら、こう叫んだ。

「すばらしい!」

「何ですって。」

「私はすばらしいと言ったんだ!」

佐々木は耳を疑った。

翁は興奮してさらにこう言った。

「おい、これをどんどん繁殖させて、森の奥に植えなさい。」

「えっ。何を言っているんですか。それはたいへん危険です。森を通っただけで、人が死にますよ。」

「だから、すばらしいのだよ。」

「いったい、あなたはさっきから、何を言っているんですか。」

 佐々木は翁に尋ねた。すると、翁はこう言った。

 「私はずっと思っていたのだよ。何とかして、この村人たちに、復讐できないものか、とね。」

 「復讐ですって。いったい、村人たちが、あなたに何をしたと言うんですか。」

 佐々木には、翁の言っていることが、さっぱりわからなかった。

 「私の森を共有しようとした罰だよ。」

 翁が言った。

 「なんですか、それ。」

 「ここは私の森だ。それなのに、あいつらはいつも勝手に入り込んで、花見をしたり、紅葉を愛でたり、山菜を盗ったりする。今までは、あいつらのやりたい放題だった。だが、このトリカブトがあれば、逆転できる。」

 翁はそう言うと、にやりと笑った。

「たとえば私が村の誰かにこう言うんだ。『この森の奥に、おいしいヤマノイモが生えている場所がある』とね。すると、その人はこっそり森に侵入してヤマノイモを取りに行こうとする。森の奥には、猛毒のトリカブトが植えてあることを知らずにね。そしてその泥棒は森の奥で、トリカブトの花粉を吸いこんで死んでしまうんだ。ははは。どうだ、これは完全犯罪だ。すごいだろう。」

言葉を失っている佐々木の前で、翁は夢中になって語り続けた。

「この森は私有地だ。しかも、ちゃんと立ち入り禁止の看板をかけてある。勝手に入る方が悪い。ヤマノイモが自生していると聞いて、こっそり掘りに行く奴が悪い。泥棒だろう、それは。だから死んでも、自業自得というやつさ。しかも、この猛毒のトリカブトのことを知っている人間は君と私の二人しかいない。私は屋敷のベランダから、森を見ているだけで、村のけしからん奴を殺せるのだ。このトリカブトを、私は『大魔王』と名付ける。」

翁はそう言うと、大声をあげて笑い出した。それからなおもこう言った。

「この『大魔王』はすごい。桃山家の家宝ともいえる存在だ。青い桜の花を咲かせて、巨万の富と栄誉を桃山家にもたらすばかりではない。不遜な村人たちを完全犯罪で消してくれるのだから。今後、桃山家の人間は、この『大魔王』を、私の化身として敬い守り抜くことになるだろう。」

 こいつは狂っている。佐々木はそう思った。彼は思わずこう言った。

「やむをえません。あなたがそうおっしゃるのなら、私はこの『大魔王』を処分します。」

「何だと。」

翁は笑うのを止めた。

「私とあなたの二人しか知らない、完全犯罪ですって。村人への復讐ですって。冗談じゃない。私はそんなことをするために、研究してきたのではない。」

 「でも、私のためだろう。」

 「何ですって。」

 「お前は、私から給料を受け取って、研究をしている。つまり、お前の研究成果はすべて私のものだ。だから、この『大魔王』は私のものだ。私がどこへ植えようと、何をしようと、私の勝手だ。」

 「そんなことはさせません。」

 佐々木はそう言うと、一本の『大魔王』を植木鉢から引っこ抜いた。

 「何をするんだ!」

 翁が慌てた。

「私は本気です。あなたに『大魔王』は渡しません。残りの9本も、処分します。」

 「落ち着けよ。」

 翁は佐々木の右腕を掴んだ。それから

 「まあ、待て。冗談だよ。冗談。」

 と、大げさに両手を振りながら、言った。

「冗談の通じない男だな。私がそんなことをするわけがないだろう。」

「冗談ですって?たとえ冗談でも、言っていいことと、悪いことがあります。」

佐々木が言うと,翁は笑いながら、 

「わかった、わかった。」

と、言った。それからこう続けた。

「『大魔王』を処分してはいけない。そんなことをしたら、青い桜の研究はどうなるんだ。『大魔王』の花粉はそのために開発したんだろう。あと少しで成功するかもしれないのに、今ここで『大魔王』を失ったら、今までの苦労は水の泡だぞ。」

悔しいが、翁の言う通りだった。

そう、『大魔王』の花粉は、試す価値がある。佐々木はそう思っていた。青い桜の花の改良には、『大魔王』の花粉はなくてはならないものだった。四季咲きで、いつでも良質の花粉を手に入れることができる。青い桜の花が咲く可能性は高い。

一人の人間として、『大魔王』を翁の好き勝手にさせるわけにはいかない。だが、研究者としては、今ここで『大魔王』を諦めて処分することは耐え難いことだった。

「冗談でも、二度とそんなことは言わないでください。」

佐々木が言うと、

「ああ、もちろんさ。真に受けるなよ。」

翁はそう言って、また笑った。

 翁が屋敷に帰って行く姿を見送りながら、佐々木は決意した。

 よおし、この温室の『大魔王』を、厳重に管理して、絶対に持ち出せないようにしてやる。

 佐々木は研究所に鍵をかけることにした。

 この銀狐村には、施錠の習慣はない。だから今まで、研究所には鍵がなかった。

佐々木は念には念を入れて、ピッキングもできない、合い鍵を作ることもできない特殊な鍵を特注して作らせた。そしてそれで研究室の玄関を施錠することにした。

研究所の出入り口は玄関しかない。そして『大魔王』を栽培している温室には、研究室からしか入れない。佐々木が研究所を留守にする時には、必ず施錠する。そうすれば、翁が『大魔王』を盗み出すことはできない。佐々木はそう考えた。

佐々木は鍵ができるまで、『大魔王』を自宅に持ち帰った。絶対に、翁に『大魔王』は渡さない。佐々木の決意は固かった。


『大魔王』は繁殖力が強かったが、佐々木は厳重に管理して、持ち出しを防いでいた。増え過ぎると、引き抜いて、完全に枯らしてから捨てていた。『大魔王』は、決して持ち出せないはずだった。

けれど、『大魔王』のことを翁に告げて以来、研究所ではおかしなことが度々起こっていた。

夜、佐々木が休息室のソファで仮眠をとっている時のことだった。どこからかコツコツという物音が聞こえてきた。気のせいかと思ったが、そうではない。確かに、音が聞こえてくる。そんな薄気味悪いことが度々あった。佐々木は仮眠がとれなくなった。そこで、彼は研究所に泊まることをやめ、夜は必ず自宅に帰ることにした。

それから半年ほど経って、今度は温室で異変が起こるようになった。

朝、佐々木が『大魔王』の世話をするために温室に入ると、誰かが侵入した形跡があった。『大魔王』の鉢植えの位置が、微妙にずれている。そんなことが度々あった。

時々、佐々木は怖くなった。

『大魔王』の鉢の数は合っている。なくなった鉢はない。だから、『大魔王』が盗み出されていないことは、断言できる。

 だが、花粉は?

 もし、誰かがこっそりここに侵入して、『大魔王』の花粉を持ち出したとしたら?

 その花粉を、野生のトリカブトに受粉させることは、たやすい。そうすれば、野生の『大魔王』を繁殖させることができる。翁の恐ろしい野望は完遂するのだ。

 そう考えると、背筋がぞっとした。

 けれど、この温室に侵入することは、できないはずだった。

研究所は施錠してあるし、その鍵を持っているのは、佐々木だけなのだから。『大魔王』の花粉も、持ち出せるはずがない。

そう、きっと、これは私の気のせいだ。佐々木はそう思った。そして、研究に忙殺されているうちに、いつしか忘れてしまっていた。


佐々木は真面目な学者で、日々懸命に青い桜の花の品種改良に取り組んでいた。『大魔王』の花粉を様々な種類の桜の木に受粉させてサクランボを実らせ、種を取り、その種を栽培して花を咲かせる。根気のいる作業を淡々と、丁寧にこなしていた。

桜の花びらにうっすらと青みが混じる年もあらえば、それが消えてしまう年もある。

「結局は、突然変異を待つしかないのだろうか。」

佐々木は何度も挫折しそうになりながら、歯をくいしばって頑張った。


1969年、10月5日のことだった。佐々木が翁に『大魔王』の話をしてから、十年半が経過していた。

 佐々木は相変わらず朝から研究に没頭していた。昼過ぎから、何やら研究所の周りが騒がしくなった。窓から外を見ると、多くの人が動き回っていた。警察や消防の姿もあった。

 佐々木は研究の手を止めて、玄関から外に出た。ちょうど、村人が数人、研究所の玄関の前を歩いていた。

 「どうしたのですか。何があったのですか。」

佐々木が声をかけると、

 「ああ、佐々木さん。」

知り合いの一人、武藤丙助さんが、佐々木の近くに寄って来た。そしてこう言った。

 「この森の奥で、人が亡くなっていたんです。」

 「なんですって。」

 佐々木はびっくりした。

 「いったい誰が亡くなっていたんですか。」

 「加藤重蔵さんですよ。」

 「加藤……。」

 佐々木が考え込んでいると、

 「ほら、村の狐地蔵のそばに家のある、加藤重蔵さんですよ。」

 と、武藤さんが言った。

 「ああ、あの、林業を営んでいる、」

 ようやく佐々木は思い当たった。

 「そうそう、あの人が、倒れて亡くなっていたんです。昨日から姿が見えなくて、奥さんが探していたんです。」

 「あの人、確か、まだ五十代だったと思いますが。」

 「そう、五十五歳。以前から心臓に持病があったそうで、どうやら心臓発作を起こしたようですよ。」

 そう言えば、心臓が悪いという噂を聞いたことがあった。佐々木はさらに尋ねた。

 「彼はどうしてこの森に入ったのでしょうか。」

すると、武藤は声を落として、

 「さあね。ま、ここだけの話、あまり評判の良くない男ではありましたがね。」

 と、言った。佐々木はうなずいた。

加藤重蔵が山野草の密売をしている、と言う噂は聞いたことがあった。本来、採取が禁止されている希少種を売りさばいて大金を得ては、ギャンブルにつぎ込んでいたらしい。いつも高級時計を身に着けていて、それを見せびらかしていた。

 そうか、彼が亡くなったのか。佐々木がそう思っていると、

 「今日は風がないね。昨日は強かったがね。」

 武藤はそう言って、佐々木のそばを離れ、研究所を通り過ぎて森の奥に入って行った。

  心臓発作か。怖いな。

 その時、佐々木はそう思っただけだった。

加藤重蔵の遺体は解剖されなかった。検死のみで、彼の死亡原因は急性心筋梗塞と判断された。

 

 次の年、70年の4月1日、研究所の前に植えてあった五十本の苗木の内の七本が、うっすらと青い花を咲かせた。佐々木は小躍りして喜んだ。早速、翁に報告し、その花を彼に見せた。

 佐々木は翁も当然、喜んでくれるだろうと考えていた。ところが、

 「まだまだだ。」

 翁はその桜の花を見ると、不機嫌な顔で、こう言った。

 「この程度で喜ぶんじゃない。ばかものめ。こんな薄い青ではだめだ。しかも、たった七本だけではないか。」

 それを聞いた佐々木は、報告するんじゃなかったと、後悔した。

 翁は決して人を褒めない。特に、誰かが喜んでいると、腹を立てるのだ。翁は延々と佐々木を罵倒し続けた。そして佐々木から笑顔が消えると、ようやく怒ることを止めた。 

 翁が研究所を立ち去った後、佐々木は気を取り直して、決意を新たにした。

 「私は絶対に、青い桜の花を咲かせて見せる。」

 佐々木はそう思いながら、薄青い桜の花を見つめていた。

 「この桜の木を『青桜』と命名しよう。」

 そう呟くと、佐々木は、この木に『青桜』の名札をつけた。

 

 しかし、その後の七本の『青桜』の生育はおもわしくなかった。『青桜』は病害虫に弱く、何度も枯れかけた。そして、佐々木の懸命のかいもなく、七本のうちの五本が枯れてしまった。残る二本も弱々しく、いつ枯れてもおかしくない状態に陥った。

 これを知った翁は、顔を真っ赤にして、佐々木をさらに罵倒した。

 佐々木のショックはひどく、彼はその場に座り込んで、しばらく立つことができなかった。彼は枯れてしまった『青桜』を見て、泣いた。弱っている苗を見て、途方に暮れた。

だが、ここであきらめることはできなかった。佐々木はあの、薄らと青みがかった、桜の花を忘れることはできなかった。

 佐々木は再び気を取り直すと、『青桜』を病害虫に強い品種に改良するために、あちこちの農業試験場に出かけて、研究を重ねた。

森の中で二人目の死者が出た時、彼は東北の試験場を回っていて、銀狐村を留守にしていた。


 再び、森の中で事件が起きたのは、この年の5月12日だった。

 一か月前から行方不明になっていた七十五歳の山下花子が、森の中で倒れて死んでいるところを発見された。彼女は竹で編んだ籠を握りしめていた。その籠の中には、コシアブラやコゴミといった山菜が入っていた。彼女は山菜を採っては新城市内にある旅館や食堂に売りさばいて生計を立てていた。彼女は一人暮らしだったので、捜索も発見も遅れた。

彼女を発見したのも、こっそり山菜を採りに来た村人だった。だから、警察の聴取に対して非協力的だった。

「あなたはなぜ、あの森に入ったのですか。」

「いや、なんとなく、偶然です。」

「山下さんは、いつもあの森の奥で、山菜を採っていたのでしょうか。」

「さあ、私は知りません。」

口が重かったのは、発見した村人だけではない。他の村人たちも同様に、知っていることを話そうとはしなかった。

村人たちはみんな、この森が翁の所有であることは、知っていた。けれど、春になれば、誰もがこの森に入り、山菜を採り、桜を愛でていた。夏になれば、子どもたちが蝉や虫を採って走り回った。秋には紅葉狩りをしたり、風雅な山野草を楽しんだりしていた。

かつて、村人たちは、この森を自分の森のように、愛していた。そして、密やかに、つつましく、山の恵みを味わっていた。

確かに、加藤や山下のように、それらを金に換えて一儲け企む不埒な村人も存在した。だが、それらはごく少数だった。多くの村人たちにとって、この森は川や空や空気のように、生まれた時から、自分たちのそばにある、かけがえのない存在だった。その森の中で、密猟者が二人も不審死したという現実を、村人たちは受け入れることができなかった。

この村の住人は、いつもこの森で密漁して、金儲けをしている。

そんな風に考えられるのは、心外だった。

警察は、この森の所有者である翁からも、事情聴取していた。

「この銀狐村では、村人たちが、勝手にあの森で山菜や山野草を採ることが、常習化していたのでしょうか。」

「さあ、どうやらそのようですね。」

警察の前で、翁は常識人を演じていた。桃山家の人間は、こうした演技が上手かった。

「困ったものです。山には危険が多い。私の所有する山林はとても広いので、どうしても管理が行き届きません。ですから、柵を設け、立ち入り禁止の看板をかけてあるんです。私としては、不慮の事故を防ぐために、精一杯の努力をしているのですが、」

そう言うと、翁は大げさに溜息をついた。そして

「それでも、山に侵入する人は後を絶ちません。亡くなられた山下さんには申し訳ないのですが、自己責任で、自分で自分を守っていただかないと……。」

そう言って、口をつぐんだ。それを聞いた警官はうなずいた。

山下花子の遺体は解剖に回されたが、死因は特定できなかった。彼女の葬式はひっそりと行われ、村の共同墓地に埋葬された。

 

 三人目の死者が出た時も、佐々木は不在だった。彼は東北の農業試験場から戻るとすぐに、岐阜に住んでいる、『挿し木の名人』と謳われた梨木正敏氏を訪ね、教えを乞うていた。

桜の挿し木は難しく、成功率が低い。特に、佐々木が開発した『青桜』は、発芽率も挿し木が成功する率も、きわめて低く、それが佐々木の悩みの種だった。ところが、梨木氏の腕は日本一で、彼に挿し木できない桜はない、と言われていた。その梨木氏に気に入られた佐々木は、彼の家に寝泊りして、挿し木の奥義を教わっていた。

 

三人目の死者は村人ではなかった。まだ二十代の若い男で、どうやら一人旅をしていて、桜の森に入ったらしかった。発見したのは、やはり山菜採りに来た村人だった。

山下花子が亡くなってからおそよ一月後、6月17日。風の強い日だった。若者向けの登山帽が、コロコロと、風で転がっていた。村人が、ふと帽子が転がって来た方を見ると、若い男が倒れていた。彼は、手に、まだ摘んだばかりのニリンソウを握っていた。

村人は大慌てで村にかけ戻り、救急車を呼んだ。若者は新城救急病院に運ばれたが、そこで死亡が確認された。彼は身分を示すものを何も持っていなかったので、行旅死亡人として、銀狐村が火葬した。

彼のリュックには一人旅用のテント、寝袋、コッヘル、アルコールバーナーがあった。財布もあったが、1600円しか入っていなかった。

彼の死亡原因はおそらくアコニチン中毒だと考えられた。

「おそらく、ニリンソウと間違えて、トリカブトを食べたんでしょう。ニリンソウとトリカブトはよく似ているから、山菜に詳しくない素人は、間違えやすいんです。」

彼の遺体を発見した村人は、そう言った。

行旅死亡人ということもあり、解剖はされなかった。死因不明のまま、彼の遺骨は今も銀狐村に保管されている。

                      

佐々木は岐阜から戻ると、早速『青桜』の挿し木を始めた。残っている『青桜』はあと二本しかない。何としても、この『青桜』を増やさなくてはならなかった。

幸い、この2本の木の、今年伸びた枝には勢いがあった。佐々木はその枝を切り取り、その切り口を水につけた。親木には接ぎロウを塗って保護した。やることはいっぱいあった。

今年、青い花をつけなかった四十三本も大切に育てなければならない。もしかしたら、この木たちは、来年か再来年、青い花を咲かせるのかもしれないのだ。

研究は確実に進んでいる。青い桜の花は、再び咲くだろう。佐々木はそう信じていた。


桜の森で四人目の死者が出たのは、翌年、1971年の11月11日だった。

佐々木は研究所の玄関前で『青桜』の苗の世話をしていた。苗は順調に育っていた。挿し木はみな健康で、勢いがあり、逞しかった。佐々木は自分の努力の手ごたえを実感していた。

その日は朝から強い風が吹いていた。佐々木が研究ノートに記録を書き留めようとすると、ノートが風で飛ばされそうになった。土埃も舞い上がり、土の欠片が目に入った。研究所の裏にある、外蛇口で目を洗っている時、足音が聞こえてきた。

誰かが研究所の前の道を通って、森の奥に入っていったのだ。

タオルで目を吹きながら、研究所の玄関前に戻った時、森の中に誰かの姿が消えていくのが見えた。

もっともその時は、佐々木は何も気に留めなかった。彼は再び研究に没頭していた。

夕刻になり、帰り支度をしている時だった。

暮れかけた森の道を眺めながら、佐々木はふと、あの森に入って行った人はどうしたのだろうか、と思った。佐々木は、今日は一日、研究所の玄関前で仕事をしていた。森と村をつなぐ道はこの道だけだ。誰かが森の奥から出てきて、ここを通れば、気が付くはずだった。

あの人は森に入ったまま、戻って来ていない。

どうしたんだろう。

そんなことを思いながら、佐々木は研究所の裏で、作業道具を洗っていた。

するとその時、ドンという、大きな物音が聞こえてきた。何かが倒れたような音だった。

佐々木が研究所の正面に回ると、玄関の前に、男が倒れていた。

「松五郎さん。」

佐々木はそう呼ぶと、男の元に走り寄った。

 「松五郎さん、大丈夫ですか。」

佐々木が彼を抱き起すと、松五郎は痙攣して、白目をむいていた。

「大変だ。」

佐々木はその場に松五郎を横たえると、屋敷に向かって走った。当時、研究所に電話はなかった。もちろん、携帯もない。

 早く救急車を呼ばなければ!

 佐々木は全速力で森を走り抜けた。ようやく屋敷が見えてきた。

 二階のベランダに、翁がいた。

 佐々木は翁に手を振って、叫んだ。

 「救急車を呼んでください!松五郎さんが倒れました!」

 それから気が付いた。

翁はベランダに立って、双眼鏡を覗いていたのだ。

 「何をしているんですか!」

 佐々木は怒鳴った。

 すると翁は双眼鏡を外して、佐々木を見た。

それから彼は笑った。

 佐々木は凍り付いた。

翁は大声を上げて笑っていた。ハハハ、ハハハ、という笑い声があたりに木霊していた。

 その声を聴きながら佐々木は思った。

いったい、翁は双眼鏡で何を見ていたのだろう?

まさか。

佐々木の背筋に冷たいものが走った。

まさか、全部、見ていた?

翁は双眼鏡で、松五郎を追っていた?

松五郎が倒れるのも、自分がここまで走ってくるのも、全部、見ていた?

見ていて、笑っている?

許せない!

佐々木は翁に対する嫌悪と恐怖ではちきれそうになった。

佐々木は屋敷に飛び込むと、玄関の靴箱の上にある黒い電話機で119番通報した。

 「そうです、桃山家の桜の森の奥です。加藤松五郎さんです。お願いします。」

 そう言って、佐々木が受話器を置くと、桃山家の玄関前には、村人たちが大勢集まっていた。佐々木は玄関を開けっぱなしにしたまま、119番通報していたのだ。

 「また、桜の森で、人が死んだのか。」

 誰かが言った。

また? そのことばを疑問に思いながらも、

 「松五郎さんは、まだ、生きています。誰か、一緒に来てください。」

 佐々木が言った。

 ところが、誰も動こうとしなかった。

 「松五郎さんを、ここまで運んできたいんです。できるだけ早く救急車に乗せてあげられるように。」

 やはり、誰も動かない。

 「助けてください。手伝ってください。」

 佐々木は叫んだ。すると、

 「今日は風が強い。」

 誰かが言った。皆がうなずいた。

 「風が吹くと、桜の森で人が死ぬ。」

 「だから、松五郎には、行くなと言ったんだ。」

 「なのに、あいつは、ヤマノイモをとって来ると言い張って。」

 「そりゃあ、自生しているヤマノイモはうまい。新城の料亭に持っていけば、高く売れる。だが、金なんて、命あってのものだろうに。」

 「最近、店の売上が落ちたと言っていたからなあ。」

 村人たちが、口々に呟いていた。

 ヤマノイモだって?

 まさか。

 佐々木の脳裏に、ベランダで笑っていた翁の笑顔が浮かんできた。

そして、『大魔王』を「すばらしい!」と絶賛した時の翁のことばを思い出した。


 「たとえば私が村の誰かにこう言うんだ。『この森の奥に、ヤマノイモが自生している場所がある』とね。すると、その人は森に侵入してヤマノイモを取りに行こうとする。その途中で、桜の木の下に植えてあるトリカブトの花粉を吸いこんで死んでしまう。ははは。どうだ、これは完全犯罪だ。すごいだろう。」


「この森は私有地だ。しかも、ちゃんと立ち入り禁止の看板をかけてある。勝手に入る方が悪い。こっそりヤマノイモを盗みに行く奴が悪い。泥棒だろう、それは。だから死んでも、自業自得というやつさ。しかも、この猛毒のトリカブトのことを知っている人間は君と私の二人しかいない。私は屋敷のベランダから、森を見ているだけで、けしからん奴を殺せるのだ。このトリカブトを、私は『大魔王』と名付ける。」


 「思えば、加藤さんや山下さんが亡くなったのも、風の強い日だった。」

 それを聞いた佐々木は村人に問い返した。

 「山下さん?あのおばあさんも、森の中で亡くなっていたんですか?」

 村人たちがうなずいた。

 「あんた、知らなかったのか。」

 村一番のおしゃべりの杉田さんが言った。

 「そうか、あの時、あんたはいなかったね。もし、あんたがあの時、研究所にいたら、真っ先に警察の尋問を受けていただろうよ。」

 「知らなかった。」

 佐々木は拳を握りしめた。

 「そうそう、あの若者が死んだ時も、あんたはいなかったね。」

 杉田さんは、なおも話し続けた。

 「若者?」

 「旅をしていた若い男が、あの森で死んでいたんだ。アコニチン中毒でね。あの日も:森の中には、強い風が吹いていた。」

 アコニチン中毒だって。

 杉田さんの一言一言が、佐々木の胸に突き刺さった。


佐々木は目の前が真っ暗になった。

 「おい、あんたまでか。大丈夫か。」

 ふらついた佐々木を、村人たちが支えた。

佐々木は泣いていた。悔しさと悲しさ、罪の意識に苛まれながら、佐々木は声を上げて泣いた。

 救急車が到着し、松五郎は病院に運ばれたが、助からなかった。

 憔悴しきった佐々木は、数日間、床に伏して、起き上がれなかった。


  風が吹くと、桜の森で人が死ぬ


 床に伏している間、佐々木の耳には、ずっとこの言葉が木霊していた。

どうにか体力を回復した佐々木は、風のない日を待って、桜の森を調べることにした。


 佐々木のノートはそこで終わっていた。

 ゴン、という大きな音がして、私は我に返った。温室の窓ガラスに、強風で飛ばされてきた枯れ枝がぶつかったのだ。バケツをひっくり返したような雨が、窓を伝って流れていた。

 いつしか私は、深い物語の中に入り込んでいた。佐々木朔のノートを読んでいるうちに、過去に、断片的に聞いたことのある様々なエピソードがつながっていった。あちこちに散らばっていた記憶のひとつひとつが、ジグソーパズルのピースのように、一つの絵をつなぎ出していく。そこから見えてきたのは、桃山家の恐ろしい物語だった。

 「どうしたんですか。顔色が悪いですよ。」

 三瓶が言った。

「いえ。大丈夫です。」

私は答えた。

「今、弟さんのご遺体の搬送が終わりました。深い穴の底に、有毒ガスが充満していたので、運び出すのに手間取りました。」

「そうですか。お手数をおかけしました。ありがとうございました。」

 私は頭を下げた。

「これから、名古屋大学の医学部に運んで、司法解剖を行います。」

 「わかりました。」

 その時、近藤が数人の警官とともに、研究室に入って来た。近藤が私に言った。

 「弟さんの遺体の下に、白骨死体が埋もれていました。」

 白骨死体?

 「そんな。では、弟は、その白骨死体の上に、倒れていたのですか。」

 私が言うと、近藤がうなずいた。

「弟さんの遺体を引き上げる時、何かが引っかかったんです。鑑識がそれを調べたところ、人骨の一部、左手の人差し指の骨でした。そこを掘ってみると、白骨化した遺体が埋まっていました。つまり、あの穴には、弟さんの遺体だけではなく、その下に、もう一遺体があったのです。」

 私は激しいショックを受けていた。

 幼い日の記憶、あの穴の底に、倒れている人を見た記憶は本当だったのだ。

 白骨遺体は、恐らく、その人に違いない。

 ああ嫌だ、と、思った。

 もう、耐えられない。

もうたくさん。遺体だの、人の死だの、もう、我慢できない。

感情が爆発しそうだった。

 近藤が黙った。彼はしばらく私をじっと見ていた。それからこう言った。

 「少し、休んでください。話は後でします。」

 そう言うと、近藤と三瓶は休息室から出ていった。

 

 大人の今でも、私には耐えがたいことだった。

 穴の中に倒れている、明らかに死んでいる人を見る経験なんて。

 そんなこと、子どもに耐えられるはずがない。

 だから私は忘れてしまっていたのだ。

記憶を意識の奥深くに埋めて、封印していたのだ。

 そして、すべてを忘れて生きてきた。

 けれど今、それらがすべて、さらし出されようとしていた。埋もれていたピースは掘り起

こされて、さらに恐ろしい桃山家の物語を紡ぎ出そうとしていた。

 頭がずきずきと痛んだ。

 

 「どうしますか。桃山青子の逮捕状を請求しますか。」

三瓶が小声で近藤に尋ねているのが聞こえてきた。

「いや。まだ早い。」

「でもあれは、秘密の暴露ですよね。犯人しか知りえない、遺体のある場所を、彼女は知っていた。つまり、彼女が犯人だということになる。」

すると、近藤はこう言った。

「だが、秘密の暴露とは、自白の信ぴょう性を裏付けるものであって、秘密の暴露そのものが自白にはならない。そして、彼女は一貫して『殺していない』と言っている。」

「つまり、自白も物的証拠もない。」

「そう。状況証拠は真っ黒だがね。」

「でも、心証は白なんですよねえ。」

三瓶が首を傾げながら言った。

「実は俺もなんだ。彼女には犯人の匂いがない。」

そう言うと、近藤はしばし腕組みをして考え込んでいた。それから彼はこう言った。

「まあ、何だな、あの白骨遺体が彼女の母親であることが判明したら、逮捕状を請求しよう。」

「そうですね。」

三瓶が頷いた。

「あと一歩の決め手がないんだ。万が一にも、俺たちが有罪率99.9%を崩すわけにはいかない。逮捕は慎重にしなければならない。」

「同意です。」

再び、三瓶が頷いた。それから三瓶は、額に張り付いた前髪を手櫛で立てていた。


 そうか、まだ私は逮捕されないんだ。

二人の会話を聞きながら、私は思った。逮捕されたら、終わりだ。弁護士を雇う金もないのだから、起訴されて、有罪になるに決まっている。

 こんなひどい思いをした挙句、無実の罪で裁かれるなんて、まっぴらだった。私は今、自分だけの力で、自分の無実を証明しなければならなかった。

 でも、どうすればいいのだろう。

 私はとりあえず、棚の前に向かった。情報が必要だった。どんなに恐ろしくても、私は桃山家の真実を知る必要があった。すべての手がかりは、そこにあるはずなのだから。

 変色したノートを探っていると、棚の奥から額縁に入った一枚の写真が出てきた。

 

それは古い写真らしく、セピア色に変色していた。

そこには、研究所前の玄関と、細い桜の木が写っていた。

―1972年 4月3日 『青桜』、ついに青い花を咲かせる!―

 そんな説明文がついていた。私はその写真をじっと見た。これが、佐々木が亡くなった翌年に、花を咲かせたという青桜の木なのだろうか?

 これ、本当に、青い桜の花なのだろうか?

 私はさらに目を凝らしてその写真を見つめた。だが、写真の中に見えるのは、セピア色の濃淡だけだった。


その写真の隣に並んでいた日記帳に、私は釘づけになった。黒い革表紙の分厚い日記帳。

開いてみると、中表紙には、

樋口信三

という名前があった。

父だ。樋口は、母と結婚して入り婿になる前の、父の旧姓だった。

父はいったいどんな人だったのだろう。私には父の記憶が殆どないのだ。

母は父のことを、

 「無責任で、だらしがなくて、どうしようもない男だったよ。」

そう言っていた。だが、母の言うことなど、私は信じない。今、私は母というフィルターを通さずに、初めて父に触れることができる。そんなことを思いながら、私は日記帳をめくった。


1984年、10月15日。新城農業大学大学院からの紹介状を持って、私は初めて桃山家を訪れた。当時、私は24歳。大学院の2年生で、就職口を探している最中だった。

かつて桃山家で青い桜の花の研究をしていた佐々木博士は、私の敬愛する先輩だった。佐々木先輩に会ったことはなかったが、彼の発表していた論文は秀逸で、彼の才能と実直さを物語っていた。私は佐々木氏の論文を読みながら、彼のような研究者になりたいと考えていた。

ある日、私は大学院の求人掲示板に、桃山家の研究員募集の貼紙を見つけた。桃山家は佐々木博士の後を継いで、研究を続けてくれる人材を探していた。私はその研究員に応募した。

桃山家の重厚な玄関で呼び鈴を押すと、年配の家政婦がドアを開けてくれた。私は豪華な応接室に通された。窓際の席に座って待っていると、家政婦が紅茶を運んできてくれた。その紅茶を飲んでいると、当主の桃山正勝氏が現れた。彼は亡くなった曽祖父の息子だった。彼は四十代後半で、彫りの深い、端正な顔だちをした、恰幅のいい男だった。彼は桃山家がいかに名家であるか、青い桜の花の研究が、その桃山家にとって、どんなに重要なものかを熱く語った。

「ほら、これを見てください。」

正勝氏はそう言うと、一枚の色褪せた写真を取り出した。

そこには細い桜の木が写っていた。

「どうです。青い桜の花が咲いているでしょう。」

正勝氏はそう言ったが、写真はセピア色に変色していて、色の判別はできなかった。

「ほら、ここですよ、ここ。」

氏はそう言って、何度も人差し指で桜の木の枝を指さした。だが、私には青い桜の花は見えなかった。

「すみません。よくわかりません。」

私はそう言うと、その写真を氏に返した。

「まあ、無理もない。変色してしまいましたからね。しかも、写真はこの一枚しかないんですよ。」

氏はそう言うと、溜息をついた。

「だが、本当に、咲いたんですよ。」

「そうですか。」

「青い桜の研究は、おそらくあと少しで完成するんです。どうか、佐々木博士の後を継いでいただけませんか。彼のためにも、桃山家のためにも。」

正勝氏はそう言った。さらに、

「まあ、給料は高くはないが、君さえよかったら、この屋敷の空いている一部屋を、君の住居として無料で提供しよう。」

と、言った。

「本当ですか。それは助かります。」

私は思わずそう答えた。

「佐々木博士はこの村の出身だったから、村から研究所に通っていた。だが、君の家は新城市にあるんだよね。ここまで通うのは大変だ。しかも、この村には賃貸住宅はないからね。」

正勝氏はさらに、

「うちには通いの家政婦がいるから、衣食などの身の回りの世話も無料で提供しよう。その代り、君は研究に専念してくれたまえ。」

と、言った。

「いえ、そこまでお世話になっては。」

そんな私のことばを遮って、

「いや、ぜひ、君にうちに来てほしいんだ。だから、これくらいの条件提示は当たり前だ。何しろ、もう10年以上、誰も来てくれなくてね、困っていたんだよ。」

と、氏は言った。

実は、そのことは私も気になっていた。

10年以上、誰も佐々木博士の後を継ごうとしなかったのは、なぜなのだろう。

私は紅茶をすすりながら考えた。

もしかしたら、この求人は、訳ありなのかもしれない。実はそんな思いはここに来る前からあった。佐々木先輩はアコニチン中毒で亡くなっていた。アコニチンは猛毒だが、彼ほどの研究者に、初歩的な手落ちがあったとは考えにくかった。彼の死は謎だった。

だが、ここの仕事の内容も待遇も、私にはとても魅力的だった。

私は新城市内の貧しい農家の三男で、苦学しながら大学院まで通った。何の縁故もない私は、就職先探しに苦労していた。大好きな植物の研究を続けることのできる就職先など、望むべくもなかった。ここに就職できなければ、すっぱりと研究者の道をあきらめて、別の一般職に就くしかなかった。

「どうかね。君、ここに来てくれないか。」

正勝氏にそう言われて、私はここに就職することに決めた。

「決めました。よろしくお願いします。」

そう言って、私は頭を下げた。すると氏は喜んで、

「そうか、そうか。ああ、よかった。じゃあ、内定はすっとばして、契約といこう。そうそう、部屋も決めないとね。二階に空き部屋が何室もあるから、これから見て、好きな部屋を選んでくれ。じゃあ、とりあえず、二階に行こうか。」

そう言って、立ち上がり、私を階段まで連れて行った。

その時だった。

階段の上に、若い女が立っていた。彼女は水色のワンピースを着て、微笑んでいた。それから、緩やかな弧を描いている大きな階段を、ゆっくりと降りてきた。手すりに右手を添えて、左手でスカートをつまんでいた。

彼女が階段を下りたった時、気が付いた。

あの人だ。

彼女は、あの、写真館の女(ひと)だ。

新城市で一番古い写真館『光彩堂』の、ウインドウを飾っている、写真の女だ。

私は新城市街に行くと、いつも『光彩堂』に寄り道をした。『光彩堂』は風格のある老舗写真館で、渋い煉瓦造りの建物だった。そのウインドウの前に佇んで、私は彼女の写真に見入っていた。ウインドウの中の彼女は、ピンク色の振袖を着て、微笑んでいた。清楚でありながら、妖艶だった。

その彼女が今、目の前にいた。

間近で見るその女は、写真よりもはるかに美しかった。肌は透き通るように白く艶やかで、長い黒髪はサラサラと揺れていた。

「ようこそ、桃山家へ。長女の勝子です。」

 彼女はそう言うと、お辞儀をした。

「あ、樋口信三です。」

そう言う私の声はうわずっていた。

「ちょうどよかった。勝子、彼に二階の部屋を案内してあげてくれないか。好きな部屋を選んでもらってくれ。」

正勝が言った。勝子はうなずくと、

「どうぞ。こちらへ。」

そう言って、私を二階に案内してくれた。

彼女はまず、階段を上った正面の部屋の前に立ち止まった。

「ここが主寝室。父の部屋です。その右隣が私の部屋になります。」

 彼女は声までも美しかった。私はうっとりとして彼女の声を聴いていた。

「ねえ、こちらの左の部屋はいかがかしら。」

そう言うと、勝子は、主寝室の左側の部屋のドアを開けた。

「空いている部屋の中では、ここが一番大きくて、眺めのいい部屋なの。ずっと、開かずの間になっていたから、掃除をしないといけないけれど、きっと気に入ると思うわ。」

それは大きな部屋だった。二十畳くらいはありそうな広さだった。部屋のあちこちに置かれている家具には、埃除けの白い布がかけられていた。勝子はその布を外した。

紅褐色の美しいマホガニーのテーブルが現れた。

「いいテーブルですね。」

私が言うと、

「この家の家具は、全部曽祖父が買った年代ものです。いいものが揃っているでしょう?」

そう言いながら、彼女は家具にかかっている白い布を次々に外していった。そのたびに、ベッドやデスク、椅子や箪笥が現れた。どれも、年代物の美しい家具ばかりだった。

「どれもみんな素晴らしいですね。光沢があって、重厚感があって。」

私が言うと、

「気に入っていただけて、よかったわ。この部屋の家具は自由に使ってくださいね。」

にっこりと微笑んで彼女が言った。

それから彼女は南面の大きな窓のカーテンを引いた。

部屋の中に、陽射しが射し込んだ。

「明るいですね。」

私が言うと、

「ね、いいお部屋でしょう。あなたの部屋はここに決めましょうよ。」

勝子が言った。

私は思わずうなずいていた。こんな贅沢な部屋に住むことができるなんて、考えたこともなかった。私は今まで、一度も自分の部屋を持ったことがないのだ。

私は窓辺に近寄った。窓の外には、桜の森が広がっていた。もっとも、この時期の桜の木には、花も葉もない。枝と幹だけの木々の世界が一面に広がっていた。私は春、この森の桜が一気に咲いた時の眺めを想像した。きっと素晴らしい眺めなのだろうと思った。

それから私は決意を新たにした。

私は青い桜の花の研究に全力を注ぐ。そして必ず青い花を咲かせ、この研究所を大きくしてみせる。私は幸福の絶頂にいた。


 ここで私は父のノートを閉じて、しばらく窓の外を見ていた。

若い頃の父は、この仕事にバラ色の未来を描いていた。そして、父にとって、母は憧れの人だった。こうして父は、桃山家という歪んだ水槽に、足を踏み入れていったのだった。


そういえば、写真館のエピソードは、母の自慢のひとつだった。

「新城市内で一番大きな写真館のウインドウに、私の写真が飾られていたんだよ。」

それが母の自慢だった。

「誰もが私の美しさに見惚れたものさ。この村でも、新城市内でも、私にかなう娘はいなかった。」

そう言って、うっとりとしていた。

「それなのに、おまえはどうだい。私の娘だなんて、恥ずかしくて、言えやしないよ。」

それが母の口癖だった。

母は今、どこにいるのだろう。

そんなことを思いながら、私は再び父の日記帳を読み始めた。

  

父が桃山家に引っ越してきたのは、それから半年後の1985年、3月25日だった。その時から、父と母は急速に親しくなっていった。さらに半年後、父は正勝氏に「話がある」と言って、応接室に呼ばれた。

 

10月23日、私は正勝氏に応接室に呼ばれた。

「単刀直入に聞こう。君は、勝子のことをどう思っているんだね。」

正勝氏にそう言われて、私は一瞬、たじろいだ。

私は彼女に恋していた。彼女に夢中だった。正勝氏はもちろん、そのことを知っている。そんな私のことを、彼はどう思っているのだろう。彼は彼女の父親で、しかも私の雇主だ。彼は私の運命のすべてを握っているのだ。。

私は覚悟を決めて、

「好きです。」

と、素直に答えた。

すると、正勝氏はうなずいた。それからこう言った。

「実は、今、勝子に縁談があるんだ。」

それを聞いた私はびっくりした。縁談があるなんて、彼女からは何も聞いていなかった。

「何しろ、勝子はもう二十四歳なのでね。私も焦ってはいるんだよ。ところが勝子は君と結婚したいと言うんだ。だから、お見合いはしないと言うんだよ。」

それも私には初耳だった。

というよりも、私はまだ、彼女に想いを打ち明けたり、交際を申し込んだり、ということをしていなかった。私と彼女の境遇には、あまりにも隔たりがありすぎたからだ。

私は貧しい農家の三男で、研究員としてこの家に住み込んでまだ半年。もちろん、何の研究成果もあげていない。

彼女が私に好意を寄せてくれていることには、気が付いていた。

だが、私が彼女に交際を申し込む時は、私が仕事で大きな成果を上げた時、青い桜の花を咲かせた時と決めていた。少なくとも、彼女ときちんと付き合うためには、彼女と釣り合う男にならなければ、と、考えていた。それまで、彼女には待っていてほしかった。

だが、女の彼女には、待っていることはできなかったのかもしれない。だから、父親に頼みこんだのだろう。そしてこの性急な結婚話が持ち上がったのだろう。

「どうだろう、君、娘との結婚を考えてみてくれないか。」

正勝氏はそう言って、私に頭を下げた。


断れるはずはなかった。


だが、自分の中で、何かが、この結婚にブレーキをかけようとしていた。

資産家の婿養子。研究を一生の仕事にできる喜び。憧れの写真館の女との結婚。

まるで絵にかいたようなサクセスストーリー。断る方がおかしい。


それなのに。

 嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

逃げろ。

早く、逃げろ。

 私の深いところが、そう叫んでいた。


 桃山家に来てからずっと、私には、氷の張った池の上に立っているような感覚が、いつもあった。

 表面的な幸福感の下に、それとは別物の、深い冷たいものが隠されているような、氷が溶ければ、その水の中に真っ逆さまに落ちていくような、そんな薄気味悪さが、桃山家には、あったのだ。

たとえば、銀狐村の人たちが持っている、桃山家に対する距離感。それは嫉妬や羨望とは異質の、冷たい拒否感だった。

私がここに引っ越して間もない頃のことだった。

「あんた、佐々木さんの後釜の人だよね?」

 一人の老女が私にそう尋ねてきた。

「はい。」

私がこう答えると、

「佐々木さんは、それを望んでいたのかねえ。」

いきなり、そう問い返された。

「だと思いますよ。彼は研究熱心で、学会でも注目されていた先生でしたから。」

戸惑いながらも、私はそう答えた。

「そりゃあ、佐々木さんはいい人だったよ。優秀な人だった。」

老女はそう言って、うなずいた。

「だが、桃山家の人間は、そうじゃない。」

彼女ははっきりとそう言った。

「そうでしょうか。」

私は返事に困った。私はまだ桃山家の正勝氏や勝子さんのことを、殆ど何も知らなかったからだ。

「あんた、まだ桃山家の人間を、よく知らんのかい。」

「ええ。」

「それでも、何か、感じるものはあるだろう。」

そう問われて、私は思わず、

「勝子さんは、美しい人ですね。」

そう言った。すると、

「きれい?……。あの女が?」

と、意外な反応が返って来た。

老舗の写真館のウインドウを飾っている、有名な美女なのに、老女は真剣に首を傾げて考え込んでいた。

「まあ、あんたも若い男だからねえ。でも、村には他にもきれいな娘はいるよ。」

最後に、老女はそう言った。

その時、私は、あまり深くは考えなかった。世の中にはいろいろな人がいる。美醜の感覚は人それぞれだ。そう思っていた。

だが、そうではなかった。

「桃山家は、美男美女の家系なんですね。」

私がそう言うと、

「ふうん。美男美女、ねえ。」

「あんたには、そう見えるのかい。」

「そうかねえ。」

いつもそんな反応しか、返ってこないのだ。桃山家の人たちを美しいと感じているのは、私ひとりだけだった。村人たちは全員、桃山家の人間を、美しいとは感じていなかった。

それどころか、彼らは桃山家の人間を、快く思ってはいなかった。

桃山家と懇意にしている村人はいなかった。家政婦や農夫など、桃山家に雇われている人間はいたが、彼らは金のための仕事と割り切って、桃山家で働いていた。 

そう、忘れもしない。

あれは、ここに引っ越して来て、三日目のことだった。

春真っ盛りだった。桃山家の私の部屋から見る桜の森は、すばらしい眺めだった。春の光に花は輝き、風が吹くと、枝がゆれた。

私は興奮して、村人に、桜の森の美しさを語った。

「すばらしいですね、ここの桜の森は。」

だが、

「ああ。そうだねえ」

「ほんとに、きれいだね。」

村人からは、そっけない返事しか返って来なかった。それどころか、彼らは桜の森を、あまり見ようとはしなかった。驚いたのは、花見の宴をするために、村人たちがこぞって隣村まで出かけていった時だ。

信じられなかった。

そして、私はあの言い伝えを聞いた。

「あの桜の森に入る村人はいない。」

「あんたも、気を付けるんだよ。」

「風が吹くと、桜の森で人が死ぬ。」

彼らのそのことばを、私は忘れることができない。


正勝氏や勝子さんに対しても、私は違和感を覚えていた。

ある日、朝食のデザートに、リンゴが出てきた。

「ああ、美味しいな。僕、リンゴが大好きなんです。」

何気なく、私はそう言った。

するとその日から、毎食後のデザートに、必ずリンゴが出てくるようになった。

デザートだけではない。十時と三時のお茶の時間にも、リンゴが出てくるのだ。

何回かはおいしくいただいた。しばらくは我慢して食べた。けれどそのうちに、リンゴを見ると、溜息が出るようになった。とうとう、見るのも嫌になった。それでも、毎回、リンゴが出てくる。最後は『嫌みかよ』とさえ思った。

そこで、

「あの、リンゴは、もう結構です。」

と、言った。すると勝子さんは変な顔をして、こう言った。

「まあ、どうして。これは私の親切なのに。」

 親切? 私には彼女のことばが奇妙に聞こえた。

 「あの、食べ飽きてしまったので。」

私がそう言うと、

 「まあ。」

彼女はうろたえていた。それから彼女は私にこう言った。

「あなたにリンゴを出したのは、私の親切だったのよ。ねえ、そうでしょう?」

その彼女の反応も、私には意外だった。

「ねえ、私、親切だったわよね、ねえ。」

彼女は何度も、私にそう確認してきた。そんな彼女のことばを聞きながら、いったい、彼女の言う親切って、何なのだろう、と、思った。

だが、彼女の寂しそうな顔を見たとたん、そんな思いは消えてしまった。彼女を慰めるために、あれこれ面白い話をしながら、まあ、たかがリンゴだ、と、私は思った。お互い、知り合ったばかりの他人同士。そんな、よくある行き違いなのだと、自分に言い聞かせていた。


正勝氏にしても、同様だった。

ある朝、私が部屋のドアを開けて、廊下に出ると、ちょうど隣の部屋から、正勝氏が出てきた。

「おはようございます。」

と、私が挨拶すると、彼は、

 「ああ、おはようございます。」

と、言った。

次の日、私がまた、朝、ドアを開けると同時に、隣の部屋のドアも開いた。

次の日も、また次の日も、私がドアを開けると、正勝氏の部屋のドアも開く。

そして、いつも私たちは鉢合わせをして、挨拶を交わす。

偶然ではなかった。正勝氏は、毎朝、私が部屋のドアを開けるのを、じっと待ち構えているのだ。そして、いつも、私と同時にドアを開けるのだった。私は氏を薄気味悪く感じた。  

ある日、

 「いつも、あなたと私は、同じ時間に部屋のドアを開けるのですね。」

と、皮肉を込めて、言った。

すると、

「ねえ、私って、挨拶のできる人間ですよね。そうですよね。ちゃんと、あなたに朝の挨拶をしていますよね。」

と、氏が私に問いただしてきた。

 「え、ええ。」

私はびっくりした。

氏の反応は、まるで見様見真似で大人のふりをする、幼い子どものようだった。

「あなたは挨拶ができない子どもですね。」と、大人にたしなめられた子どもが、挨拶のできる子どもになりたくて、褒められたくて、とりあえず覚えたばかりの大人の真似をする。そんな幼稚な態度だった。

挨拶の意味も、親切の意味も、自分では理解できない。だからどこかで覚えたやり方を、ただ繰り返すだけ。応用もきかないし、臨機応変もない。そんな不思議な人たちだった。

彼らはいつもそうやって、私の前で、いい人、普通の人を演じていた。それは、彼らの本性がそうではないことの証だった。

彼らは何かを隠している。

私に嘘をついている。

そんな思いがいつもつきまとっていた。


それに、気になることがもう一つあった。

唯勝氏の妻も、正勝氏の妻も、早死にしている。正勝氏の妻、つまり、勝子の母は、彼女が5歳の時に亡くなっているのだ。

これは、単なる偶然なのだろうか?

それとも、この家に嫁ぐと、長生きできないのだろうか?

私が勝子さんと結婚すると、当然、私はこの家の婿養子になる。

私も彼らの妻と同じ運命を辿るのだろうか?


 だが、すべては私の気のせいなのかもしれなかった。

 そもそも、生まれも育ちも全く違う他人同士なのだから、わからないことがあるのは、当たり前。第一、ここでこの縁談を断ったら、私は仕事も棲み家も失うことになる。

 

私は自分の本能が発している警告を無視した。

私には、すべてを捨ててここを逃げ出すことはできなかった。

こうして私は勝子さんとの結婚を、桃山家の入り婿話を承諾したのだった。


 そうか。

私は父の日記から顔を上げて思った。

父は、桃山家という水槽の歪みに、結婚前から気が付いていた。

もし、その後の運命を知ることができていたら、父はきっとこの時、すべてを捨てて桃山家を逃げ出していたことだろう。

 彼がそうしていれば、私や弟がこの世に生まれることもなかったのに。

私はそう思いながら、また、父の日記を読み続けた。


父が母と結婚したとたん、すべては一変した。父の足元の氷が溶けたのだ。父は、歪んだ水槽の、冷たい水の中に真っ逆さまに沈んでいった。桃山家は本性をむき出しにして、父に襲いかかったのだ。


結婚前、私は桃山家から研究費と給料をもらっていた。ところが、結婚すると、すぐに舅である正勝氏は、私にどちらも渡さなくなった。

「家族に給料を払うのは、おかしいだろう。」

それが彼の言い分だった。

「そもそも、研究費を出すのは、この家の当主の責任だ。そして、この家の当主は君だ。だから、君が金を工面したまえ。」

そう言われて、私は自分の耳を疑った。

「それでは話が違います。結婚したら、給料ではなく、生活費を渡してくれるという約束でした。研究費も出してくれるという約束でした。そうでなければ、私は研究を続けることはできません。」

私は彼に食い下がった。

「そもそも、私が当主であるのなら、桃山家の収入を管理するのは私のはずです。でも、そうではない。桃山家の財産を管理しているのは、あなただ。だから、この家の当主は私ではなく、あなたです。」

「桃山家の財布の管理は、代々、桃山家の血筋の人間の仕事だ。つまり、私と勝子にしかできない。」

正勝氏はそう言った。さらに、

「そもそも、私がおまえと勝子の結婚に賛成したのは、もう二度と、おまえに給料を払わなくてよくなるからだ。」

そう言って、笑った。

信じられない手の平返しだった。入籍した途端、こんな仕打ちを受けるとは。

私は勝子に助けを求めた。

だが、勝子は私をつっぱねた。

「桃山家の財産を管理するのは、父の仕事よ。」

「しかし、おとうさんは、私に全く金をくれないのだよ。これでは生活できない。研究もできない。お父さんを、何とか説得してくれないか。」

「父を説得することはできないわ。生活費や研究費は、あなたが何とか工面すればいいでしょう。そうだわ、あなたの実家は、あなたを助けてくれないのかしら。一度、聞いてみてよ。」

勝子はそう言うだけだった。

結婚した途端、私は研究材料の支払いにも事欠くようになった。私は桃山家の中で、無一文になった。だが、請求書は私宛に来る。

私は困窮した。必死になって職探しをして、新城市内にある高校で非常勤講師として働くようになった。離婚を考えていた時、勝子の妊娠が発覚した。

1986年4月2日に、長女、青子が生まれた。

「ちっ、女か。」

正勝はそう言った。

 勝子も、

 「ああ、欲しくなかった。女の子なんか。生まれてこなければよかったのに。」

 そう言って、溜息をついた。

 「よせよ。そんなことを言うな。」

 私は勝子をたしなめた。

 「お前は時々、妙に残酷なことを言うね。どうしてだ。」

 そう言う私に、

「あのね、桃山家には、どうしても、男の子が必要なの。」

勝子はむきになってそう答えた。

青子は病弱だった。発育が悪く、よく怪我をした。私が仕事に出かけている間、勝子はほとんど育児をしていないのではないか。そう疑いたくなるほどだった。

それなのに、

「ああもう、要らない子のくせに、手間がかかるったら、ありゃしない。」

勝子はいつもそう言っていた。

私は何度も勝子と話し合い、喧嘩した。

子どもが生まれた以上、離婚は避けたい。温かい家庭を築きたい。そもそも、桃山家という家庭を守るためには、家族は力を合わせるべきであって、いがみ合うべきではない。私は勝子にそう言い続けた。

勝子は正勝がいない時は、おとなしかった。私の言うことにうなずき、私たちは何度も和解した。きっと、やり直せる。私と勝子と青子と三人で、幸せな家庭を築くことができる。

私は何度もそう信じようとした。

たが、いつも金の問題が立ちはだかった。

はっきり言って、桃山家の金銭感覚は異常だった。

そもそも、私一人のサラリーマン稼ぎで、この巨大な桃山邸を維持することは不可能なのだ。桃山家はあちこちに不動産を所有しており、その賃貸料は正勝氏名義で振り込まれている。にもかかわらず、正勝氏は必要経費を一切支払おうとしない。光熱費などの諸経費の支払いは、すべて私の肩にのしかかってくる。私は経済的な限界を超えていた。

この屋敷を出て、新城市内にアパートを借りて、勝子と青子と3人で生活したい。それなら私の稼ぎで十分に賄うことができる。金の心配をしないで、落ち着いた生活を送ることができる。

そう思った私は、勝子に何度もこの家を出ることを相談した。

だが、勝子は首を振らなかった。

「私は桃山家の跡取りなの。桃山家は私にとって、絶対的なものなの。」

「生活ができなくても、か。」

「あら、それはあなたがもっと頑張ればいいことだわ。あなたの実家は、どうしてあなたを助けようとしないのかしら。」

そう言って、勝子は取り合わなかった。

こと経済に関して、勝子は結婚当初から、私の敵だった。勝子と正勝氏は、なんとしても私の実家から金を巻き上げようとしていた。その執念は凄まじかった。


1987年6月14日。

私が仕事から帰ると。一歳になる青子の様子がおかしかった。ぐったりとしていて、熱が40℃もあった。

「青子は、いつから具合が悪かったんだ。」

私が勝子を問いただすと、

「さあ、よくわからないわ。」

と、彼女は答えた。

「どうして、昼間、おまえが医者に連れて行かなかったんだ。」

私は彼女を責めた。すると勝子は

「そんなことを言っている場合ではないわ。あなた、早く青子を医者に連れて行きなさいよ。」

と、逆切れして私を責めた。

私は舌打ちをしながら、新城市内にある、夜間診療所に電話をかけた。電話をかけながら、

青子を医者に連れて行くのは、いつも私じゃないか。

どうして、勝子は青子を医者に連れて行かないのだろう。

そんなことを、苦々しく思っていた。

青子の具合がどんなに悪くても、勝子はいつも、青子を布団に寝かせておくだけで、ただ私の帰りを待っているのだ。

電話で予約を取って、青子を抱きかかえていると、勝子が私の上着から、財布を出していた。

「はい、これ。」

勝子はそう言って私に財布を渡した。

「じゃあ、行ってらっしゃい。」

「お前も一緒に行かないのか。」

私が言うと、

「あら、私も具合が悪いのよ。」

そう言って、勝子は右手で口を押さえた。

問答している時間はない。私は車の後部座席に青子を寝かせると、車を運転して、病院まで運んだ。

病院で手当てを受けると、青子の容態は落ち着いた。会計をしようと財布を開くと、あったはずの二万円がなくなっていた。

そんなばかな。確かに二万円、入っていたはずだ。明日、学術書を買うために、夕方銀行から二万円おろして、この財布に入れたのだから、間違いない。

だが、財布をひっくり返しても、小銭しか出てこない。

ちくしょう、勝子だ。あいつ、盗みやがった。

あの時だ。

私が青子を抱いている時、勝子が私の財布を上着から取り出していた。あの時、勝子はこっそり財布から金を抜いたのだ。

怒りに震えながら、私は桃山家に電話した。お金を持って来させるために。だが、勝子は電話に出なかった。もちろん、正勝氏も出ない。電話の呼び鈴をどんなに鳴らしても、彼らは受話器を取ろうとしなかった。私は諦めて、受話器を置いた。二人に金を持って来させることはできない。

このままでは、支払ができない。

私はしかたなく、新城市内にある実家に行き、金を借りて、病院の支払いを済ませた。

 

「そうか、これが桃山家の、巧妙で卑劣な『嫁の実家つぶし』の手口なんだ。」

父の日記を読みながら、私は思わずそう口にしていた。

この日、私の治療費を支払ったのは、父でも、桃山家でもない。父の実家である、溝口家だ。私を医者に連れて行くのは、いつも父だけだった。その父の財布から、母は金を抜きとって、支払いができないように仕組む。父からの電話を無視して、金を持っていくことを拒む。こうすれば、父は実家に泣きついて、金の無心をするしかない。

夜中に突然、息子が孫の治療費を貸してくれと言って、泣きながら頼んできたら、実家は断れない。それが桃山家の狙いだったのだ。そしてそんな支払は、次第に額が増していく。こうして嫁の実家は、子どもと孫を人質に取られて、桃山家に毟り取られて丸裸にされるのだ。

私は母から聞いたことがある。

「あいつらは、自分の子どもや孫がかわいければ、喜んで全財産を差し出すんだよ。」

母は笑いながら、さらにこう言った。

「人の命は金になる。肉親の愛情も金になる。親戚から盗んでも、親戚を騙しても、罪にはならない。まして、それが妻ならば、やりたい放題だ。」

それが、桃山家の座右の銘だった。


桃山家という、歪んだ水槽の中で、父はもがき続けていた。


「どうして、私の財布から、二万円を抜いたんだ!」

私は勝子に責めよった。

「私は知らないわ。」

勝子は嘘をつきとおした。

「どうして電話に出なかったんだ。」

「電話の音なんか、聞こえなかったわ。」

勝子はしらばっくれた。

「もう二度と、こんなことをするな。今度やったら、離婚だ!」

私が怒鳴ると、彼女は笑って、こう言った。

「あら、それはできないわ。」

「どうして。」

「だって、桃山家は、離婚は禁止なの。それに、」

「それに、何だ。」

「私、妊娠しているの。三か月よ。今度は男の子だわ。」

「妊娠?三か月?」

私が戸惑っていると、彼女はなおも笑って、こう言った。

「そうよ。」

「どうして、今まで、黙っていたんだ。」

私が言うと、

「だから、今、話しているでしょう。ねえ、男の子が生まれれば、あなたの立場も少しはよくなるかもよ。」

そう言って、勝子は笑った。私は目の前が真っ暗になった。

 「あら、どうして、私の妊娠を喜んでくれないの。」

勝子の顔が曇った。

 「ひどいわ。薄情な人ね。」

 「あ、ああ、いや、そうか。ごめん。突然だったもので。」

 私はそう取り繕った。だが、

  いったい、どうやって暮らしていくんだ……

  金がない。

 そんな思いが頭から離れなかった。

 

 私は勝子の第二子妊娠を正勝氏に伝えると、こう切り出した。

 「私の稼ぎだけでは、桃山家の維持はできません。私には二人の子どもを育てるだけで、精一杯です。」

 すると正勝氏はこう言った。

「君は何を甘いことを言っているんだね。」

 「いえ、私は私なりに、精一杯やっています。」

 「それでも、金が足りないと言うんだね。」

 「はい。」

 「じゃあ、実家から持ってこい。」

 「えっ。」

 わけがわからず、私は戸惑った。

 「実家に援助してもらえと言っているんだ。」

 正勝氏が怒鳴った。

 「そんなことも、わからないのか。」

 「どうして、私の実家が桃山家の援助をしなければならないのですか。」

 「お前に金の工面ができなければ、実家がお前の代わりに工面するのは当然だろう。」

  正勝氏はそう言った。

 「そんなの、全然、当然ではありません。それでは、あなたと勝子さんは、桃山家のために、何をしているのですか。」

 私が言うと、

 「そういう君は、何をしているんだね。」

 正勝氏が言った。

 「何って、私は仕事をしていますが。」

すると、正勝氏は鼻でせせら笑った。

 「そうじゃない、青い桜の研究のことだよ。君は、最近は全然、研究をしていないじゃないか。」

 私は絶句した。

「できるはずありませんよ。私は仕事に行っているんですよ。研究する時間なんか、ありませんよ。」

 「寝る時間はあるんだろう。」

 「なんですって。」

 「食って、寝る時間はあるんだろう。」

 「どういう意味ですか。」

 「本当にやる気はあれば、何だってできるということさ。」

 正勝氏はそう言った。

 「君は結婚前に、誓ったんだぞ。絶対に、青い桜の花を咲かせてみせます、とね。」

 「あなただって、結婚前には、私の研究に、協力すると約束したじゃないか。」

 私は言った。

 そこに勝子が入って来た。

 「ねえ、喧嘩はやめてください。お腹の赤ちゃんの胎教に悪いわ。」

 それから勝子は私に向かって、こう言った。

 「あなたが仕事も研究もすれば、すむことだわ。早く青い桜の花を咲かせてちょうだい。」

 それはいつものことだった。勝子は正勝氏の前では、絶対に、私の味方をしなかった。逆に、いつも私を窮地に陥れるのだ。

 「あなたが青い花を咲かせれば、あくせく働かなくても大金が稼げるようになるはずだわ。そうすればきっと、幸せな家庭が築けるはずだわ。」

勝子は甘い声で、私に言い続けた。

私は無力感に襲われた。


日記を読んでいると、父の痛みが伝わってくる。

桃山家を知っている者だけが理解できる、心の痛みだ。



歪んだ水槽の中にいると、無意識のうちに、自分をその歪みに合わせてしまっている。

歪みに抵抗すれば、激突する。

歪みに合わせて減速すれば、衝撃を和らげることができる。

そんな経験を繰り返すうちに、いつの間にか、自分で自分を抑制するようになる。

歪みの罠に自ら堕ちていく。


すべてを諦める癖がつき、痛みを当たり前だと思い込む。

それでも、何とかしたいともがく。

 そして絶望する。

そんなことを繰り返しながら生きていく。

そして次第に弱っていくのだ。


 方法はひとつしかない。

 逃げ出すこと。ただ、それだけ。


だが、仕事も住居も捨てて逃げ出すことは容易ではない。

大人の分別が邪魔をする。


父は、もっと早く、桃山家を逃げ出すべきだった。

子どものために、離婚は避けたい。できるだけの努力はしたい。そんな思いから、父は何度も母を受け入れ、やり直そうとした。そしてその度に、歪んだ水槽の泥沼にはまり込んでいったのだ。


1988年、5月27日に、男の子が生まれた。

勝子が、

「この子は桃山家の跡取りだから、名前に勝の字を入れないといけないわ。だから、勝太郎と名付けるわ。」

と、言った。

「それがいい。」

正勝氏が言った。二人は私を無視して息子の名前を勝太郎に決めた。それから、

「ああ、これで跡取りができたわ。うれしい。」

「よくやった。大手柄だ。」

勝子も、正勝氏も、大声で万歳を唱えた。

赤ん坊は無条件にかわいい。嬉しくないといえば、嘘になる。

だが、私は喜んでばかりはいられなかった。私は教師の仕事の他に、深夜バイトもしていた。実家に迷惑をかけたくなかったからだ。体力的にも精神的にも、限界を超えていた。

自分がいつまで持つのか、わからなかった。

それなのに、新たな問題が生じていた。

正勝氏も勝子も、勝太郎を溺愛した。二人とも、毎日のように、勝太郎に、おもちゃや洋服を買い与えた。勝太郎が一歳を過ぎると、お菓子も山のように買い与えた。

勝太郎にお菓子の袋を渡す時、正勝はいつもこう言った。

「ほら、おねえさんに取られないように、気をつけるんだよ。」

そう言われた弟は、いつも青子に見せびらかしながら、袋菓子をほおばっていた。

私はそんな正勝氏のやり方に腹が立った。ある時、

「どうして、勝太郎にだけ、お菓子を買い与えるのですか。どうして、兄弟で分け合って食べてはいけないのですか。」

私は正勝氏を問いただした。

「それのどこが、いけないのかね。」

と、彼は言った。

「私は、青子と勝太郎を、平等に扱いたいんです。二人の育て方に、差をつけるのをやめてください。」

私が言った。すると、

「そんなことはできないわ。」

また、勝子が横から口を出して来た。

「桃山家では、後継ぎの子どもが一番偉いの。」

それを聞いて、正勝氏がうなずく。

「差をつけて育てるために、こうしているんだ。青子は勝太郎の下、僕なのだ。幼い頃からそれを叩き込んでおかないと、勝太郎を帝王にすることはできない。」

帝王? 私は自分の耳を疑った。どうして、私の息子が帝王になるんだ?

「帝王って、何だ。」

私が勝子に尋ねると、彼女は呆れた顔で、

「あなたにはわからないことよ。」

そう言って、私を鼻で笑った。

私には、桃山家は理解不能だった。どんなに理不尽でも、異常でも、正勝と勝子の二人と、私ひとりの対決では、私が負けてしまう。そんな繰り返しの毎日に、私は辟易していた。

離婚して、桃山家から自由になりたいという思いと、子どもたちをこの家に置いて出ていくことはできないという使命感。その二つが、いつも私の中でせめぎあっていた。

私は何度も勝子と話し合った。

勝子にとって桃山家は絶対だった。一方、私は桃山家を否定していた。二人の間に、折り合いがつくはずはなかった。もはや話をすればするほど、お互いの憎しみは深まるばかりだった。

 私は話し合いによる離婚を諦めた。

とりあえず、この家から逃げ出そう。

 もちろん、青子も勝太郎も連れて行く。

自分の子どもを、彼らに任せるわけにはいかない。


 父のノートからは、父の固い決意が伝わってきた。

 父は一人で逃げるつもりはなかった。私と勝太郎を連れて、この家を出ようとしていた。

 私は涙が出てきた。

 「あんたのお父さんは、あんたたちを捨てて、この家を出ていったんだ。」

 母はいつもそう言って、父を罵っていた。

だが、そうではなかった。

自分一人なら、父はいつでも逃げ出せたはずなのだ。そうしなかったのは、ひとえに私や勝太郎のためだった。子どものために、父は桃山家と戦い続けたのだ。

 祖父も母も、自分ひとりでは何もできない、気の弱い人間だった。一見、いい人で魅力的。だが、桃山家という歪んだ水槽の中でタッグを組むと、彼らは凶暴な生き物に変質した。

彼らは一酸化炭素のように、一人では自立できない、不安定な人間だった。だから誰かに取りついて、その人間の酸素を根こそぎ吸い取る。彼らは猛毒なのだ。とりついた人間からすべてを奪い尽くし、その人間を亡ぼさなければ、気が済まない。

そんな桃山家の正体に気づいた父は、本気で、逃げ出そうとしていた。

その父の足枷になっていたのは、私だった。


本当は、今夜、青子と勝太郎を連れて、この家を出るはずだった。

でも、できなかった。

また、青子が熱を出したのだ。高熱を出して苦しんでいる子どもを連れて、家を出ることはできない。次のチャンスを待つしかない。


父のノートにはそんな記述が何度もあった。私は涙がこぼれた。

小さい頃の私は、熱を出すどころか、痙攣を起こしたり、脱水症状を起こしたりして、何度も入院していた。家を出るために、父が捻出した資金が、入院費の支払いに充てられたこともあった。それでも父は私を見捨ててこの家を出ていこうとはしなかった。じっとチャンスを窺っていた。


桃山家を去ることを決意した父にとって、最大の心残りは青い桜の研究のことだった。そんな思いを、父は日記に記していた。


私は青い桜の研究を、自分のライフワークにしたいと考えていた。だが、もうその夢はかなわなくなった。私はせめて最期に、佐々木博士の研究の総まとめをしておきたいと思う。   そうすることで私は、志半ばで急逝した佐々木博士を偲びたい。そして、私も自分の気持ちに区切りを付けておきたい。


そうして父は、忙しい時間の合間に、佐々木博士の研究の足取りを辿っていた。


結論から言えば、青い桜の花を咲かせることは、可能である。


父は、そう結論づけていた。


十数年前に青い桜の花が咲いた、というのは、おそらく真実だろう。たとえば、今年、この桜の森の千本のうちの一本が突然、青い桜の花を咲かせたとしても、少しも不思議はない。佐々木博士の研究は完成間近だった。いや、もしかしたら、もう完成しているのかもしれない後は、青い桜の花が咲くのを待つだけなのかもしれない。

その根拠は、佐々木博士が品種改良した『大魔王』の花粉の素晴らしさだ。花粉が大き

くて、突起もたくさんある。しかも粘着力が強い。蜜もたっぷりとある。虫が運ぶには、絶好の花粉なのだ。

 本来、受粉は同じ種の間でしか、成功しない。トリカブトと桜の木とでは、種としての違いがありすぎる。

しかし、佐々木博士はその隔たりを、双方の品種改良によって、根気よく埋めていった。

『青桜』の品種改良も進んでいる。これも佐々木博士の大きな業績の一つだ。驚いたことに、研究所の前に植えてある『青桜』の花のめしべの形態は、トリカブトのそれにとてもよく似ている。もしかしたら、『大魔王』と『青桜』を同じ場所に植えておけば、ただそれだけで虫媒によって、二,三世代後に、青い桜の花は咲くかもしれない。ほんのあと数年で、桃山家の野望は実現するのかもしれない。

成功すれば、この森は、青い桜の花でいっぱいになる。この森全体が、青い花に覆われる。

私にはその光景が目に浮かぶようだ。


 だが、同時に、非常に危険でもある。その桜の花が、『大魔王』から、青い色素だけではなく、強い毒性まで受け継いでいたとしたら?青い桜が毒草ならば、この森全体が毒の森になる。風が吹いて、花びらが散れば、それは毒が辺り一帯にまき散らされることになる。決して人が立ち入ることのできない、猛毒の森が生まれるのだ。

 

 風?


そう言えば、この村に来て、間もない頃、私は村人から聞いたのだ。

『風が吹くと、桜の森で人が死ぬ』

この村には、そんな言い伝えがあると。


佐々木博士が死んだのも、森の奥だった。彼が死んで以降、この森で死亡事件は起きていない。それは、もう、誰もこの森に立ち入らなくなったからだ。


風?

人が死ぬ?

もしかしたら。

私の脳裏に、恐ろしい疑念がよぎった。


ある風のない日、私はマスクをつけて、佐々木博士が死んでいた森の奥に入った。よく考えてみると、私が研究所より奥の森に入るのは、これが初めてだった。仕事と育児で忙しい毎日を送っていたので、研究所に来ることさえもままならなかったからだ。

私は森の奥を見たとたん、悲鳴を上げた。

その光景は、恐ろしいものだった。

寒桜の古木の根元で、野生の『大魔王』が、青々とした花を咲かせていた。もともと『大魔王』は繁殖力が強い品種だが、ここに自生している『大魔王』は、温室のものよりもさらに生命力が強そうだった。花も大きく、花数も多い。その大きな『大魔王』の株が、あちこちに根を張り、広がっていた。

だから、風が吹くと、人が死ぬのだ。

私は恐怖で体が震えた。早くこの『大魔王』を駆除しなければ、また人が死ぬ。

 いや、殺される。

これは仕組まれた無差別殺人だ。

恐らく、翁が、何らかの方法で、温室から『大魔王』の花粉を盗み出した。そして、野生のトリカブトに交配したのだ。繁殖力の強い『大魔王』はたちまち蔓延った。

 ふと、私は思った。

佐々木博士は、どうしてここで亡くなっていたのだろう。

彼は『大魔王』の開発者だ。彼はこの花の猛毒を熟知していた。もちろん、扱い方も知っていた。その彼が、なぜ、アコニチン中毒で亡くなったのだろう?


疑問に思った父は、佐々木博士の最期について、調べ始めた。


 1971年11月30日。十日前から行方不明になっていた佐々木博士が、森の中で倒れて死んでいるところを発見された。死後十日ほど経っていた。おそらく行方不明直後に死亡したと思われた。死因はアコニチン中毒だった。彼は白衣を着て、運動靴を履き、軍手をはめていたという。

佐々木を発見したのは、彼がいつも園芸資材を発注している、『新城園芸社』の三十代の社員だった。

 その社員は十日前にも佐々木に会っていた。彼は佐々木の注文を受けて、アトラジンという除草剤を大量に配達していた。11月20日、午前10時に、その社員が研究所に除草剤を届けるところも、11時に帰っていくところも、桃山家の庭師が見ていた。

 佐々木が死亡したのは、彼がアトラジンを受け取った直後だと思われたところから、その社員は徹底的に調べられた。だが、彼はそれからすぐに帰社し、今度は新城市内の得意先に配達にでかけていた。彼には完璧なアリバイがあった。

 「なぜ、十日後に、再び、佐々木さんを訪ねたんですか。」

 警察に聞かれて、その社員はこう答えた。 

「アフターサービスですよ。私はいつもそうしています。購入された除草剤が、本当に効いたのかどうか、他に、何かご入用なものはないか、確認するために行ったんです。まさか、十日前にお会いした佐々木さんが行方不明になっているとは思いませんでしたから、お屋敷ではなく、直接、研究所に向かいました。研究所に姿が見えなかったので、ちょっと、森の奥に行ってみたら、佐々木さんが倒れていたんです。」

 この社員の言葉に嘘はなかった。彼は優秀な社員で、いつも自分が配達した肥料や除草剤の効き目を確認するために、後日顧客の元を再訪問していた。村の言い伝えを知らないよそ者の彼だけが、桜の森に入り、倒れていた佐々木を発見することになったのだった。

 

私はかつて桃山家の庭師をしていた男の家を尋ねた。当時のことを、彼はよく覚えていた。

元庭師は、銀狐村の中ほどに、息子夫婦とともに住んでいた。息子夫婦は母屋で、彼は離れで暮らしていた。離れは六畳一間に縁側がついているだけの小さな棲み家だったが、部屋も庭も手入れが行き届いていた。特に庭は、わずか二坪ほどの広さでありながら、築山や川が模して造られ、見事な和風庭園になっていた。枝ぶりの良い紅葉が赤く色づいていた。

「いやあ、粋ですねえ。」

私は縁側に座り、庭を眺めながら、こう言った。

「ははは、全部、私の手造りです。」

そう言いながら、庭師はお茶を入れて持ってきた。

「腕のいい庭師だったんですね。」

と、私は言った。

それから私はお茶を飲みながら、庭師に当時のことを尋ねた。

 「ええ、はっきり覚えていますよ。だって、ものすごい量の除草剤でしたからね、佐々木さんが発注したのは。しかも、一番強力なやつで。」

もうすぐ九十歳になるという老人にもかかわらず、彼の記憶は確かだった。

「佐々木さんが大量の除草剤を手に入れていたことを、あなた以外に、知っていた人はいますか。」

私がそう尋ねると、

「当然、翁は知っていたでしょうなあ。」

と、庭師は答えた。

「園芸資材の支払いは、翁がしていたからですか。」

私が尋ねると、

「それはそうだが、翁はね、いつも見ていたんだ。」

「何をですか。」

「あの森をだよ。」

庭師が答えた。

「翁は、いつもベランダから、森を見ていたんだ。双眼鏡を使ってね。」

私は、主寝室にある、古い双眼鏡を思い浮かべた。あれか。あれを使って、翁はいつもベランダから森を見ていたのか。

「だから、翁は、いつ、誰が森の中に入っていったのか、全部知っていたはずなんだ。それなのに、」

庭師は私の顔をじっと見て、さらにこう言った。

「あのじいさん、佐々木さんが森の中に入っていくのだけは、見ていなかったんだとよ。」

「そうなんですか。」

私が尋ねると、庭師はうなずいた。

「だから、佐々木さんの発見が遅れたんだ。」

そう言うと、庭師はお茶を飲みほした。

「この村の人間は、あの森の奥には入らないからな。誰も探しに行かないし、誰かがあの森に入ることなんて、考えもしない。」

「『風が吹くと、桜の森で人が死ぬ.』からですか。」

私が言うと、庭師はうなずいた。

「そう。もう何人もの人間が、あの森で亡くなっている。」

「ええ。」

私はうなずいた。

「実は、私がなぜ、佐々木さんのことを調べているのかというと、」

私が言うと、

「それは、あんたが、あれは事故ではないと思っているからだ。」

庭師が言った。

「わかりますか。」

私が言うと、庭師はうなずいた。そして、

「同じだと思うよ。」

と、言った。

「村中みんな、同じことを考えていると思うよ。」

村中、みんな、同じ……

私は庭師のことばを噛みしめた。

「犯人はあいつだよ。あ、い、つ。どういう方法で、なぜ、そんなことをするのかはわからないが、事故でも偶然でもない。犯人は、翁だよ。」

庭師は言った。

「だから、俺はあの家の庭師を辞めた。」

私は黙って庭師の言うことを聞いていた。

「もしかしたら、」

と、庭師は言った。

「もしかしたら、翁は、その時は、ベランダにはいなかったのかもしれない。」

「その時って、いつですか。」

「佐々木さんが、亡くなった時だよ。」

私は絶句した。

「その時、翁はあの森の奥にいたのかもしれない。」

庭師の話を聞いているうちに、私の脳裏に、その時の情景がありありと浮かんできた。


 佐々木は除草剤を撒いて、『大魔王』を枯らそうとしていた。園芸社から大量のアトラジンを受け取った佐々木は、それを森の奥に運んだ。

 翁はそれをベランダから見ていた。

 佐々木が軍手をはめて、アトラジンを撒こうとした時、

 「何をしているのだ。」

 背後から、翁の声が聞こえてきた。佐々木が振り向くと、翁が立っていた。翁は手を後ろに組んで、佐々木を睨み付けていた。

 「これから除草剤を撒きます。」

 佐々木は言った。

 「ほう。なぜ。」

 翁の目はぎらぎらと光っていた。

 「『大魔王』を枯らすためです。」

 「どうしてそんなことをするんだね。」

 「しらじらしい。」

 佐々木は吐き捨てるように言った。

 「何だと。」

 翁の目がさらに光った。

 「あなたですよね、森の奥に、この『大魔王』を繁殖させたのは。」

 「さあ。そんなこと、わしは知らんよ。」

 と、翁は言った。

 「『風が吹くと、桜の森で人が死ぬ』。村人たちがそう言っているのを、あなたは聞いたことがありますか。」

 佐々木がそう言うと、翁は笑った。

 「翁、よくもやってくれましたね。」

 「何だと。無礼だぞ、さっきから。私はお前の雇主だぞ。」

 翁が気色ばんで言った。

 「もうお断りですよ、そんなこと。私はここを出ていきます。もう、青い桜の花の研究はしません。」

 「じゃあ、今すぐにここを出ていけ。」

 「ええ、出ていきますとも。でも、その前に『大魔王』は残らず処分します。」

 「そんなことはさせない。」

 「止めても無駄です。私はやります。『大魔王』がある限り、また、人が死ぬからです。」

 すると、 

 「君は何を言っているのだね。そもそも『大魔王』って、何だ?」

 と、翁が言った。翁は相変わらず、腕を後ろで組んだままだった。

 「何をとぼけているんですか。このトリカブトに『大魔王』という名前をつけたのは、あなただ。」

 佐々木が言った。

「いや、私ではない。私は何も知らない。」

 翁はなおもそう言った。

 「私がこの『大魔王』の毒性を説明したら、あなたは『素晴らしい。このトリカブトを使えば完全犯罪で人が殺せる』と言った。」

 佐々木が言うと、

「私はそんなことは言っていない。それとも、私が言ったという証拠でもあるのかね。」

 と、翁は涼しい顔で言った。

「何ですって。」

「私は何も知らないよ。そもそも、毒性の高い『大魔王』を開発したのは、君だろう。私にはそんなことはできない。そして、君はその『大魔王』を管理していた。私がどうやったら、君の目を盗んで、あの温室から『大魔王』を盗み出せるというのだね。君は研究室の玄関に、特殊な鍵をつけ、自分だけがその鍵を持っていた。」

 そう言うと、また翁は笑った。

 「つまり、あそこに『大魔王』を植えることができたのは、君だけだ。」

 「何を言う!私ではない!こんなひどいことができるのは、あなたしかいない。」

 佐々木は怒鳴った。

「私に罪をなすりつける気か!この悪党め!この人殺し!」

 激高した佐々木は大声で怒鳴り続けた。

 その時、翁は後ろから両手を伸ばした。彼は右手に『大魔王』の花を持っていた。翁は左手で佐々木がはめていたマスクを外すと、彼の顔に『大魔王』の花を押し付けた。

 あっという間だった。佐々木は『大魔王』の花粉を思い切り吸い込んでいた。

 数分で佐々木は絶命した。翁は彼の遺体を放置して、屋敷に戻った。



庭師の家から屋敷に戻りながら、私は決心していた。もう、迷っている暇はない。私は明日、とにかく、この家を出る。青子と勝太郎を連れて。準備だの、子育ての環境だのは、あとで考えればいい。たとえ明日、青子が熱を出したとしても、私はこの家を出る。


だが、その前に、どうしてもしなければいけないことがある。あの『大魔王』の始末だ。佐々木博士がしようとしてできなかったことを、私がしなければならない。それが私のここでの最後の仕事になる。

翁は秘密の通路を作ってまで、『大魔王』を盗み出して、恐ろしい森を作った。

もう二度と、この森で人が死なないために、私は明日、『大魔王』を枯らしてから、家を出る。


父のノートは1990年、6月25日で終わっていた。


 父がひとりで失踪したはずはなかった。

 森の『大魔王』は、今も青々と花を咲かせている。


「父が失踪した」と言ったのは、母だ。

「もう2度と帰って来ない」と言ったのも、母だ。


私は思い出した。

ある朝、起きると、父がいなかった。私は家の中を、父を探して歩いた。すると、母がこう言った。

「あんたのお父さんは、この家を出ていったよ。」

「嘘だ。そんなの、嘘。」

「嘘じゃないよ、ほら、どこにもいないだろう。勝手にどこかに行ってしまったのだ。もう、二度と帰って来ないよ。」

「嘘だ、そんなの、嘘だ。」

私は泣きじゃくりながら、父を探してさまよい歩いた。そして、桜の森に入った。今まで、一度も入ったことのなかった森の中に。ただ、おとうさんに会いたくて、その一心で怖い森の中を一人で歩き回った。

「おとうさん。おとうさん。」

鳥居を通り過ぎ、物置小屋を過ぎて、研究所の前まで来た。それからさらに、私は森の奥に踏み込んだ。


私があの森に入ったのは、恐らく、あれが最初で最後だ。

だとすれば、あの穴の底に倒れている人を見たのも、その時だ。

だが、そこまでだった。穴の底に倒れている人を見た、その次の瞬間からの記憶が、私にはない。

 

私は父のノートを握りしめた。


窓の外の嵐は、少し治まってきたようだった。風の音が小さくなっていた。

気が付くと、近藤が正面に座っていた。

「あのう、いいですか。」

近藤が言った。

「大丈夫です。」

私は答えた。

「しかし、顔色が悪いですよ。具合が悪かったら、言ってください。」

「ありがとうございます。でも、本当に、大丈夫です。」

それを聞いた近藤はうなずいた。それからこう言った。

「さきほど、あの穴の底にあった、白骨遺体を収容しました。まだ確実ではありませんが、あの遺体がおかあさんの可能性は低いです。おそらく、あの遺体は男性です。」

「そうですか。」

私は頭がガンガンと痛かった。まるで鈍器で殴られているような痛さだった。私の記憶が、私の推理が、私自身の頭を打ち続けていた。

「……おそらく父だと思います。」

「はい?」

「あの、穴の底にあった、白骨の遺体は、私の父だと、」

そこまでしか言えなかった。私は泣き出した。もう、我慢できなかった。声を上げて、ワアワアと泣いた。

近藤がそっと席を立って、休息室から出ていった。そこに三瓶がやって来た。

「大丈夫ですか、彼女。ずいぶん派手に泣いていますけれど。」

三瓶が近藤に尋ねた。

「ああ、大丈夫だろう。今は、泣きたいだけ、泣かせおこう。」

「いいんですか。放っておいて。」

「ああ、泣けるだけましだよ。」

近藤が言った。

「泣くこともできなくなった被害者を、俺は何人も見てきた。ああやって、感情を吐き出すことができれば、立ち直りも早いだろう。」

それを聞いて、三瓶もうなずいた。


涙も枯れ果てるとは、このことだ。二十分後、私には、もう、流す涙もなくなった。私は泣きやみ、ティッシュで鼻をかむと、決心した。

私がしなくては。父がしようとして、できなかったこと。それを、今からすべて私がやる。

それが私にできる、唯一の父への手向けだと思った。そしておそらくそれは、弟に対する手向けにもなるはずだ。

私は私の手で、この歪んだ水槽を壊す。桃山家の闇をさらけ出す。

私は立ち上がった。

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